第74話 魔女の風邪薬

 サリーさんに熱があると言われても、俺はピンとこない。

「熱、あるってば」

 サリーさんがぼんやりする俺を引き寄せた。

 サリーさんが背伸びして、額をくっつける。確かにサリーさんの額を冷たく感じる。

 だが次の瞬間、状況を理解した俺の心臓は跳ね上がった。


 近い。近い、近いよ。

 サリーさんが目の前だ。目の前過ぎる。


 おでこをくっつけたまま、サリーさんがちょっと得意げに、えらそうに言う。

「ね、クロノの方が熱いわ。濡れた服、着替えなかったの?風邪引いたんじゃない?」

 そういえばそのままだ。俺は風邪を引いたのか。いや、それより今のこの状態の方が断然、俺の体温が高い原因だと思う。


 サリーさんはおでこを離してお姉さんみたいに威張った。

「熱っぽい顔してるもの。ぼんやりするんでしょ」 

 これはサリーさんがこんなことをするからだ。

「さ、さ、サリーさん、ダメだよ、こんなことしちゃ」

 動悸がおさまらず、俺はつっかえながら何とか言った。サリーさんが笑う。

「大丈夫よ、このくらいでうつったりしないわ」

 そうじゃない。サリーさんの距離感は時々おかしい。


「風邪薬は食堂の棚にあるけど……待ってて」

 動揺の収まらない俺を残してサリーさんが部屋に入り、水の入ったコップを持って戻ってきた。

「持っていて」

 サリーさんはコップを俺に持たせ、薬包のようなものを取り出して中の粉をコップに入れた。水がどろりと黒く濁る。

「薬よ」


 こ、これを飲むのか。俺はためらった。何が混ざっているのか、効きそうだが怖い色になっている。

 サリーさんはぐずぐずする俺を悪戯っぽく見た。そしてコップを持つ俺の手を両手で包む。戸惑う俺の前でサリーさんは小さく歌い、ふっとコップに息を吹きかけた。すると、コップの黒い水がすっと澄んだ。

「さっきの薬だけでも効果はあるけど、魔法をかけた方がもっと効くから」

 サリーさんが手を離す。微かに緑がかった水は、さっきの泥のような水からできたとは思えないほど澄んでいた。


 俺はそっと水を飲んだ。少し苦い。けれどほとんど水だ。

「じきに楽になるはずよ。魔女は薬が得意なの」

「サリーさん、今のも魔法?」

「うん。クロノがいると、魔法を使うのがすごく簡単ね。本当にクロノ、魔法使いじゃないの?」

 サリーさんが空のコップに手を伸ばして笑う。俺は少し心配になった。

「サリーさんは、魔女に戻りたいの?」


 サリーさんはちょっと驚いたように俺を見たが、うつむいて少し考えた後、言った。

「戦争に行くのは怖いわ。もう人を殺したくもない。けれど、人の役に立てるのは嬉しい。私は魔女の力以外では人の役に立てないから、だから魔法を使えるとやっぱり嬉しい」


 俺は複雑な気持ちでサリーさんの言葉を聞いた。今のサリーさんが役に立てていないなんて俺は思わないけれど、それなら魔法が使えた方がサリーさんのためなのだろうか。

 しかし、サリーさんの封印が解かれ、魔法を使えるようになったら。

 トマ師は、サリーさんはすごい力を持っていると言っていた。

 強い魔女は薬を作っているだけではきっと済まなくなる。戦争が起きたら戦場に行かなければならないだろう。そうしたら、サリーさんが怖い思いをし、したくないことをしなければならなくなる。

 それならやっぱり、サリーさんには魔法が使えないままでいてもらった方がいいのではないだろうか。


「クロノ。効いてきた?」

 コップを置いて、サリーさんが戻ってきた。俺は我に返った。そういえば、頭がすっきりした。体の痛みも楽になっている。

「効いてきた。すごいね」

 俺が感心すると、サリーさんは嬉しそうに笑った。

「クロノがいてくれたら、私はまた魔女を名乗ることもできそうね。嫁入り道具に持っていこうかしら、あの夜会服と一緒に」


 ぐさりと刺さった。

「その節は、その、大切な夜会服をとんでもないことにしてしまって、あの、本当にどう謝ったらいいのか」

 また変な汗が出てきた俺を見て、サリーさんがこらえ切れないようにくすくす笑う。


「いいの。直して着るわ。クロノが頑張ってくれた証拠だし、お父様がそんなに前から準備してくださっていたなんて。お嫁に行っても、着るたびに今のこの気持ちをずっと思い出せるんだから、嬉しい」

 お父さんの気持ちが伝わったのは良かったけれど、俺のことは思い出さないでほしい。

 本当にきれいなドレスだったから、あれを着て踊るサリーさんを見たかった。こんなビリビリのバリバリのボロボロになる前に。


 ああ、でもサリーさん、またお嫁に行く気にはなってくれたんだな。良かった。

 サリーさんが少しずつ離れていく。ひどくさびしいけれど、嬉しかった。


「じゃ、俺、そろそろ」

 俺は今度こそ忘れ物がないか、ひと通りポケットを確認しながら言った。本当はもう少し話したかったけれど。

「そうね」

 サリーさんも引き止めず、微笑んだ。うん、これでいい。

「薬、ありがとう。おやすみ」

「どういたしまして。でもちゃんと着替えてね。おやすみなさい」

 軽く挨拶して背を向ける。サリーさんは見送ってくれているようだ。俺は振り返り、軽く手を振った。サリーさんも答えて手を振ってくれた。挨拶ならこのくらいだ。もう振り返らない。


 そう決めたのに、階段へ続く扉を開け、俺はもう一度振り返ってしまった。

 サリーさんは泣いていた。

 サリーさんははっとしたようにすぐに顔を背け、部屋に入った。閉まる扉を見つめながら、俺は立ち尽くした。

 

 また風邪を引く訳にはいかないから、俺は何とか風呂や着替えを済ませて、ようやくベッドに潜り込んだ。

 ただただ俺を見つめていた、流れる涙にも気付かないで俺を見つめていたサリーさんの姿が、目に焼き付いている。

 俺はリボンを抱きしめて、また泣きながら眠った。

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