第67話 雨の雫
窓を開けると、青空が広がっていた。
「クロノ、どうか、お願い。カズミと私を助けて。そして無事に帰ってきて」
空を宿したような美しい瞳でサリーさんは俺を見つめ、そして目を閉じた。
サリーさんが不思議な歌を歌い始めた。細く、しかし伸びやかな声。
部屋の空気が変わった。帯電したように、皮膚の表面がチリチリする。
これが魔法か。
握りしめた手を震わせて、サリーさんが歌う。俺は空を見た。空はサリーさんの歌を吸い込み、どこまでも青い。
サリーさんが歌い続ける。繰り返し同じ歌を歌っているようだ。高音がきれいに伸びる。低い声もしわがれたりすることなく、艶がある。裏声や掠れ声は技術なのか、聞いているうちにタイミングがわかるようになってきた。
サリーさんが歌い続ける。目を閉じたままうつむき、顔を上げて空を見つめ、祈るように歌う。サリーさんはもう汗だくだ。空は青いままだ。
どうして。どうか、どうか、魔法を。
歌うサリーさんが心で叫んでいる。空は、青い。
諦めずに何度も、サリーさんが歌う。苦しいのだろう。体が声を絞り出すように前屈みになっている。
「足りない、力が足りない、依代がほしい」
サリーさんがうめく。
「依代?」
「何か、力のある石、思いのこもった石があれば。そう、そうだ、指輪、でも、あれは。でも……」
サリーさんが両手を頬に当て、しかしほどなく顔を上げた。
「クロノ、さっきの指輪を出して。もう、それしかないわ」
俺は指輪を出そうとして内ポケットに手を入れ、はっとした。
「サリーさん、これ、これはどうかな」
急いで包装をはがし、簪を取り出す。
サリーさんの淡い青色の瞳に似ていると思った、透明だが奥がどこか青い美しい石。そんなに高級なものではないらしいが、……俺の思いのこもった石。
指輪なら間違いなく役目を果たせそうだが、サリーさんの様子から、取り返しのつかないことにもなりそうな気配がした。だから、もう贈ることができないこの簪が役に立つなら。
「どうして、クロノがこんなものを」
簪を手に取ったサリーさんは荒い息をつきながら、一瞬夢から覚めたように呟いたが、すぐに元の鋭い目に戻り簪を床の模様の真ん中に置いた。
「レインドロップね。おあつらえ向きよ」
レインドロップとは石の名前だろうか。何でもいい、サリーさんの力になりたい。
サリーさんが再び歌い始める。俺は祈った。
俺の思いが、サリーさんには届かなくても魔法の神様には届きますように。その石が、魔法の神様にサリーさんの歌を届けますように。
心なしか、空がうっすら曇ってきたように見える。しかしまだ雲は高い。
サリーさんは何度も繰り返し歌った。合間にサリーさんが必死に呟く。
「雨、雨よ、雨よ降って……!」
歌は何度となく繰り返される。
数えきれないほどの試みがなされ、遂に歌う声が途切れそうになり、サリーさんの体がふっと傾いだ。
「危ない!」
そのままでは倒れそうだったサリーさんを何とか抱き止める。サリーさんの体がひどく熱い。俺は倒れかけたサリーさんを助け起こし、抱きしめた。
「サリーさん、頑張って、つらいよね、ごめんね、でもお願いだ、頑張って」
一瞬意識を失ったようだったサリーさんはすぐに大きな目を見開いた。俺が離れる間もなく歌い出す。
俺の体の中で、何かが走った。
サリーさんも歌いながら俺を見た。この感覚、サリーさんにも伝わっているのか。
俺の中の何かが、俺には制御できない力が、サリーさんの歌に導かれている。
「クロノ、そのまま、手を離さないで!」
歌の合間にサリーさんが叫び、サリーさんは今までより朗々と歌い出した。
サリーさんの歌が部屋に満ち、窓から外へ広がっていく。俺の中の何かがサリーさんの道標になっている。
そうだ、俺は魔女の祝福でサリーさんの力を分け与えられ、生きている。この命はサリーさんのものだ。
その俺の命に宿った魔力を、今サリーさんが使っているのだ。俺は封印されていない。サリーさんが自由に使えるはずだ。
サリーさんが解き放たれたように歌う。俺は窓の外を見た。
空がかき曇り、暗く沈み始めた。
サリーさんは俺と手をつなぎ、歌い続けた。歌はみるみる雲を呼び、重く垂れこめさせる。
ぽつり、と雨の雫が落ちた。
ぽつり、ぽつりと降り出した雨はすぐに勢いを増し、屋外の人々は空を仰ぐと一目散に屋内に退避し始めた。
霧が出てきた。霧が濃く寄せ集まり、窓から、遠いベランダをつなぎ始める。
サリーさんは歌い続けた。
雨が音を立てて視界を覆い隠し、霧の道が一層白く浮かび上がる。
「あれよ、クロノ、行って!」
土砂降りの音をサリーさんの声が裂いた。
手を離した途端に雨足が弱まる。俺ははっとしてサリーさんを案じたが、それより早く行かなければならない。
俺は窓から飛び出した。
霧の道は窓と同じくらい、1メートルに満たないくらいの幅でベランダまで続いている。1歩目を踏み出すのは怖かったが、考える時間がないのが却って良かった。
霧の上に立つと、思ったよりしっかりしていた。2、3歩足を踏み出し、いけると確信できた。
俺はがむしゃらに走り出した。雨はますます弱まる。サリーさんが心配だが、振り返るとバランスを崩しそうだ。ただでさえ雨で滑るし、メガネに水滴がついて見えにくい。とにかく早く。進むしかない。
霧の道はサリーさんの部屋の窓と王様の執務室のベランダをつないでいる。幅は1メートルくらいで。
「うわ!」
俺の足が突然中空を踏み抜いた。サリーさんの悲鳴が小さく聞こえる。
「クロノ!」
「大丈夫!」
俺は答え、何とか霧にしがみついて体勢を直した。
霧の橋はもう三十センチの幅もなく、しかもところどころ薄れてまだらになっていた。雨が弱いのだ。
サリーさんが必死に雨を呼ぶ歌を歌い続けているのが微かに聞こえる。雨はどんどん弱まる。
俺は何とか歩を進めた。もう走れない。霧の橋は雨が弱まるにつれ薄れて細くなっていく。
あと少し、もう少し、もう少しで、
「わあ!」
道がない!
霧の底が抜けた。俺は咄嗟に手を伸ばしたが、霧は俺の手をかすめて消えた。
落ちる……!
思った瞬間、突き飛ばされるような強い衝撃が俺を襲った。
俺はもんどり打ってベランダに叩きつけられた。勢い余って転がり、ベランダの柵にぶつかってようやく止まる。
「……むぎゅう」
変な声が出、体がひどく痛んだが、俺はベランダにたどり着いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます