第61話 君の将来、大人の責任

「好きよ、クロノ。あなたを忘れるなんてできない。あなたがいなければ私、体だけ無事でも生きていられない。あなたのためなら、私のものは全部差し出せるわ」


 サリーさんが俺にしがみついて叫ぶ。俺は呆然としていた。

 サリーさん、君も俺が死ぬのが怖いのか?俺のいない世界は耐えられないのか?

 そんな、そんなこと、まさか。


「クロノ、あなたも私を好きって言ってくれたよね。あの時、そう言ったよね。あんなに大変な時だったのに、思いが通じて嬉しかった。あなたを助けて死ねるならそれで良かった」

 サリーさんの目が俺をひたと見つめる。こんなに真っ直ぐ見つめられたことは、なかった。

 俺は息を飲んだ。

 ダメだ、そんな、俺なんかのために。サリーさん。

「でも、私は魔法は使えなくて、だけどあなたは助かって、またこうしていられる。嬉しいの、幸せなの。お願い、抱きしめて」


 俺は動けなかった。

 恋の練習は俺が本気でサリーさんに恋をしても、いつかサリーさんの目が覚めて、それで終わると思っていた。

 サリーさんは例え俺を好きになった気がしても、若さ故の過ちのような、麻疹はしかのような恋をして、我に返る。それが当たり前だと思っていたのに。


 俺の心がどこか遠くで人ごとのように、愛する人の告白に幸せを感じ、喜んでいる。


 まさか。


「クロノ、お願い」

 サリーさんが必死に俺を見つめる。


 サリーさん。ずっと子供だと思っていたのに、君はいつの間にか大人になっていた。命懸けの恋ができるくらいに。

 でもサリーさん、君は子供だ。大人の女性は、そう思っても本当に命を懸けたりしないんだ。


 どうして、君は俺にそんな思いを持ってしまったんだろう。君は、俺は、わかっていたはずなのに。

「クロノ、お願い、私だけを見て。私の全てを受け取って。あなたとでないなら私、一生結婚なんてしない」

 サリーさんが俺にすがる。温かく、華奢で、柔らかい。


 ああ、サリーさん。君はお嫁に行くんじゃなかったのか。それが君の責任で、君はそのことを納得していたのに。

 投げ出してしまうのか。投げ出してしまったことの後悔を、これから一生抱えていく覚悟をしてしまったのか。

 体を張るくらいしかできない俺のために、君はそんな重荷を背負うのか。


 頭が痺れる。

 どうしたらいいのか考えなければならないのに、今なのに、考えられない。最善を尽くせない。

 俺の心のどこかだけが、ふわふわ喜んでいる。


 音楽は気づかないうちにやんでいた。外からの声ももう聞こえない。

「クロノ」

 サリーさんが囁く。月の光で冷たく照らされたサリーさんの淡い瞳は、熱にうかされたように潤んでいる。サリーさんの望む言葉を俺が口にするのを、疑いもしないで待っている。

 考えろ。どうすればいい。俺がどうしたら、サリーさんは一生後悔する選択をしないで済むんだ。


 頭が痺れる。

 サリーさんがあんまりきれいだから。

 このまま抱きしめてしまいたい。


 何もかも投げ出せるなら、俺ならそれでいい。

 けれど、サリーさんはきっといつか後悔する。投げ出し、責任を全うできなかったことを後悔する。

 その苦しみを承知の上で、俺を選ぶことを決めてしまった君を、どうすれば翻意させられるだろう。どうすればサリーさんは間違わないのだろう。


 動かない俺を、サリーさんが焦れたように引き寄せた。サリーさんが背伸びをする。


「俺、好きな人ができたんた」


 唇が重なる寸前、俺は言った。


「え?」

 背伸びをやめて、サリーさんが俺を見つめる。俺は少し後ずさって体を離し、言った。

「ごめん、言うのが遅くなって。俺、本当に好きな人ができた」

「それは、私でしょ?」

 サリーさんが困惑したように言葉を返す。俺は首を横に振った。

「違う。町で会った人だ」


「いつ」

「メガネを作っている時」

「あんな短い時間で?」

「運命だと思う」

 嘘がすらすら出た。サリーさんがかぶりを振る。

「嘘よ。だって、さっきまで少しもそんなこと言ってなかった。クロノが好きなのは私でしょう」


「違うよ、あれは間違いだった。ごめん」

 間違い、とサリーさんが呟く。

「嘘よ。そんな人いないでしょう。どんな人なの」

「黒髪の、サリーさんより大人の女性」

 サリーさんとはなるべく逆の特徴を考えて話す。

「嘘」

「ごめん、俺はその人のことが好きになったんだ」


 サリーさんの目がやっと驚いたようにまるくなった。やっと信じた。

「そんな、嘘」

「ごめんね」

 何の感情もなく言いながら、俺はこの咄嗟の嘘で行くことにした。


 約束したから。

 好きな人ができたら恋人の練習なんてやめよう、って。


「嘘、いやだ、そんなの」

 サリーさんがゆるゆると首を振る。俺は尋ねた。

「約束、覚えてる?」

 サリーさんは答えず、揺れる目をいっぱいに開いて俺を見つめた。

「クロノ、私を好きだって、好きだって言ったわ」

「あの時はそう思ったけど、でも、あの時は普通じゃなかったから」

「……そんな」

 サリーさんの目から涙が溢れた。俺はただそれを見ていた。俺はいつからこんなに嘘がつけるようになったんだろう。


 サリーさんが途切れ途切れに訴える。

「私、あなたが好きよ。あなたが他の人のことを好きになるなんていやだ。私を好きになって。どうすればいい?」

「君はそのままでいい。……俺は、年が釣り合う人の方がいいんだ」

 本音が出て、慌ててごまかす。もちろん平静を保ったままで。俺のために君はこれ以上変わらないでほしい。年齢だけはサリーさんでも何ともならないだろう。


 しかしサリーさんは引かなかった。

「私も大人よ、釣り合うわ。クロノなんて大人のフリをしてるだけじゃない」

 こんな時なのに、俺は思わず小さく笑ってしまった。

 確かに俺は大人のフリをしているだけかもしれない。表面だけ懸命に取り繕っているだけで、心の中はちっとも大人らしくなれない。


 けれど、大人が若い君の将来を守らないでどうするんだ。


 君は思う通りにしていい。俺をそこまで思ってくれるのはやり過ぎだけど、それでもいい。

 それでも最後は、間違わせない。俺が見ていて、君を守る。どうしたら君が幸せになるかを誰よりも考えて、必ず君を守る。


「クロノ、好きよ。何でもするわ、私を見て、好きになって、お願い」

 涙を拭いもせずにサリーさんが懇願する。

 うん、サリーさん。俺も君が好きだよ。何もしなくていい。そのままの君が大好きだ。

 君のためなら何もいらない。

 君ですら。


「恋人の練習は終わりにしよう」


 告げると、サリーさんは立ち尽くした。

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