本編

第1話 突然

 俺はビールが飲めない。


 酒が飲めない訳ではない。晩酌は毎日するし、実家は国産ワインが有名な土地だ。

 そう、俺だって財布と明日の仕事を気にせず好きな酒をいくらでも飲んでいいなら、地元のお気に入りの小さなワイナリーの蔵出し(ワインでもそう言うのかな)を毎晩飲むさ。

 そうはいかないからペットボトルのお茶より安い缶のチューハイを、ポイントデーに合わせて買いだめしてる訳で。


 昔のおじさんがもうおじいちゃんになった昨今、飲みニケーションとやらを若手に解説するのが俺の役目になって久しく、理解してもらえなくなって久しく、そのためにおじいちゃんの愚痴を聞かせられる係になって久しく。


 そうしたおじいちゃんはビールと日本酒しかない店で飲むのが好きだ。俺はビールが飲めないし、日本酒は飲めるけれどすぐ酔ってしまうので好んでは飲まない。

 焼き鳥がいくらうまくても、飲み屋である以上、好みの酒がないとなかなか進まないものだ。


 だいたい駆けつけ何たらとか言って最初に乾杯のビールを飲まされたから、具合が悪い。ビールはいったん俺の腹に収まったものの、ものの5分でビールのまま吐き出されてトイレに流された。飲めないって言ったのに。


 お陰で今日は最初から悪酔いしている。せっかくの焼き鳥もおいしくないし、日本酒もしんどい。耳からはおじいちゃんの愚痴。楽しく酔える要素がまるでない。

「おい黒野くろの!聞いてるのか!もっと飲め!」

「はい、聞いてます、もう飲めないすよ。わかったからそろそろ帰りましょうよ」

「何だだらしねえ。俺の若い頃はな」

 仕事は、先輩の背中を見て殴られながら覚えたもんだ。

 何十回、もしかしたらもう何百回聞かされただろう。そして俺はその回数だけ、今はもう俺の若い頃じゃねえんだよ、の言葉を飲み込んできた。

 普通に教えろ。習っとけ。そんなだから今でもオレ流とか言って、非効率な仕事の仕方を直しもせずにえらそうにしていられるんだ。若い奴らが煙たがるのも仕方ないじゃないか。


「おい黒野!聞いてねえだろ!酒も全然減ってねえじゃねえか!大将、こいつにじゃんじゃん注いでやってくれよ!」

 やめてくれよ。割り勘じゃないか。

 俺はカウンターの中で焼き鳥を焼いている大将に、苦笑して首を振って見せた。

 大将は軽く頷き、冷蔵庫から酒の瓶を出し、コップに注いで俺の前に置いた。俺は戸惑いながらコップに口を付けた。

 あ、これ、水か。

 大将を見ると、大将は無骨な職人らしい笑顔をちらと見せ、焼き鳥を焼く作業に戻った。渋いなあ。

「黒野、だいたいな、お前が甘やかし過ぎるから若い奴らが生意気になるんだよ。俺の若い頃はな……」

 俺は相槌を打ちながら時計を盗み見た。早く帰りたい。


 結局俺が解放されたのは、それから2時間も経ってからだった。


 ビールを飲んでから俺の腹は殆ど仕事をせず、食べたり飲んだりしたものはほぼ消化しないで全部戻した。おかげで明日は楽だろうが、今がつらい。気持ち悪い。

 また吐き気を催し、俺はあわてて電柱に手を付いた。

 げええ。

 もう水分しか出ない。スポーツドリンクでも飲んでおかないと、脱水症状になりそうだ。


 そう思いながら顔を上げた俺は、まっすぐこちらに突っ込んでくるヘッドライトに視界を奪われ、真っ白な世界の中で呆然と立ち尽くした。



 いつのまにかきつく目を瞑っていた。

 下半身が冷たい。え、もしかして俺。

 俺は焦って目を開け、下半身を確認した。

 濡れている。が、濡れているというかむしろ浸かっている。膝をつく形で、腰まで水に入っている。崩れたネクタイの先が水に浮いている。

 あれ?

 まわりが明るい。俺がいるのは、白っぽい、浴槽?

 俺、さっきまでどこにいたっけ?こんな、お風呂みたいなところにはいなかったはずだ。しかし服装はさっきまでと同じスーツだ。お風呂に服で入っている。しかも冷たい。水風呂だ。

 俺は顔を上げ、きょろきょろ辺りを見回そうとして、最初の「きょろ」で固まった。


 おっぱい。


 肩を抱くようにした剥き出しの細い腕と白い長い髪に覆い隠され、そのものは見えないが、間違いない。控えめではあるが間違いなく女性らしい柔らかそうな、おっ……

 目の前に裸の女性がいた。

 驚愕に目を見開いた、髪の長い女性。手と髪に覆われて裸体はよく見えないが、肌も髪も真っ白で、眩しいくらいだ。が、目を凝らしている場合ではない。


 俺は目をそらすか瞑るか迷い、とりあえず開いた口を閉めた。同時に相手が口を開いた。

「きゃあああ!」

 そりゃそうだよな。

「そうですよね、そうなりますよね、でも俺、怪しい者ではありません!」

「誰か、誰か来て!」

 彼女から見たら怪しい者でしかないであろう俺は、とにかく目を瞑り背中を向けることにした。


 その俺の背中にゴン、と、目の前に転がってわかった、風呂桶がぶつかる。

 どうしたらいいんだ、何だこれ、俺何やってるんだろう。また頭に何かぶつかる。薄目を開ける。石けんだ。

「ごめんなさい、俺も何だかわからないです、とにかくやめて、冷静に、いてっ」

 ゴイン。首が衝撃に負け、頭が前に飛んだ。ボトルだ。陶器じゃないだろうか。

 これがシャンプーボトルだとしたら、女性の場合きっと似たトリートメント用のボトルをもうひとつ用意しているはずだ。俺はあわてて振り返った。あんなのまともに食らったら、下手したら死ぬ。


「きゃあ!こっち見るな!バカ!変態!」

「それ!それ投げないで!」

 思った通り今にもボトルを投げそうな彼女から、俺は必死に逃げ出した。

「姫!何ごとですか!」

 風呂場の外から女性の声がする。

「曲者よ!殺して!」

「そんな!」

 振り返った俺にボトルが直撃し、目の前に火花が散ったあと真っ暗になった。

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