第3話
彼は私より3つ歳上で、私は恭ちゃん(フルネームは佐々木恭一)と呼んでいるのに対して、彼は私のことを美里さん(“みさと”じゃなくて“みり”と読む)と呼ぶ。もう付き合い始めて2年経つのに最初の呼び方と変わっていない。
出会いは3年前だった。私は原付バイクで走っていた所を運悪く、脇見運転の車にぶつけられるという事故に遭い足を大きく骨折した。入院して手術をした後に社会復帰をするには運動機能のリハビリが必要と言うことになり、住んでいる所から割と近くの温泉地にある機能回復の専門病院に転院した。その病院の社会福祉士として働いていたのが彼だった。所謂メディカルソーシャルワーカーというものだ。
私の担当となり、転院時の説明から退院の支援まで色々と相談に乗ってくれたとても優しい人だった。もちろん私が患者だから優しくしてくれたのだろう。けれど、その時の私は事故後の不安定な精神状態だったせいか、その優しさにとても救われたのだ。彼とは入院中にたくさん話をした。話すきっかけを捻出した成果もあり他のどの患者さんより話せていたと思う。
私は彼のことが本当に好きになっていた。
退院した後も、また会って話がしたい。その想いは退院して会えなくなると日増しに強くなり、退院後の外来受診の時に思い切って声をかけ、一緒に食事に行ってほしいと誘っていた。自分でもビックリするほどの押しの強さだった。
彼はいつもよりも柔らかな笑顔で即座に承知してくれた。もう胸がいっぱいになり、それだけで幸せに感じるなんて、どれだけ乙女だったのだろう。今では考えられないかな。でも、彼への想いはもっと今の方が強いと思う。それから少しして付き合うようになり、今では彼も私を深く深く愛してくれいて、先日プロポーズをされたばかりだ。
私が彼を好きになったことは、間違っていなかった。
この家を出て正解だったと改めて思う。
【火曜日】
今日は、昨日とは一変して雨模様だ。
昨日の天気予報は昼前から雨が降り出すと言っていたけれど、だいぶズレたようで夕方からようやく曇りだし、夜遅くに降り出した雨は今朝になってから風を伴い季節外れの台風のようだ。
あんなに暖かでポカポカと日向ぼっこが出来ていたことが嘘のように部屋の中はどんよりとして暗い。
弟は仕事へ、父は「こんな天気になるなんて」とぼやきながら用事があると言って先程出掛けていった。
待ち構えていたわけではないけれど、“鍵”の捜索を早くしたかった。直ぐにでもやりたかったけれど、母が亡き後弟がやることになった家事を私が居るうちはと、引き受けたからにはちゃんとやらないと、と早々に片付けてしまうことにした。
台所の片付け、掃除、洗濯、ようやく終わった頃にはだいぶ風は弱くなってきたようだ。あんなに大きかった雨音も今ではほとんど聞こえない。
静かだ。そしてこの家には私しかいない。
二階の奥の部屋は物置状態になっている。元々は母の部屋だった所だ。誰も使わないから、いつの間にか物が増えてしまっていた。この部屋のおかげで、他の部屋がすっきりしているのかもしれない。
中から脚立を持ち出し、踏み外さないように階段を降りる。うちは階段も広い。子供の時には横に寝転がることができたくらいだ。広いからこそ、踏み外したら止まることなく下までそのまま転がり落ちてしまうだろう。一歩一歩慎重に脚立を運んだ。
“おばあちゃんの部屋”に入り、脚立を組み立てて登ってみる。3段くらいの高さがこんなに怖かったっけ。高所恐怖症ではないけれど、人間は慣れない感覚には抵抗があるのかもしれない。普段見ることのない高さで部屋を見渡す。違う部屋に居るみたいだ。
さて、長押には壁から少し隙間がある。その隙間に手を入れて指先に当たる感覚を頼りに鍵を探し始めた。きっと手が汚れてしまうだろうと、ビニールの手袋をはめ、埃やゴミが出てくるかもしれないとハンディ掃除機とゴミ袋も用意した。準備万端な自分の格好に一体これから何をするのかとちょっと笑えてきた。
さて、入り口付近から始めるかな。
やはり綿埃が多かった。掴んでは掃除機で吸い、京壁の砂がこぼれて塊になっているような物が出てきてはゴミ袋に入れた。おおかたその繰り返しだった。もうここからは出てこないのかもしれない。
3分の2を過ぎたあたりでやけっぱちになってきた。これは大掃除だ!私はこの部屋を綺麗にしているんだ!と、ムカムカとしてきた胸を抑え自分に言い聞かせていた。床の間の上は長押になっていないからその部分は飛ばして、最後の南側にかかる頃、どうやら雨が止んだらしく、障子に少し陽が当たり出した。
あと少し。どうかありますように。
気を取り直して、手を入れる。綿埃、そしてまた綿埃。ついに最後まで鍵は出てこなかった。
「そんな筈は‥、じゃあ、一体どこに?」つい、溜息と声が漏れる。
脚立から降りて暫く放心状態で、箪笥を眺めていた。おばあちゃん、お母さん、いつも何処に鍵を仕舞っていたのよ、教えてよ!
探していない場所はもうない筈なのに、どうしても出てこない。段々と苛立って来た。
とにかく、片付けて原点に帰ろう。そう思い、脚立も掃除道具も、ゴミも片付けて手も良く洗い。また部屋に戻ってきた。
部屋の真ん中に体育座りをして、少しずつ、体を回転させて一回り見渡した。何か気がつくことはないか、心を落ち着かせてみた。
箪笥!動かしてみた、裏にも下にも何もなかった。
仏壇!流石に重くて動かせない。中の物をどかしてみたけれど出てこない。写真はそのまま飾っているので写真立てと写真の間に挟まっているなんて事もない。
文机はこれ以上引き出しは無いし、下から覗いてみてもテープで貼ってあることはなかった。
床の間の壺!覗いてみてもやっぱり中が黒いだけで見える底には何もない。持ち上げてみると結構重い。割れば出てくるのかと思ってみたけれど、それじゃあ出し入れ出来る所には当てはまらないから問題外だ。
ふと傾けた時にカタッと音がしたような気がした。反対側に傾けてみたら音がしない。またさっきと同じ向きに傾けてみた。カタッと小さく音がした。これはどういうことだろう。壺を目の上まで持ち上げて外側の底を見てみたけれど、何もない。誰かの作だろう名前が記されているがミミズが這ったような字で読むことはできない。
下に置いて手を入れてみた。子供の頃は拳が入るくらいだと思っていたけれど、結構狭いから指先を伸ばして窄めることでぎりぎり入った。手首まで入れば中は広いく、手を開くことができた。
中の底を触ってみたが平で何も無い。底の端を触ってみる。底から側面はなだらかに繋がっているはずなのになにやら境目がある。これだ!
境目に爪を引っ掛ければ捲れるのだろうか。なかなか上手くいかない。手がようやく入るくらいだから手を入れた状態では壺の中を見ることは出来なかった。指先の感覚を頼りに慎重に触ってみる。
少し指先で押してみたら、底の面が少し傾げた。押して下がった方の反対側が持ち上がっているらしく隙間ができていた。そこだ、そこからなら捲れる。指を離せば元に戻ってしまうから、何度も何度も押しては反対側へ、押しては反対側へと指を動かし、何度目かでようやく隙間に指を入れられた。そしてついに捲ることができた。
鍵があった。
手を入れたままでは鍵を摘んで出すことができなかったから、一回鍵から指を離し、壺から手を出して中を覗いてみた。ちゃんと鍵はある。良かった。手を離した途端にまた隠れてしまうのではと心配した。
捲って現れた底の部分は半分だけ窪んでいて、そこにほんの少しだけあるスペースに鍵は収まっていた。だからツボを傾けた時にほんの少ししか音がしなかったのか。
慎重に両手で壺を持ち、ゆっくりと逆さまにして鍵を取り出す。畳に落ちた鍵は古さを感じさせないほど銀色に美しく光っていた。
古い箪笥のものとは思えないその鍵は、もしかしたら別のものを開ける鍵なんじゃないかと不安になった。それはそれで、また違った好奇心が湧くのだろうが、今はそんなことを考えられる余裕はなかった。
ちゃんと鍵穴に合うか確かめないと。
右手に鍵を持ち箪笥の前まで移動した。その短い距離なのに爪が食い込むほど強く握りしめていた。
少しドキドキする。ワクワクなのかもしれない。中にあの本が入っているのだろうか。本の中身は何でも良いのだ。あの綺麗なカバーが手に入るのなら、子供の頃から欲しかった、あの頃どうしても手に入れることができなかった物が手に入るのならと、少し震えてきた。
たとえそれが他愛のないものでも、どうしても手に入らないとなると価値がぐんと高くなる。普通にそれに出会っていたのなら、それほど欲しいとは思わなかったかもしれない。特に子供の時の憧れのようなものは、特別なのかもしれない。
そっと鍵穴に刺してみる。ちゃんと奥まで入った。
次に回してみる。ちゃんと回り、カチッと気持ちの良い音がした。この鍵で合っていたのだ。
ゆっくりと引き出しを手前に引いてみる。それほど幅も奥行きもない引き出しを半分ほど引き出した所で手を止めた。
ハンカチが拡げた状態で中の物の上に置いてある。それが何かわかっていながら、何が出てくるのかわからない時のような感覚で恐る恐る捲ってみた。
ああ、本だ。綺麗なカバーがかけられている本だ。
それは数冊あり、異なった柄でそのうちの何冊かは見覚えがあった。
ようやく出会えた。暫く眺めた後、手に取って撫でていた。祖母がいつもみていた本、そして、母が隠していた本。一体何が書いてあるのだろう。と、ようやく中身が気になりだした。
そこで、私が母に隠れて見たあの本、あの柄のカバーがしてある本が無いことに気がついた。
そう言えば弟が、母が亡くなった時に持っていた本が無くなっていると言っていたのがあの本だったのだろうか。
手に取った本を開いてみた。やはり小説のようだった。パラパラと捲って見たけれど、挿絵はなかった。他の本も、どれも文字ばかりで絵はなかった。何の話なのだろう。題名はどれも難しそうなものばかりで普通なら手に取って読もうとは思わなそうなものばかりだった。
気がつくと雨はあがりスッキリと晴れたようで、窓から沢山の陽が差し込んでいて暖かくなってきた。
ちょっと寝転がって、一冊読んでみようか。面白ければカバーを剥がさず本ごと貰ってしまおう。
私は、畳の匂いとお日様の光を纏いながら本を読み始めた。
第4話へ続く
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