第四話 ここに居させて①

 五月半ばを迎えようとしていた時分、真琴は不動産屋から取り寄せた物件の情報誌を眺めていた。

 家を失って早三ヶ月が経過し、異動先での仕事にも慣れ始め、そろそろ自分の家を探さなければと考えていた。

 元々住んでいたのはボロアパートだった真琴にとって、職場に近く、家賃が安いということが譲れない条件であった。

 真剣な表情で、情報誌に載っている全ての物件に目を通す。

 複数枚に渡る情報誌を乱雑に机に広げていたので、奏がそのうちの一枚を拾い上げる。


「次の家を探しているの?」

「そ。いつまでも甘えてるワケにもいかないし、ここに居たら感覚が麻痺しちゃう」

「……」


 数秒経っても奏の返事が無いので、顔は情報誌に向けたまま、視線だけを奏の方にやる。

 すると、奏の表情はこれ以上ないくらい沈んでおり、密かに零れた涙が頬を伝っていた。

 真琴はそれを見て目をまん丸と見開いた。

 奏の涙――というより、親族以外の男性が涙を流す姿を初めて目撃し、どうして良いものかわからなくなって固まってしまう。


「寂しい」


 ぽつり、と奏は呟いた。


「いや、ちょっと、大袈裟……職場も近いし、一生会えなくなるわけじゃないでしょ……元の生活に戻るだけ……」

「今の生活が良い」


 奏は我儘を唱えるように続けた。

 ソファに座る真琴の横に座り、距離を詰めて、潤んだ瞳で真琴を見つめる。

 これは奏が自分の意見を押し通すときに使う常套手段だと、この頃の真琴には理解できていた。


「でも、恋人でもない男女がずっと一緒に暮らしてるのは……やっぱり、おかしい、と思うの。世間の目もあるし……。そのあたりが、麻痺しちゃってる」

「恋人だったら良いの?」

「恋人同士だったらそりゃ……本人達の自由だろうけど」

「どんな関係でも本人達の自由だと思うけど」


 とんでもなく正論をぶつけられ、真琴は言い淀む。


「それでもやっぱり、一度フラットにして考えたいの。……いろんなことを」

「真琴が新しい家で一人暮らしをしたいと言うなら止めないよ。ただ、僕も一緒に探すのを手伝わせて」

「……わかった」


 想像以上にあっさりと奏が引き下がったので、それくらいのことは良いかと真琴も譲歩する。

 二人は机に散らばった不動産情報誌を一枚ずつ手に取り、どういう条件が良いとかを話し合いながら見比べていた。

 その中で三棟の候補が上がり、早速週末に物件見学の予約を取った。勿論、奏付きで。




*  *  *



「思ったより日当たりが悪いですね、ここ。それに水回りの清潔感が感じられない。病気になりそうです」


――次


「前の住民はタバコを吸われてたんですか? 少し臭いが残っている気がします。これだと衣類にも臭いが移ってしまいますよね? せっかく新しく買った洋服がこれじゃあ台無しになりますね」


――次


「家賃上仕方ないですが、セキュリティが甘いし壁が薄すぎます。確か、この部屋の隣って男性ですよね? 女性を住まわせるのは安心できませんね」


 奏は三件回った家全てに、重箱の隅をつつくようなダメ出しをする。

 もともと真琴は都内で家賃六万以下……という厳しめの条件で探していたのだから、奏のお眼鏡に適うような物件などハナから存在しない。

 不動産屋の担当者も思わず困った様子の苦笑いを浮かべている。

 ――一人暮らしするのを止めないって言ったのに!

 真琴は奏を連れてきたことを心底後悔し、奏が文句を唱える度に、担当者に頭を下げた。




 当然ながら、この日は結局どことも成約せず終わってしまった。

 帰宅するなり真琴は大声を上げて不満をぶちまける。


「ねえちょっと! 今日の態度は何!? もうあの不動産屋に相談できないじゃない!」

「真琴のことを思って言っただけだよ」

「余計なお世話よ! 嫌がらせにも程がある!」


 そう言って真琴は自室に篭ってしまった。

 第三者を巻き込んで困らせた行動に、真琴は心底腹が立っていた。




*  *  *

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