忠犬。



 光射さない闇の楽園。

 

 本来なら視覚の全てを封じてしまうような場所で、しかし目に映る闇は景色を隠さなかった。

 

 明かりが無くともその景色は網膜に写り、暗闇の中で不自由なく目が見える不可思議な空間。

 

 そんな場所で、一頭の犬が己の命を燃やしていた。


「ワ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ル゛ゥ゛ゥ゛ア゛ア゛ッ゛ッ゛……!」


 潰れた喉で濁った咆哮を響かせるその犬は、白い雑種で、ハスキーを柴犬ほどに縮めたような姿で、そして忠犬だった。

 

 暗闇が支配する洞窟の中で、愛する人をひたすらに守っている。

 

 犬の名前は「ナイト」。ずっと傍にいて欲しいと、そう名付けられたその名の如く、その犬は騎士たらんとした。


「ル゛ゥ゛ゥ゛ウ゛ウ゛ァ゛ア゛ァ゛ァ゛ア゛ア゛ァ゛ア゛ァ゛ァ゛ッ゛………!」


 護るべき命を背後に戦うナイトを囲むは異形の化け物。

 

 それは人型で二足歩行。背丈は130センチほどで、肌はダークグレーに染まっていた。

 

 口は頬まで大きく裂け、口内には鮫のような歯が並び、吊り上がった双眸は存在の醜悪さを表現する一因となっている。

 

 頭髪は無く体毛も確認出来ず、体は筋肉質でありながら痩せこけ、見た者にアンバランスな印象を与えるだろう。

 

 一糸まとわぬ暗灰の化物は、後にゴブリンと呼ばれ始め、その名は世界的に使われるようになる、今この瞬間も地上で猛威を振るっている敵性生物である。

 

 眼前には十を越えるゴブリンの群れ。

 

 隆起する薄い筋肉を枯れた枝に貼り付けたような醜い躯体の化け物は、その大きさからは想像も出来ないほどの膂力を誇り、寄って集ってナイトを殺そうと四肢を振るう。

 

 殴られ、蹴られ、噛まれ、まれる。

 

 両の耳は食い千切られ、爪は砕けて脚はひしゃげ、骨も相当数が既に折られている。

 

 それでもナイトは、戦うことを止めない。

 

 自分の意思が折れたが最後、背後で気を失っている最愛の人が死ぬ。その未来が確定する。だからナイトは血反吐を吐きながら気炎をあげる。


 一緒に育った。


 名前を貰った。


 共に笑って、 傍で泣いた。


 いつだってそこに居た。

 

「ァ゛ァ゛ア゛ァ゛ア゛ァ゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ア゛ァ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ゛ッ゛ッ゛ッ゛………!」


 だから戦う。ナイトは諦めない。そんな選択肢はハナから存在しない。


 砕けた爪で眼球を貫き、ひしゃげた脚で首をへし折り、自らの肉を破って突き出した骨を敵の肉へと突き刺し、割れた牙で喉笛を噛み千切る。


 既にナイトの周りには20を越えるゴブリンの死体が転がっている。


 だが、減らない。


 ナイトがゴブリンを殺すそばから新手のゴブリンが合流してくる。


 終わらない死闘。賭け皿に命を乗せる割に合わないギャンブルを強制され続ける。


 命懸けでやらされる命賭け。


 賭けに勝ったとて、なんの価値も無いゴブリンの死体が手に入るだけで、賭けに負ければ最愛が死ぬ。


 割に合わない事この上ない。


 もはや内臓すら無事な場所が無いくらい、ナイトは限界を超えて戦い続けている。


 おそらくもう、ゴブリンを全て殺し切って生き残ったとしても、自身は助からない。ナイトは自覚している。


 だから止まらない。


 一度ひとたび止まってしまえば、ナイトは自分が二度ふたたび動く事は無いだろうと理解している。


 だから止まれない。


 せめて、眼前の敵のことごとくを殺し尽くして、一時いっときの安全を確保するまでは、例え自身の息の根を止めてでもみなごろしにせねばならない。


 せめて、最愛の人の意識が戻って、逃げてくれるまでは、逃げられる程に回復するまでは、休むしぬ事は許されない。 


 ナイトは忠犬だ。しかしただの犬である。


 ナイトに自分の名前の由来など分からない。だがそれでもナイトは騎士たらんとした。


 一生に一度。最初で最後の、負けられない戦い。否、負けてはいけない戦い。


 だから。


 だから。


 だから。


「………………………んむぅ」


 その声は、福音に違いなかった。


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