小指の由美子
いちいおと
わたしを助けてくれたのは、
私立中学の受験に落ちて以来、ママの態度が変わった。
視線を交わすことも、笑顔を向けてくれることも、励ましてくれることもなくなった。
期待が絶望に変わり、興味がなくなったのだとわたしは思った。
ママからの解放。
それはつらい受験勉強の合間に何百回も望んだことだ。
なのにいざそうなってみると、実にむなしいものだった。
わたしはいったいなんのために生まれてきたのだろう。
ママの信頼を失ったわたしには、生きる価値なんてないと考えた。
だから、赤信号だった歩道に足を踏み入れたのだ――。
□□□
誰かがわたしの体を後ろに引っ張ったのは覚えている。
そのあとの記憶はあいまいになっていて、気づいたら病院の待合室に座っていて、となりには、一年ほど会っていなかったパパがいた。
「飛び出したんだってね、葵」と、パパがわたしに確認する。
わたしは
「そうだよ。確かめてどうするの?」
パパは前を向いたまま、静かに涙を流し始めた。
「お願いだから、命を粗末にしないでほしい」
粗末にしたつもりはない。わたしはママに、以前のように笑ってほしかった。そのためには、ああするしかなかったのだ。それを説明したところで、パパに理解してもらえるとは思えなかった。わたしは黙ってうつむいた。
「とにかく、かすり傷だけで済んで良かったよ……」
ママは来てくれなかった。きっと呆れているのだ。
その代わり、わたしの受験のことで揉めて別居することになってしまったパパに会えたのはうれしかった。
だからいまは再会の喜びにだけ神経を集中させたい。
なのに、右手の小指が火傷したように痛くてそれどころじゃなかった。
見た目はなんの問題もないのに、いったいどうしたのだろう。
パパはわたしを家まで送り届けると、「もう絶対に同じことをしないでね」と念入りに説いてから、根城にしている近所のアパートに帰っていった。
ママが作り置きしている夕飯を食べてお風呂に入り、ベッドに寝転がった。
そして、明日からどうしようと思った。
しかたなく進んだ公立の中学にはもう行きたくない。
わざと人通りが多い夕方の歩道に飛び出したのだから、絶対、顔見知りの目撃者がいる。クラスネットワークどころか学校中の噂になっているかもしれない。
かと言って簡単に転校できるとは思っていないから、行きたくないと考えること自体が無駄だと思っている。
これ以上ママを失望させないためにも、わたしは平気な顔をして公立の中学へ通うのがベストだと感じた。
方針は決まった。
赤信号を青信号と間違えて飛び出してしまったということにしよう。
わたしは無理やり、目をつぶった。
□□□
登校すると、さっそく同じ小学校出身の結衣が近づいてきた。リーダー格のちょっと苦手な女の子。ふたりの取り巻きも一緒だ。
「昨日さ、道路に飛び出したって聞いたけどほんと?」
クラスメイトがみんな耳をそばだてている。
わたしはシナリオ通りに回答した。
「勘違いだよ。考えごとしていて、信号を見間違えちゃったの」
「うちのお兄ちゃんが見ていたんだよ?」
結衣には秀才と名高い高校生の兄がいる。中学、高校と、生徒会長をしているのだと結衣が以前自慢していた。そんな兄が嘘をついたとは思えないと言いたいのだろう。
右手の小指がズキズキ痛み出したのはその時のことだった。
とても話ができる状態ではなくなり、わたしは右手を抑えて椅子に座った。
結衣はとかく周囲の評価を気にする女の子だ。急に猫なで声になって、わたしを心配し始めた。
「どうしたの? 右手を怪我したの?」
「うん。実は少し……」
「保健室、行ったほうがいいんじゃない?」
「うん。そうする……」
まだ朝のホームルームも始まっていない。介助を申し出てくれた学級委員長に断りを入れると、ひとりで保健室へ向かった。
□□□
「失礼します」
クリーム色の引き戸を開けて、なかの様子を伺う。
保健の先生はまだ来ていないか、留守にしているようだった。
わたしはしかたなく、壁際の長椅子に腰をおろした。
周りには誰もいない。しんと静まり返った室内にいると、唐突な寂しさにおそわれた。わたしはたまらずひとりごとをこぼした。
「このまま保健室登校になるのかな、わたし。またママをがっかりさせちゃうよ……」
咳払いが聞こえてくる。しかもかなり近い場所から。
天井から吊るされた長いカーテンのせいで見えないけれど、誰かがベッドに横たわっているのかもしれなかった。わたしはあわてて立ち上がった。
「すみません! いまの言葉、聞こえなかったことにしてください!」
「うーん、どうしようかな~」
やや低めの、かすれた女性の声だった。わたしは急いで懇願した。
「そう言わずに……。お願いです!」
「でも~、全部聞こえちゃったし、なんなら心の声まで聞こえちゃうし~」
心の声まで聞こえる? このひとはなにを言っているのだろう?
それよりもっと不思議なのは、声がベッドのある方角からではなく、もっと近い場所から聞こえてくること。冷静に耳をそばだてると、かすかな息づかいが伝わってくるのだ、わたしの右手から。だけどそんなこと、ありうるのだろうか?
わたしはおそるおそる右手を持ち上げ、目の前にかざした。
恐ろしいことが起きていた。
小指の第二関節に、一センチ幅の唇ができていたのだ。
「なんなのこれ……。病気!?」
「病気じゃないのよ。痛みは産みの苦しみだったのよ」
「喋った!?」
「喋ってるじゃない。さっきから」
「喋って……る……?」
両膝がガタガタ震えて立っていられなくなり、わたしはふたたび長椅子に腰をかけた。
「どうして……。なんでこんなことに……」
「うーん、それはあたしにもわからないのよねえ。でもひとつだけ判明してるわ。きっかけは昨日の事件。助けようとしたらあなたに取り込まれちゃったの」
「わたしは幽霊に助けられたってこと!?」
「ま、そうなるわね。あたし、ユミコ。自由の由に美しい、子供の子と書いて由美子。十二歳の時、くだんの歩道で事故に遭ってかれこれ三十年。生きていたら四十代の見目麗しいお嬢様よ」
「待って。情報を整理させて……」
「知りたいことがあるなら訊いてちょうだい。なんでも答えてあげる。テストの問題以外でお願いね!」
「ごめんね。少しだけ黙っていてくれる?」
「あらやだ、ひとりで暴走しちゃったみたい! 久しぶりに人と喋ったから興奮しちゃって! 普段はおとなしくしてるから安心して!」
「うん。わかった……」
わたしは腕組みをしてうつむいた。そして考え始めた。
由美子は三十年さまよっていた幽霊で、わたしを助けようとして取り込まれてしまったと主張している。世の中は広い。こういう不思議な事象はきっとたくさんあるだろう。
ここまではわかった。訊ねたいことはひとつしかない。
「さっそくなのですが、出て行ってもらえませんか?」
「直球ね」
「当然です。幽霊にとりつかれてるなんて、気分悪いに決まってるじゃないですか」
「タメ口でいいわよ。同い年なんだから」
「敬語じゃないと失礼かなと思ったのですが」
「あたしがいいって言ってるんだからいいんじゃない?」
「じゃあタメ口で言うね。出て行って」
「ウフフ。あたしだって知らないうちに取り込まれちゃったんだから、出て行く方法なんてわかるわけないでしょう?」
由美子は楽しそうにおどけてみせるけれど冗談じゃない。これはわたしの体なのだ。
「わからなかったら考えて。この体はわたしのなんだから」
「他人に大迷惑かけて命を絶とうとしていたくせによく言うわ」
「それとこれとは話が別でしょ」
保健室の扉が控えめにノックされる。病人らしからぬ元気な声で応じてしまったわたしは、様子を見に来た石橋先生からくどくどと説教される羽目になってしまったのだった。
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