第10話 それを口にしてはならない
「ネクトー、あんた、ずいぶん旨そうなものを食べてるじゃないの」
暗がりから、いきなりそんな声が聞こえ、ぼくは思わず腰を浮かした。
しかし、ネクトーさんは、平然とした顔で、
「おう、すごくうまいぞ。そんな暗いところにいないで、こっちに来いよ」
得体の知れないその声の主に呼びかけた。
「いっしょに喰おうぜ」
ふふふ、そんな含み笑いの声がした。
「ネクトー、あんたのそういうところは変わらないね……」
ザリ、ザリ、パチリ、パチリ、という砂利を重いものが踏む音。
ズルズルとなにかを引きずるような音。
そして、たき火の明かりの中に現れたのは――
「うわわっ!」
ぼくの声は悲鳴に近かった。
毛の生えた、八本の脚をもつ巨大な蜘蛛の胴体。
その黒い胴体からは、白い、裸の女の上半身が逆さまに
長い髪を垂らしたその顔は、切れ長の目が美しく。
たき火の明かりにさえ、唇の深紅が映える。
唇の両端がつり上がり、凄絶な笑いが浮かぶ。
「あ、アラクネ……?!」
とんでもない魔物だ。
その視線に捕らえられ、ぼくは固まってしまう。
「おや、はじめまして、坊や」
呼びかけられ、ぼくは膝を震わせながらも、言葉をしぼりだした。
「れ、レブです」
アラクネが首をかしげる。
「そ、それが、ぼくの、な、名前です」
「それは失礼、レブ君。あたしは、アダマンティア。よろしくね」
アラクネの女王――アダマンティアさんが逆さまの顔で、にこりと微笑んだ。とても、とても怖いです。
「おい、レブはおれの連れだからな、すきをみて、喰うなよ」
ネクトーさんが言い、ぼくはさらに震え上がった。
そんなぼくを見て、アダマンティアさんは、けらけらと笑った。
ネクトーさんも、にやにやしている。
「冗談よ、レブ。ネクトー、真面目な子をからかうもんじゃないわよ」
「悪かったな、レブ。おれはこういうやつなんだ」
そういいながら、ネクトーさんは、椀にスープをすくい、アダマンティアさんに差し出す。
「ほら、アダマンティア、熱々でうまいぞー」
アダマンティアは、ネクトーさんから、椀を受け取る。
ぐるりと、器用に上半身を上に向けて、そして、料理を口に運んだ。
「うん、美味しいわね。昔から、あんたは料理がうまかった。あんたが、まだ、ネクトーでなくてあの――ぎゃああーっ!」
言葉の途中で、アダマンティアさんが壮絶な叫びをあげた。
そして、ぼとり、焚火のすぐ前に落ち、ぴくぴくのたうつ赤黒い肉の塊。
それは、ああ、なんてことだろう、何かを言おうとしたアダマンティアさんの舌だった。
見えないおそるべき力によって、一瞬のうちに、まるで柔らかいパンか何かのように、アダマンティアさんの口腔内から、舌がむしり取られたのだ。
いったい何者が。
無敵のアラクネの女王に、いともたやすく、そんなことができる存在。
それはいうまでもなく、人ではなく、魔物ですらなくて。
さらに、その上の――。
「おい、なんてことをしやがる!」
ネクトーさんが、天に向けて怒鳴った。
「グウウウウウ……!」
アダマンティアさんは、呻きながら口を押えていた。
その美しい顔には、まるで何かの見せしめか、警告のように、大きく、斜めに交差する二つの裂け目が入り、鮮血がぼたぼたと垂れていた。
「だ、だいじょうぶですか、アダマンティアさん」
やがて、アダマンティアさんはその手を下した。
なんと、そのとき、顔はまだ血まみれではあったが、傷はもうふさがって、跡形もなくなっていた。
アラクネのおそるべき回復力だ。
舌もふたたび生えたのだろう、アダマンティアさんは、前とかわらない口調で言った。
「おお、こわい、こわい。ネクトー、どうやら、これを口にすることは禁じられているようだね」
ネクトーさんが、申し訳なさそうな顔で言う。
「すまん、アダマンティア。おれのせいだ」
「これくらい、わたしにはたいしたことではないけれど……しかし、ネクトー、あんた自身は何もおぼえていないの?」
ネクトーさんは、暗い顔で答えた。
「さっぱりだ。おれは、そもそも、お前との因縁もおぼえていない」
「そうなの……」
「ただ、お前の名は頭に浮かんだし、お前を見ると、なにか、とてもなつかしい気持ちにはなるのだが」
その瞬間、焚火の炎が、ごうっと吹き上げた。
アダマンティアの表情が、ゆがんだ。
その目にはかすかに怯えの色もあった。
「今のは警告ね。これ以上ふみこむと、わたしが、この世からあっさりと消されかねないわ」
「すまん、アダマンティア……」
「なに、今の言葉で十分よ、ネクトー。では、またね」
ネクトーさんの過去の何かを知っている、このアラクネの女王、アダマンティア。
ネクトーさんは名残惜しそうだったが、アダマンティアさんの身を案じて、その気持ちをぐっとこらえるのが分かった。
「ああ、また会おう。すまん」
「あなたは、昔からあやまってばかりね……おっと危ない危ない」
アダマンティアさんは、慌てて、口を押えた。
「もうわたしは消えるわね。ネクトー、スープをありがとう。……でも、たぶん、あなたとは近いうちにまた会うことになると思う。あのお方の思惑のとおりにね」
そう言いながら、アダマンティアは、闇の中に消えていったのだ。
ぼくたちは、無言でアダマンティアを見送った。
アダマンティアの気配がなくなっても、ネクトーさんは動かず、何も言わず、じっと闇の中を見つめていた。
ぼくは、そんなネクトーさんにかける言葉がなかった。
「ああ、晩飯が、途中になっちまったな。さて、温めなおして、続きをやるか?」
ややあって、ネクトーさんが自分に言い聞かせるように言い、鍋をもう一度、火にかけようと持ち上げる。
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