ポラリスの噓
鮭
第1話
男は深く被ったキャップのつばを持ち上げた。見上げた先には依頼人のアパートが建っている。みっつよっつ積み上がった小さな窓に申し訳程度のバルコニーがついた、ヨーロッパの歴史でも古いタイプの集合住宅だ。このあたりは大昔に建てた建造物を格安で貸し出しているので、街並みもどこか古めかしい。
男はアパートに入ると、少しだけ辺りを見てから、依頼人の部屋番号を確認した。カツコツと老朽化した床を歩く音がロビーに響く。
2階に続く螺旋階段に足をかけた時、吹き抜けの上から声がした。
「お兄さん、業者の人?」
褐色肌の少女が、曲がった手すりに身を乗り出して男を見下ろしている。
一瞬自分と思わず、男は不自然に斜め後ろを見てから、少女を見上げた。赤いフードを被った黒髪の女の子だ。
「……ええと、仕事を頼まれて来たんだ。203号室の人って知ってるかい?」
「あたしんち。それ」
少女はいたずらっぽく笑う。
「冗談はよしてくれ」
「ジョークじゃないよ。よく勘違いされるけど」
「……」
男は対応に困った。彼女はどう見ても14、5歳だ。からかっているのだろう。
親が居なくて暇なのかは知らないが、こちらは暇ではない。純粋に面倒だった。男の心中を知ってか知らずか、少女は男の愛想笑いに愛らしい笑顔で返す。
「信じてないね。じゃあいいや。203まで追いかけっこしよう」
え、と男が口に出すより速く、少女は階段を上に駆け出した。弾かれたように男も後を追う。
何を考えているんだ。受けた依頼が嘘でなければ、あの部屋には今……
「おいっ、やめなさい!」
男が焦るのは、彼女に“203号室”を見せまいとする正義感ではなく、単純に依頼者の信用を落としたくなかった。とんだトラブルに巻き込まれてしまった、と心臓に冷や汗をかきながら舌打ちをする。これだから子供は嫌いだ。
彼女はひらひら階段を駆け上がり、なかなか距離は縮まらない。男が2階に登りきって廊下に出た時には、既に彼女の姿はなかった。3番目の扉のプレートに、『203』と書かれた黄ばんだ紙が挟まっている。
「……。」
俺としたことが、やってしまった。悲鳴を上げられなかっただけ幸運と言うべきか。でなくても今頃言葉を失って座り込んでいるはずだ。…
処理する人間が増えてしまうと落胆しながら、男はドアノブを回した。しかし。
「あたしの勝ちだね」
少女は笑顔で玄関に座っていた。しゃがんでいるのではない。何かに腰かけている。
事切れた人間だ。
40代半ばほどの男だろうか。色のない肌にハリはなく、てのひらだけを上に向けたまま足を折りたたんでうつ伏せの体勢になっている。黒く陰った顔面、そこに僅かに見える眼球は床を見続けていた。
それは正しく無機物だった。人のような形をしているだけの、無機物。
少女はそれの上に脚を揃えてかわゆく座り、両腕で頬杖をついて男を見ている。
にわかには信じ難いが……どうやら、この少女が”依頼人”本人だったらしい。
「罰ゲーム」
「は?…」
「負けたんだから罰ゲームしなきゃ。これ片付けてくれるんだろ? お掃除屋さん」
フードの影から蛇の目が笑う。
死体処理業者の男は、1度だけ死体と少女……いや、依頼人とを見比べてから、黙って息を飲み込んだ。
「あは」
カーテンの締め切った暗い部屋で、なぜか少女の顔が鮮明に見えてくる。ドアの形に落ちた光の中でも一片の白を宿さない、洞窟のような漆黒の瞳。
男はなんとなく目をそらした。少女はそれを見て立ち上がり、男の横を通り抜けてドアノブを掴む。
「……出ておられますか」
「いや。山のほうが何かと便利でしょ。それ詰めて、一緒に行こう」
「一緒?」
「見学させてよ。いけない?」
……これはこれで面倒な客かもしれない。奇特な女だなと思いつつ、男は曖昧に返事をして死体を見る。重い脇腹を蹴って仰向けにし、肩からボストンバッグを下ろした。
少々太っているので、コンパクトにする必要がある。
───────
「ここあたしのお父さんが使ってたんだって」
まさか死体の骨を折っている間にも話しかけてくるとは思わなかった。
まだ彼女が犯罪者だと信じきれていないのかも、と思いつつ、男は手元が忙しいふりをして無言を貫いた。
車を走らされた先は山奥の狩猟小屋だった。木造の小屋は長らく人がいた気配もなく、案の定老朽化している。この国じゃそうないが、次の冬大雪が降ったら崩れるだろうなという塩梅だ。
小屋の中には動物を解体するための道具も揃っており、少女はやたらとそれらを使わせようとしたが、錆びていてどれも使い物にならない。持参した道具で十分だと伝えると、少女はつまらなそうにしていた。
「今どうなってると思う?」
「は?」
「あたしのお父さん」
「……どうなってるんですか?」
「ちょっと。お客の素性を探るのってどうなの? さっきも見ず知らずの女に部屋番号教えてくれちゃって」
急に理不尽な非難を受けたが、二つ目に関しては言い返せない。仕事柄人殺しにしか会っていないのに、いきなり子供の対応をしろなんて言われても困るのだ。まあ、その子供も結局人殺しだったのだが……。
「にしても不便な世の中になったよね。きちんとお片付けしなきゃ叱られちゃうんだから……」
少女は壁に寄り掛かって外を見た。これだけの自然の中、小屋の中でもムッと草の匂いが立ち込めている。
この少女は不可解な点が多い。口ぶりからして初犯ではなさそうだが、何故殺したのだろう。
これだけ一方的にべらべら喋っているにも関わらず、彼女の顔が見えない。逆に、相槌しか打たないこちらの方が見透かされているようだ。居心地が悪い。
「昔はそのへんに放ったらかしても吸血鬼のせいにできたのにな」
彼女の言うとおり詮索はご法度だが、想像するくらいなら問題あるまい。
血抜きをしながらさりげなく死体を探る。外傷はどこにも見当たらない。薬殺だろうか。吐血の跡もないが、薬はどこから引いた?
「いちいちこうやって業者呼んでも金かかるし。そろそろ自分でどうにかしなきゃダメかなって」
自分の部屋に呼べる、かつ薬を盛ることのできる人間なんて限られる。まさか、父親ってこの男のことじゃあるまいか…。いや、肌の色がまるで違う。母親からの遺伝という可能性もあるが、どれも憶測の域を出ない。
「お兄さん」
男はぎょっとして背中を反らせた。少女の顔が突然目の前に現れたからだ。
「なん」
「さっきからじー…っとあたしのこと見てるけど」
「見て、」
「見てたよ」
男は少女のことばかり気にして手元が止まっていることに気付いていなかった。
少女はずんずんと、鼻先が触れるか触れないかというところまで詰めてくる。次第に小屋の壁が視界から消えていく。男の視界を少女が埋め尽くしていく。
ぴた、と少女が止まる。目の前に洞窟がある。
「おにいさん」
「、」
「これ、このあとどうする?」
「……。そ、あ。そこの、谷に……」
「バラして捨てるの? あの川?」
「み。湖に繋がってるから。遠くに流されるし、あの一帯は人が寄り付かなくて、発見もされない……」
男は鼻の下に汗をかきながら説明した。脳を上から引っ張られてるみたいに彼女の言葉を拾っていた。
少女はふうん、と声とも吐息ともつかない返事をして、立ち上がり、死体が乗ったブルーシートを避けてぐるっと男の横を回る。心臓の音がうるさい。恐怖なのか期待なのか、それがどこに向いているかも分からない。
「いくつに分けたらいい?」
まるで尋問だ。少女は男の背後にまわって、床に影が落ちる。見られているであろううなじあたりがジクジク痛い。
…手足と頭を落として、胴をみっつにするんだ、答えてから、自分の声の震えに自分で驚いた。
「8個か」
少女に何をされたわけでもないのに、心臓を掴まれている心地だ。
頭の中でジー…と音を立てて映写機が回っている。203号室の玄関、死体に腰掛けて笑う彼女がコマ送りで映されている。
「きみ、」
「あ?」
「……君は、なんだ。人か」
聞くつもりではなかった。場の空気に充てられて変なことを口走ったのは分かっている。むしろ、彼女が何を酔ってるんだと笑ってくれることを期待した。
少女の影が黙って揺れる。
「聞いちゃう?」
世界のピッチがズンと沈んだような気がした。
振り返ろうとして、気付く。前方に伸びた彼女の影が妙だ。肩の下あたりから、コウモリの羽根のようなシルエットが広がって、羽ばたいたのを見た。
ここで突然、ぼんやり耳に入れていた彼女の言葉を思い出す。
『昔はそのへんに放ったらかしても吸血鬼のせいにできたのにな』
吸血鬼が信じられていたのなんて、いったい何百年前だ?
「オご」
ダァン、と音がして男は死んだ。少女が拳銃で後頭部を撃ち抜いたためだった。
男はドチャッと粘性のある血液の上に倒れ、ふたつの死体が重なって、小屋には少女だけが残る。
「なんでわかっちゃうかね。色女はつらいな……」
まあ解体の実践できるからいいか、とケラケラ笑う。
少女は銃を投げ捨て、深く被っていたフードをうざったそうに取った。顕になった頭、少女の両耳の上には、羊の角のようなものがくっついている。
脈の通った薄い膜張りの羽根に、尖端の尖った尾。金色の角。くたびれた山小屋で彼女の姿だけが鮮やかだった。
「話聞いてなかったみたいだったから言うけどよ、オレ、人間処理するのにいちいち金かけるの嫌なわけ。だからやり方教えて貰おうと思って呼んだんだよね。ワンオペで回せるならそうしたいじゃん?」
「なーんかオレんこと気になっちゃったみたいだし、使ってやってもいいかなと思ったけど……」
「はあ。最初めちゃくちゃバカそうで安心したってのに。案外わかるもんだなあ」
少女は足を開いて屈み、男の背中にてのひらを押し付ける。そのまま手を持ち上げると、臓器のような何かが皮膚と服をすり抜けて彼女の手に付いて行った。手の中で赤黒く脈打つそれに少女は満足げだ。
男の下敷きになった“既に食っている”ほうを見て、これ片付けさせてから殺りゃよかったかもと少し後悔するが、まあいい。手元のこれはさっきのより数段上物だ。
「安心しなよ。あんたの魂も美味しく食べてやるからさ」
黒い目の悪魔が笑った。
いま、下流の湖には二人分の肉塊が沈んでいるらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます