第三章

雑用係 クソガキを試験に送り出す


 トントントン。


 リズミカルに包丁が躍る。一振りごとに油揚げを、ネギを、豆腐を刻み、クツクツと音を立てて煮える味噌を溶かした湯に順序良く投入。


 時折味を微調整しながら、同時進行している魚の焼き加減の確認。……良い具合だ。


「さて。次はアイツの好きな卵焼きも作ってと……お~いクソガキっ! そろそろ起きろっ! もうすぐ朝食だぞっ!」


 俺はフライパンに溶き卵を流し込みながら、手を止めずにネルに呼び掛ける。すると、



「は~い! おはよう。オジサン!」

「うおっ!? 居たのか!? もうすぐ朝食だから早く顔洗ってこいっ!」



 急にすぐ後ろから返事が返ってきたので驚いた。そこにはドッキリ成功とばかりにニヒヒと笑うネルの姿が。料理に集中していて気が付かなかった。


 素直に洗面所に向かうネルの様子を見ると元気溌剌といった感じ。昨日の事もあって寝不足にでもなっているかと思ったが杞憂だったな。





「頂きま~すっ!」

「頂きます。……っておい!? もうちょっと落ち着いて食え!」

「だって今日はいよいよ試験だよ! 普段より念入りに栄養補給をしとかないと」


 好物の卵焼きを真っ先に口いっぱい幸せそうに頬張るネル。どこかハムスターのような姿に、ほっこりするというか呆れるというか。


 しかし栄養補給か。ネルはこの所ますます食欲が旺盛になっている。これまでの錠剤も飲んでいるらしいが、以前飢餓状態になりかけながらも我慢しようとしていた頃とは大違いだ。


 そこからしばらくは互いに何も言わず、ただただみそ汁を飲み、白米を食べ、脂の乗った焼き魚に舌鼓を打つ。だが、


「……でも、大丈夫かなぁ。試験」


 ふとネルがそんな言葉を口にする。いつも自信家で向上意識の塊みたいなネルにしては珍しい。


「不安か?」

「不安っていう程じゃないの。だってあたし次期幹部候補筆頭だし。筆記テストぐらい余裕だし。でも……この所ピーターやオジサンとの組み手や飛び回る球を避けたり防いだりばっかりで、邪因子の強化訓練とかあんまりしてないじゃない? 講義の分もオジサンが邪因子を必要以上に活性化させずにコントロール重視でやれって言うからそうしてたしさ」


 ああ。そういう事か。


 俺がコイツの家政婦もどき及びトレーナー紛いを引き受けてから、以前のような過酷な邪因子強化訓練をやっていないのが気になっているな。


「心配するな。俺の見立てだとになっている筈だ」

「どういう事?」

「後で説明してやるよ。今はさっさと朝食を食え。……お代わり要るか?」

「要るっ! お代わりっ!」


 ネルは勢いよく中身の綺麗になくなった茶碗をこっちに突き出した。





 食事も終わり、後片付けの前に俺は軽く熱い茶で一服。ネルは試験に向けて荷物の最終確認をしている。


「筆記用具良し。受験票良し。昼食休憩用のお弁当も詰めた! ……そうだ! ねえオジサン。さっき言ってた今日で丁度良いってどういう事?」

「あん? ああそれな。じゃあクソガキよ。これ持って邪因子を活性化させてみな。ただし軽くだ」


 そこで俺が手渡したのは邪因子の測定器。この前ミツバに本部兵器課に連れ込まれた時、モニターとして押し付けられた物の一つだ。


「何? 今さら邪因子計測? だけど一週間前に測った時からそんなに変わってないと思うけど」

「良いから。確認だと思ってやってみな」

「……まあ良いけど」


 ネルは不思議そうにしながらも、何の気もなく全身の邪因子を昂らせる。すると、


「ウソっ!? あたし本当に軽くしかやってないよ! なのに何でこんな数値がっ!?」

「どれどれ。……ほぉ。これは相当なもんだ。予想より大分伸びてるな」


 計器に表示されたのは、幹部候補生としては大体平均値くらいのもの。しかしネルとしてはほとんど力を入れたつもりもなかったのだろう。酷く驚いている。


「もしかして……オジサン何か変なお薬を食事に混ぜたとか?」

「そんなんするかバカっ! これは単にお前の実力。正確に言うなら……ってだけの話だ」


 。これまでのネルは要するに訓練のし過ぎだった。


 飢餓状態になる程の過酷な訓練をして邪因子を活性化させていたが、しかしどんな強い邪因子でも身体が万全でなければ完全には扱えない。


 なので俺は極力邪因子の急激な活性化を止めさせ、あくまで出力を抑えての制御訓練や体術の練習などを重点的にさせた。そうすれば使わない邪因子は身体の回復に自然と回される。


 毎日きちんと食事をし、身体が鈍らない程度に運動し、ゆっくり休息をとる。そういう何気ない日常で身体の調子は万全に……いや、前より強くなった邪因子に引っ張られることでより強くなる。


 ……えっ!? 常時活性化し続けている首領はどうなのかって? あの人はオフの時人の5倍はだらけてるから。何事にも例外はある。


 まあ結果として、ネルは最大値の上がった邪因子をより効率良く扱えるように身体が整ったという訳だ。試験に合わせて仕上がるようタイミングを計っていたが、上手く行ったようで正直ホッとする。


「……凄い。凄い凄いっ! やるじゃないオジサンっ! これならぜぇ~ったい合格間違いなしだよっ! ありがとうっ!」


 ネルは少し興奮した様子でぴょんぴょん飛び跳ねると、そのままの勢いで俺に抱きついてくる。こら抱きつくなっ!? あいてててっ!? 邪因子が活性化したままだから腰があぁっ!?


「あっ!? ゴメンオジサン。大丈夫?」

「お、おのれこのクソガキィ。もうちょっと邪因子の制御訓練を厳しくやっときゃ良かっアタタ!?」


 流石のネルも少しだけ悪いと思ったのか、一瞬だけ名残惜しそうにしたかと思うとすぐパッと手を離した。痛む腰を擦りながら恨めしくネルを睨んでやる。


「ゴメンゴメン。こう……一回実感しちゃうとなんか自然と溢れ出しちゃって」

「ちょっと万全にし過ぎたかもな。……仕方ない。普段よりその辺りを意識していくんだぞ」


 とは言ったものの、この調子なら一日目は問題ないだろう。


 筆記はちゃんと勉強していれば問題ない筈だし、体力テストに関しては何を今さらというレベルだ。普通に受ければ落ちる道理もないからな。





「よ~し準備万端! それじゃあ行ってくるね!」


 ネルは制服に着替え、必要な物を詰めたカバンを手に持ってそう宣言する。


 心身共に漲り、邪因子も少し活性化率が高すぎる点を除けば好調。制御をミスって自滅さえしなければまあ大丈夫だろう。……多分。


「ああ。しっかりやってきなクソガキ」

「へへ~ん。そのクソガキ呼びもあと二日だけかと思うとなんだか寂しいもんだねぇ。まあ安心してよオジサン。あたしが幹部になった後でもたまにならクソガキって呼んでも良いからさ」


 おうおう。もう受かった気でいやがるな。まあ自信があるのは良い事だ。それも根拠のない物でなく、きちんとした努力に裏付けされた物なら尚良い。なので、


「言うねぇ。それじゃあ未来で幹部になるクソガキにコイツを貸してやるよ。……ほれっ!」

「うわっと!? ……何これ?」


 俺が投げ渡した指で軽く摘まめる程度の大きさのそれを、ネルはしげしげと見つめる。


 それは昔は赤い色をしていたが、今ではすっかり灰色になってしまった。かつて俺が居た場所のメンバーの証。もうまともなはほとんど残っていないが、ちょこっとだけ持ち主を災いから護る程度の力はある。つまり、


だ。悪の組織の一員がお守りなんて妙な話だが、長年タンスの肥やしになってるよりかは誰かが持ってる方がマシだろ。……試験が終わって幹部になったら返せよ」

「うん。……うんっ! 待っててよオジサン!」


 ネルは砂時計を胸ポケットの前に引っ掛けて、こちらに向けて満面の笑みを浮かべる。


「バッチシ合格して幹部になったら返すからね! あっ!? 何ならインタビューの時にこれを見せて『これの持ち主があたしにここでは言えないくらいみっちりきっちりねっとり色々なお世話をしてくれたおかげで合格出来ました』って言っちゃおうかな? その方が面白そうかも!」

「さっさと行けクソガキっ!」

「いや~ん! 怖~い!」


 ネルはそう言い残して、笑いながら走っていった。その顔にはすっかり不安の色はなく、どこまでも自然体。





 俺に出来るのはこのくらいだ。頑張れよ。ネル。

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