17章.異世界(1925年10月6日 13:00)

 猫と人類の付き合いは長い。元々は北アフリカから中東にかけて生息する山猫たちが人間の生活が入りこんできた頃から始まる。最もその頃は愛玩動物や家畜などではなく、食料を求めて猫たちが人間の生活圏に入り込んできただけだ。猫が人間のパートナーとして結びつくのはエジプト中王国時代になってからである。

猫たちを人間が受け入れたのは主に農業が発展し、それに伴う鼠駆除や毒蛇駆除の為である。だが猫には他の動物に無い魅力があった。ライオンのような頭と日差しによって目の形を変えることに彼らは神聖さを見出したのである。エジプトでは中王国期には民衆の中に富裕層が現れ、宗教が確立して埋葬などの文化が発生、人間は死後の世界を考えるようになり、死の闇に恐怖したのである。猫の目は闇の中でも輝きを失う事は無く、そのため死の闇をも振り払う神聖な動物とされたのである。時代が進むとエジプト中部で大規模な猫信仰が確立したのである。この頃から地方で信仰されていた獅子頭の神バステトが持ち込まれたのである。バステトはエジプト神話に取り込まれ太陽針ラーの娘とされた。獅子頭から猫頭に変化し、獅子頭の頃に示された凶暴性と恐怖は無くなり、音楽と多産を司る女神となったのだ。しかし当初にあった死の闇の恐怖は消えることなく、闇の化身たる邪悪な蛇アポピスが生み出されると太陽神ラーは雄猫に変身して戦うという神話が生まれた。そしてバステト神も刀を持って太陽神ラー共に戦うとされたのである。

 猫と人類の付き合いは必ずしも良好なものではなかった。欧州では魔女狩りや異端狩りの時に猫は魔女の使い魔とされ悪魔の手下であると断じられ多くの猫が処刑されたという記録もある。亜細亜においても年を経た猫は妖怪化して人間に襲い掛かるものも存在した。一方では主人や家族を思い、家を荒らす大鼠や大蛇と戦う猫というものも存在する。

これらは猫の習性、夜中に徘徊したり、狩猟時に待ち伏せなど行い狡猾に狩りをしたりする姿、何よりも捕らえた獲物を弄ったり、遊んだりする姿から魔性を見出されたのである。かくも神話や宗教においては奇妙な扱いを受けていたが、大抵の処では鼠を駆除し、農作物、特に穀物を守る神として崇められた例は多い。

 忍の話では猫は養蚕業の守護者という話だったが、それは必ずしも正しくない。猫は蚕の天敵である鼠を捕るが同時に蚕を食べてしまったり、遊んで殺してしまったりもしたのである。猫が養蚕業の守護者に任じられたのは、鼠の駆除と共に蚕を襲わないことを願って崇められるようになったからなのである。

 宮が調べられたのはそのくらいである。藤乃が「はすたぁりく」の化身という事なら、なぜ、突然バステト神の御許で会おうというメモを残したのかはわからない。藤乃は「オオゲツヒメ」であり、「ハ号星六」の化身であり、ある意味では穀物を司る神そのものになったのである。バステト神も穀物の守護者であるという点は共通するがそれが何を意味するかは分からない。

 緒方博士というか、イス達の知識は人間の知識をはるかに超えるものであり、バステト神についても知識があった。彼らの知識が伝えるバステト神は人間の猫信仰やバステト神信仰と同じではないと断言された。彼らの言によればバステト神は宗教上の存在ではなく、実在する存在らしい。それは「はすたぁりく」よりは人間との意思疎通は可能らしい。藤乃は今何を考えているのだろうか。自分に接近してきたことには何か意味があるのだろう。彼女には最初からすべてが見えていたはずである。自分に何を求めているのだろうか。そもそも人間的な思考ができていない可能性も指摘される、宮はそうは思わないが。結局のところ彼女の許に行かなければ何もわからない。

 群馬の生糸工場に着いたとき最初に出迎えたのは猫であった。秋月の言う通り、工場内では猫がかなりの数が飼われていたのである。数えてみると15匹いたのである。他の生糸工場の様子を知らないが、さすがにこの数は異常だろうとは思った。すでに千家晃から連絡が届いていて工場長が現れて対応した。といっても工場内では見るべきものは無く、結局は先に千家家が管理していた資料室を当たることになった。

 工場内を歩いていると猫の姿が嫌でも目についた。そして猫たちはまるで監視するように宮たち一行を見ているようだった。秋月が気味悪がったのも無理はないと宮は思った。藤乃の力が猫たちにまで及んでいるのなら、監視というのもあながち間違いではないのかもしれない。

 資料室に入った忍達はさっそく資料にあたった。一方、宮は資料にあたる気にはなれず、資料を忍達に任せると工場周辺を散策することにした。忍達からは顔色が良くないと言われ、休むように勧められたが、それも気が引けたので外の空気を吸ってくるとして表に出たのである。部屋から出ると1匹の猫が監視するように自分についてきた。工場長の話ではこの猫たちは代々工場内で飼われており、その数は20匹ほどになるようである。普段は蚕の飼育場を中心に生活しているようで、蚕を襲う鼠を駆除しているらしい。それだけではなく周辺の農家にも出没し穀物を齧る鼠たちも駆除しているようだ。おかげで周囲の評判は良く、工場内外で可愛がられているそうだ。

 工場長からは工場の裏手の山に猫神を祀った問題の神社があるというので、そこに行ってみることにした。宮が歩き始めると自分についてきた猫が先導するように歩き始めた。方向は猫神の神社がある方向だった。これは藤乃の導きなのだろうか。そう考えた宮はその猫の後を追って歩き始めた。猫は時々立ち止まり、遅れがちな宮を待って、ついてきていることを確認しているようだった。

 十数分ほど歩いた頃だろうか。道は緩やかに起伏し、山道に差し掛かった頃、山道を離れて森の中に続く細い道に猫は進んだのである。宮はこの時点でこの猫が藤乃からの使者であることを確信していた。道は5分ほどして途切れ、小さな鳥居を発見した。鳥居の先には小さな社があり、猫は社に上がり込むと座った。

宮は社の周囲を回った。どうやら定期的に手入れがされているようで、朽ち果てているといった感じは無かった。特に目を引くものは無かったので、社の戸を開けてみた。ご神体などは無く地下に続いている階段があった。社の中は奇妙な魔方陣のようなもの床に書かれており、それは忍が千家男爵家の離れで見たと説明したものと同じように見えた。ふと見ると座っていた猫が札のようなものを銜えて、宮の足元にいた。札には中央に「猫の国」と書かれており、それ以外は読み取ることができなかった。

 社の構造上、地下へと続く階段は奇妙なものに見えた。身の安全を考えれば忍達を呼びに行くべきだろう。だが宮の意思は決まっている。宮は薄暗い階段を降り始めた。先ほどの猫も後からついてきた。階段は思った以上に長かった。宮はすでにこの階段が人間の手によるものではないと確信していた。これもまた「はすたぁりく」の見せている幻覚なのだろうか。どちらにしても宮は進み続ける事しかできなかった。

 階段は唐突に終わった。宮は段数を数えていたがちょうど70段だった。階段の長さを考えればそれなりに深い地下に来たように思える。

階段を降り切った先は洞窟のようなものがあった。猫は平然と進んでいく。かなり心配したが宮は進むことにした。洞窟を進むと異様な世界が広がっていた。洞窟の中はかなり広く、そのあちこちで溶岩のようなものが溜まっていた。あちこちで火柱のようなものが上がっていた。周囲の温度はかなりのもののように感じたが、冷静に考えれば現実にこんな場所があったらこの程度では済まないだろうと考えた。自分は群馬の山中にある神社から来たのだ。こんな光景があるはずがない。この異様さには圧倒されるが、幻覚の可能性が高いと考えていた。

周囲を見渡すと装飾の施された大きな椅子に腰かけた二人の男性が目に入った。奇妙な装飾の施された服を着こんでいる。何か宗教色が感じられたが宮の知っている宗教に該当するようなものは無かった。猫がさらに進むので大人しくついていくと、その二人の人物の前で足を止めた。何か声を掛けようとおもったが、果たして言葉は通じるのだろうか。近くで二人を見ると亜細亜系の人種には見えなかった。

「ようこそ、幻夢郷へ、夢見る人よ」

左側に座った男性が声をかけてきた。日本語のように思える。二人の人物が声をかけると立ち上がった。かなり大きい。2メートルは超えているであろう。宮は気後れしながらも返事をした。

「あの、ここはどこですか」

「幻夢郷の入り口だ。ここはその中でも『炎の洞窟』と呼ばれる神聖な場所じゃ」

「幻夢郷ですか…。」

「私はカマン・ター」

「私はナシュト」

「この炎の洞窟の守護者である」

「あの、私は鷹司宮です。ここは日本なのですか。それとも私が見ている幻、それとも夢」

「幻ではない。夢には近いが…。どうやら受肉したまま幻夢郷にやってきたようだな。夢見る人よ」

「そのう、夢見る人って私の事ですか」

「そうだ、どうやらそなたは猫に導かれてきたようだな」

「ええ、まあそうなんですが」

猫に目を向けながら答えた。猫は座り込んで暇そうにこちらを見ているだけだった。二人の巨人は宮をしげしげと見た後、言葉を発した。

「ふむ、夢見る人よ。そなたは多少、覚醒世界の常識に縛られてはいるが大丈夫だろう。この驚嘆すべき幻夢郷に進むがよい」

と洞窟のさらに奥を指さした。宮が目を向けるとまたしても階段があった。

「………。そうですか、ありがとうございます」

猫は三人のやり取りが終わると立ち上がり、階段の方へと進んでいった。宮は遅れまいと小走りに進んだ。振り返ると二人の巨人がまだ自分の方を見ていた。恐らくはあの二人に何を聞いても、自分が理解できることなどないのだろうと考えた。もうなるようにしかならない。覚悟を決めてさらに階段を下りて行った。

 階段は先ほど降りてきたものよりもかなり長かった。段数を数えていたが、300を超えてからは数えるのをやめた。かなり時間がたったような感じ始めた頃、階段は終わった。宮は木の洞のようなところから顔を出した。洞があった木は階段があるように見えなかった。宮はこれが現実ではないことを確信した。これは夢なのだろう。明晰夢という言葉を宮は聞いたことがある。

足元を見るとついてきた猫が宮を見上げていた。すると一声鳴き声を上げるとまた先導するように歩き始めた。あたりは深い森の中のようであった。時折、生き物の気配を感じる。しばらく歩くと、何か猿のような動物に囲まれていることに気が付いた。宮に緊張が走ったが、猿のような動物に気が付いた猫が威嚇の声を上げるとあっという間にいなくなった。何者かわからないがそれなりの数に取り囲まれたはずだが、猫は軽く一蹴して見せた。猫は何事もなかったように進む。

しばらく進むと森が開け、開けた土地に出た。明らかに人の手が入ったような畑を見つけることができた。作られている作物は判らなかったがかなり広大な畑だった。猫は鳴き声を上げ、さらに進むように促した。しばらく道なり進むと村のような集落が見えてきたが、猫はそちらに進まず、村のはずれの方に向かっていった。しばらく進むと鍬を抱えた農夫のような人間と出くわした。農夫は日本人には見えなかった。少なくとも亜細亜系の顔つきではなく欧州の白人のように見えた。農夫は宮を見つけると声をかけてきた。

「あれま、どちらから来なすった」

またしても日本語であった。今までも現実感が無かったが、この言葉は決定的だった。やはり「はすたぁりく」が見せている夢なのだろう。何の目的かは全く分からなかったが。どうこたえるか宮が悩んでいると農夫は言葉を続けた。

「おや、森の方から来なすったかね、あっちの世界の人か」

「ええと、そうです。この辺りは何という土地なのですか」

「ウルタールの村だよ、猫の村と呼んだ方がしっくりするかね。このあたりじゃ猫は神聖な動物ってことになっていて、みんな猫を崇めているんだ」

「そ、そうですか。ここは欧州のどこにあるのですか」

「欧州ってなんだ。いや初めて聞くな。ここはここだよ。この世界がどうなっているかは、俺も知らないよ」

「そ、そうですか。この先には何がありますか」

「古い寺の後があるだけだよ。猫さんに案内されているんなら、何かあるんだろうさ。困ったことがあったら村に立ち寄るといいよ。あんたみたいな森から来る人はたまに現れるんだよ。この辺の土地に不案内でね、そういった人間にこの世界の事を教えてくれる人間も村にはいるんだ」

「あ、ありがとうございます。では」

宮は少し離れたところで見守る猫から急かすような視線を感じたので会話を切り上げ、歩を進めたのである。太陽はまだ高く、午前中のように思えた。しばらく進むと農夫が言った通り寺院の跡のような物が見えた。寺院といってもギリシアの神殿のようなものに見えた。寺院は崩れており壁や天井は崩れていた。寺院の中央には神像のようなものが見えた。それは猫頭人体の神、バステト神に思えた。そして傍らには崩れた残骸に腰かけた女性を見つけた。

「藤乃ちゃん……」

そこには、宮の前に現れた時よりも少し大人びた姿になった藤乃が座っていた。

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