第3章.捜査資料(1925年9月26日13:00)
「事件の捜査はすでに終了していますが本来は捜査資料を民間人に見せるなんてありえない事です。手早くお願いいたします、お嬢様」
清水誠刑事は報告書の束を長机にのせた。書類の束はかなりの量になる。簡素な椅子に座った宮は早速資料を上から読み始めている。
「大丈夫、時間はかからないと思うわ。多分」
「いくら鷹司家の頼みとはいえ、ばれたら大変ですから目立たないようにお願いいたしますよ。捜査資料はこれだけです」
「結構多いですね。さすが警察だなぁ」
「そりゃそうですよ。自殺ということになっていますけど、千家昭三氏はかなりやり手で資産もそれなりにありましたし、隠居したとはいえ華族ですからね。上も慎重にならざるを得ないのです」
清水刑事が二人を招き入れた部屋は普段は物置として使われている部屋だった。普段は訪れる者はおらず、秘密裏に資料を見るには最適な部屋であった。お茶をお持ちしますと言い残して清水刑事は部屋から出て行った。
「さて始めますか。どこから調べます」
「そうね、まず千家昭三の経歴をはっきりさせましょう」
すでに宮は書類の束に目を通し始めていた。10分後くらいに清水刑事が盆にのせた茶を持ってきた時も刑事の存在にまるで気が付かず、報告書に没頭していた。清水刑事がそそくさと部屋を出た時にもまるで気が付かない様子だった。
「やはり医学部への進学は昭三の強い希望だったのね」
「ええ、大学進学自体は父親の意向で決まっていたことのようですが、医学部という選択は本人の強い希望だったようです。子供のころは尋常小学校に通っていたみたいですが、思春期を迎えるころに祖父の男爵位の叙勲がなって、箔をつけるための進学だったようです。実際、学業は優秀だったようです。進路に関しては研究医を志したようだけど、結局、家業を継いだようですね。何分、資料が震災で焼けてしまいましてね。所轄の警官さんが千家家に仕えていた使用人たちに聞いて回ってようやくわかったとあります。千家昭三の気性の荒さはかなりのものだったようで、使用人たちからも大分委縮していたらしいですね。仕事って大変だなぁ」
「事業の方は順調だったのかしら」
「順調ですね、怖いくらいに。昭三氏は事業を急速に拡大させましたが、稼いだ金で買収や異業種への参入を繰り返していますね。かなり強引な買収を行ったらしく関係者はみんな口汚く昭三を罵っていたようですね。聞き込みを行った警官も大変だなぁ」
「異業種への参入なんて簡単にできないと思うけど、事業は大丈夫だったのかしら」
「そんなに簡単にうまくいかないはずなんですがねぇ、成長の幅はありますが、買収した企業も進出した産業もかなり上手くやっているみたいですね。本業の方も順調だったのですが、流石に買収した会社の方は大変だったみたいですね。参入してから2年から3年は厳しかったようですが、最初の混乱を乗り越えると大きな利益を上げています。ただ手放すことも多いですね。会社を大きくして安定化させると、事業自体を売り飛ばしていることが多いですね。それでかなりの利益は出ていたようです。経営自体は手堅いですね。基本的に買収した企業は赤字を出していたり、何かのトラブルを起こしていたりしました。千家昭三はほとんどの場合、最初は経営の合理化に着手していますね。不採算店舗や不採算業種からの撤退、不必要な在庫や資産の売却、無駄な人員の削減などです。まぁ経営改革の常道手段ですが、不自然な点はありませんね。解雇される労働者たちの抗議も激しかったようですが、結局は企業の再生を果たしています。普段の人使いに関してはかなり酷いものだったようですし、解雇された人間は大勢いるので相当の恨みは買っていると思いますよ。でも結局はそれによって利益を出しています。実業界でもその経営手腕はかなり評価されています。世の中分からないもんだなぁ」
二人は黙々と資料を読み漁った。清水刑事が途中で様子を見に来たが、宮は資料に没頭しているようで、入ってきたことにも気が付いていないようだった。4度目に様子を見に来た時、初めて宮が声をかけた。
「清水刑事、千家昭三が家督を継ぐ際に問題は無かったの、資料によると家督を継ぐ候補者には先代の千家康真の妾の子が2人いたように書かれているけど」
「ええ、かなり揉めたようです。父親は事業をちゃんとやっていたようですが、女遊びが激しく、妾が複数人いたようです。それで男爵家の家督や事業を狙って親戚や部下たちがそれぞれの候補者を立てて後継者を自称していました。だいぶ荒れたようですね」
「資料によるとその妾の子、家督相続候補者の2人が相次いで病死している。これは問題にならなかったの。明らかに不審な死でしょう」
「それはそうですが、当時の捜査では結局、不審な点は見つからなかったそうですよ。まぁ40年くらい前の捜査で当てにはできませんが。病死はちゃんとした医者がついて死亡診断を行っているから間違いないですよ。病名は脚気ということです。遺体には不審な痕跡はなかったようですね。流石に怪しいと思って調べている刑事もいましたが他殺説は否定されています。近代捜査技法をもってしても証明できませんでした。まあ過去の事件ですから」
「しかし、脚気とは。脚気って結局はビタミン不足から起こる病気でしょう。ちゃんとした医者に見せれば適切な治療が受けられたのではないかしら」
「実際、医者に診断を受けたものもいたようですよ。そもそも脚気の治療法が確立したのはこの10年くらいですから、適切な治療を受けられたのかは怪しいですがね。とはいえ漢方医療では対処療法みたいなのがあったらしく、当時ははっきりと証明されてはいなかったけれど、それなりに的確な治療がなされたようですよ。もっとも症状が急激に悪化し、あっという間に亡くなってしまったようです。治療に当たった医者も調べましたが、皆一様に手を尽くしたという証言で、検証しても妥当な治療だったようです」
「ちょっと怖いわね。これ」
「安田という探偵は調べてないの。千家昭三と繋がりのあった人物でしょう」
「ええまぁ、何度か署に読んで任意の事情聴取を行いましたが、守秘義務とのことで、ほとんど碌な調書は取れなかったようです。まぁとはいってもその頃にはやはり自殺であるという捜査方針だったので、重要視されませんでした。千家男爵家からも故人の名誉を汚すようなことはしないでくれとのお達しがありましたので、それっきりですね。家に出入りしていた女性は妾か愛人という事になっています。華族という事で上層部もあえて藪を突っつくようなことはしたくなかったのでしょう」
清水刑事が職務の為、部屋を出た後も数時間にわたって資料の検証は続いた。詰みあがっていく書類は山になり、結局は夜になってしまい、慌てた清水刑事から帰宅を促され、守衛の目を気にしながら事務所に戻ってきた。
事務所に戻った宮は倒れこむようにソファーに身を投げた。疲れ切った頭に忍が用意した砂糖とミルクがたっぷり入ったコーヒーはありがたかった。資料はやはり膨大であり、その大半は警官たちが足で集めた情報だった。資料はもちろん持ち出せなかったため、大量の書き付けを書くことになったがそれでも量は膨大だった。丸一日かけて資料をあたった結果、宮が突き当たったのは、千家昭三の事業に関しての取り組み方に関する疑問だった。爵位と財産を受け継ぎ、家業も順調だった。特に無理をしなくても生活には困らなかったはずだ。それを無茶な買収や恨みを買うような合理化などをしなくても良いはずだ。十分裕福で富もあったのに、さらに事業を拡大させている。実業家という人間なのだから積極的に拡大路線に走るのはわかるが、まるで何かに突き動かされるような無茶な経営である。一歩間違えば破滅が待っているのに、まるでそれがわかっているように恐れずに突き進むようであったと思う。彼は元から人生の成功者である。なぜそんな危険な経営をしたのだろうか。
「結局、千家昭三は何を求めていたんでしょうね。事業は拡大路線を上手く続けていましたけど、同業他社や労働者から恨みを買うようなことをして。もっと慎重になればよかったのに」
忍も同じ疑問を抱いたようだ。そして走り書きをした書付を眺めながらぽつりと呟いた。
「お嬢さん、ちょっと見てください」
忍は何かを思いついたように書付を片手に何かを書いている。
「関係あるかどうかはわからないのですが、これを見てください」
宮が忍の走り書きに目を落とす。
「どうも千家昭三が事業買収に動き出すのは11月からってのが多いんですよ。ええと実業家時代の部下達の話をちょっとまとめると本業の決算が9月で、経営の数字が固まるのが10月上旬頃。このあたりで営業なり経理なりの情報がまとまって、役員による経営方針会議を開いて経営方針を固めるんです。その会議で今後の方針が固まるのです。でも11月頃に突然、千家昭三が買収なり異業種への参入を表明するんですよ」
「そんなことって他の役員が許すの。なんだか思い付きで発言しているように思えるのだけれど」
「そうですね、もちろん大体役員会で猛反発が出るんですけど、結局は創業者一族で発言力が強い千家昭三の意見が押し通ったようです。それに反発して出て行ってしまう役員もいたようですね。そこまでごり押ししておいて、役員達がみんな反対しても、結局上手くいくんですよ。新事業は上手くいって、経営に重大な寄与することもあったようです。或いは経営が立ち直り、他業者へ高額で売り飛ばしたりしていますね。とんでもない利益を出しています」
「なら最初から役員会議で話せばいいでしょうに。そんな簡単に重大な事、勝手に決めちゃ駄目でしょ。唐突過ぎるわ」
「そうなんですよね。ほぼ毎年そんな話が起きていますね。部下や役員達も毎年振り回されて大変だったようですね」
「昭三は何を根拠にそんな無茶なこと言いだすのかしら」
「分かりません。部下たちにほとんど説明しないまま話を進めて、弁護士なり、事業家仲間に声をかけてあっという間に話が進んでしまうようです。10月の役員会議ではそんなことおくびに出さないのに」
「そんなことが毎年起こるの。まぁ自分の会社だから何したっていいと思うけど、部下たちは堪ったものじゃないわね」
「ちょっと気になったので先代も調べたのですが、父親である千家康真も似たようなことをやっています。こちらは毎年ではなくて3年から4年にかけてじっくり調べてから買収を行っていたようですね。ただこちらも10月の役員会議を無視して11月に突然言い出していたようです。11月頃突然、買収の準備を部下たちにさせて、3年位準備して、満を持して買収に乗り出すようです。異業種の参入はしなかったようですが、同業他社を乗っ取って事業を大きくしていったようです。千家家の事業は元からかなり大きかったのですが、あっという間にさらに大きくなりました。買収も迅速に行い、失敗は殆どなかったようです。経営手腕も確かだったらしく大体うまくいっていますね。康真氏の頃から古参の役員や部下は11月になると何を言い出すかわからないと苦慮していたみたいです」
「忍、何が言いたいの。千家家の経営方針に規則性があったように見えるのはわかったわ。それが何を意味するかが分からない。偶然と片付けるは難しいと思うけど、この規則性は何を意味するの」
「こちらを見てください。康真氏や昭三氏が買収した案件ですが、大抵は経営の危機状態にあったようです。もちろん買収されるような企業なので何かしら問題はありましたが、経営が揺らいだところにまるで狙ったかのように介入してくるのです。そこに注目するとまた妙な事実を見つけました。買収された会社の経営が揺れた原因が創業者や経営者、有力な役員が急に死亡したため、社内の権力構造が揺れた時です。その時を狙ったかのように買収を仕掛けています。さらに買収が成功した後も経営に支障がありそうな人物が亡くなっています。昭三氏が進める改革に反対する指導者的な役員や労働組合の代表が死亡しています。その為、経営の合理化が早く進んでいるんです」
「……続けて」
「その指導者なり経営者なり創業者なりの死亡原因がですね、病死なんです。ちょっと待ってください。ええと、昭三氏が引退するまでに買収した案件は21社です。その中、19社で経営に重大な関与する人間が死んでいます。みんな病死ということになっていますね。その内12社で病名が公表されています。他にも8社で経営のやり方や大規模な人員整理に反対した労働組合の代表者が病死しています」
「それって……」
「脚気です」
「……」
「脚気の治療法が確立したのはここ10年位です。今でも死亡する人は多くいます。脚気は珍しい病気ではありません。ですがこの数は異常です」
「どういうこと、昭三氏には狙った人間を重度の脚気にする方法があったとでもいうの」
「分かりません。でも偶然では片付けるには異常すぎます」
「そうね。でも私には会社ぐるみでやっているという印象はないわ。どちらかというと千家男爵家に何か秘密があるように思える」
その時、玄関でベルが鳴った。
「客ですかね」
「いえ、違うわ。多分、私への使いの者ね」
そういうと宮は席を立ち玄関へと向かった。宮はドアを少し開け、訪問者と何事かの話し合いをしているようであった。数分で訪問者は去り、宮も事務室へと戻ってきた。
「お嬢さんの使いの者ですか」
「そう、安田探偵の事を家の者に調べさせていたの。捜査資料で住所はわかったけど、近況が知りたかったの。明日行ってみましょう。でも面会するのは無理みたいね」
「どうしてですか」
「探偵、安田公則は2週間前に死亡しているの」
宮は使いの者から渡された書類に目を通して言った。
「病死ね、脚気ですって」
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