White whale (10)
ヘドロの臭いが染みついており、滞留する空気の領域に踏み入れた瞬間、全身を押し返すような重たい空気を感じたほどだった。
けれどまあ、慣れている。大都鉄道網のプラットフォームにしたところで、通常は生産活動プラントからの有毒排気ガスを封じるために水没封印されているのだ。たまに入るそこで感じる、明らかに体に良くない空気と比べればどうということはない。
背丈よりは天井が高く、二人すれちがうには十分、という程度の『広いドブ』と形容すべき道をひた進み。途中でつながった道をスミレが「こっちです」「ぁっち」「次は向こぅ」と言うので、指示のままに進んだ。
於久斗がその迷いのなさに逆に不安を覚えたのか、訊ねてくる。
「問題、ないのか」
「住民の暮らしぶりとか温度感的な細かい情報はともかく、道順とか数値的な情報だったら俺よりよっぽど精通してるよ」
「……流れ着いて、ここで暮らして。半年も経っていないのに、か?」
「見たもの忘れねぇし聞いたことも忘れてくれねぇからな」
驚愕に固まった表情をしている於久斗だが、それが事実なのだ。しょうがない。スミレは言葉の上だけの情報に限れば、すでに南古野でも指折りの事情通だろう。
もっとも言葉で説明できない事柄も多すぎるため、それでいても有用度は半分、といったところだが。すたすたと歩いて鉄道網への脇道階段を選ぶ彼女を見ながら、理逸はそんなことを思った。
階段をくだっていたスミレは、後ろにつづく理逸と於久斗を見ながら言う。
「ここょり、鉄道網補修用の
「泳いで通れるか?」
「首から下が爛れる覚悟をできるのでぁれば」
「勘弁だ。つまり、俺が運べばいいんだな?」
「少しは察しがょくなってきましたね」
うるせぇ、と返しながら理逸は彼女の前に出る。ちょうど、階段の終わりだった。
五段下に、ちゃぷんと灰色の波が押し寄せている。
けれど波から視線を上げれば、彼方まで二百メートルほど道がつづいている。もっとも、水面から天井まで一メートルもないこの状況を『道』と呼べるのなら、だが。
「俺か深々さん、あるいは水面を歩けるやつでもなきゃ通れない道だな」
「ぇえ。オクトさんのプラィアも、おそらく全身への『浮力』を打ち消すため沈むばかりでしょぅし。そうなれば薄闇の水中で光を感じられなくなり、プラィアも解けて、全身が毒の水で爛れるのでしょぅね」
「恐ろしいことを言うな……」
げんなりした様子の於久斗だった。
が、彼は理逸より重たいわけでもない。引き寄せのプライアを使えば、背負って十分に移動は可能だった。
「往復すれば難なく全員移動できるな」
「向こう岸にぃけば、北遮壁から五百メートルほど離れた地点へ出るはずです」
「オーケー。戻ったら、慈雨にハマった妹さんの説得になるしな。振り落とされるなよ」
「頼むぞ、三番」
スミレの読みに従い、理逸はまず於久斗を背負った。向こうで万が一伏兵が居た時、無敵の影の盾を持つ彼なら殺される心配がないからだ。
「じゃあ行くか」
双つのレンズが嵌まったゴーグルをかけ。
隧道の天井に灯り、灰色の水面をきらきらと照らす固定照明のひとつを見つめ――『引き寄せ』。
於久斗を背負ったままで上下反転、頭を水面に向けながらも両足を天井につけた理逸は、屈んだ姿勢で足裏をがりがりと天井にこすりつけながら移動した。長いことなにも触れていなかった天井は予想通りに埃と乾いた泥を削り落とされ、視界を塞ぐ。於久斗が後ろで、もごもごうめいた。
それを無視しながら見える照明へ次々と引き寄せをおこない、天井に足裏を貼りつかせたまま滑り切り――反対側にたどり着いてプライアを解除、上下反転して着地した。
「於久斗、大丈夫か」
「気持ちが悪いな……」
「また吐いててもいいけど。とりあえずスミレ迎えに行ってくるぞ」
理逸自身は引き寄せの移動に慣れているため、上下逆さや遠距離までの慣性もたいして負担にならない。
先ほどの滑走で天井から削り落とした埃が落ち着いたのを見計らって引き寄せで戻り、またスミレを背負って往復してくる。なおスミレも埃には辟易したらしく、「っちゅん」と謎のくしゃみをしていた。
ともあれ、ここからは上がるだけだ。
時間帯としても夜を迎えるにはだいぶ早い。三人は入り組んだ地下街を通り、何番出口が近いか吟味し、予想した道が塞がれていたので戻り、また道を選んで。
ようよう、出口から身を這い上がらせた。
夕刻の空気が漂っている。
乾燥しっぱなしの南古野に、わずかだが湿度が降りる時間だ。
「さて。電波塔の方を目指して、組合で深々さんに報告するか」
求生総研という外部組織の存在。加えて慈雨の会がそれと癒着している事実。沟と水道局はどこまで求生にからむのかわからないが、ともあれ状況は良くない。
深々と共にこの事態に対して対処に乗り出さねばならない。
そう思いながら踏み出した理逸の横で。
「……なにか嫌な音がしてぃませんか」
「音?」
スミレが顔をしかめながら言うので、理逸は耳を澄ました。
だが聞こえるというより、それを肌で感じた。地面から伝わり足を這い上るような、低周波の振動音。
ここに暮らしていれば、何度も経験のある音だ。旧時代からろくな手入れもされないまま放逐された
大質量の物体が崩壊する音であった。
「……?」
土煙、砂埃、ついで黒煙が舞い上がっている。
見えている空が埋め尽くされつつある。
つまり近い。
進もうとする先にそれはある。
電波塔跡地の方面だった。
「おい、まさか」
「確認しましょぅ」
「於久斗、悪い。あとで組合本部まで追いついてくれ」
返してくるスミレを背負い、駆け出す。
引き寄せを駆使し、街灯へ跳躍しそこを踏みつけにしてビル壁面の突き出しポールへ。これをつかんでスイング、角を曲がればまた街灯へ。
空中を利した機動力で障害物をないものとした理逸は、ものの三分でいくつもの区画を駆け抜けた。
そして、目にする。
「……馬鹿、な」
組合の本拠地、生活可能ビルが。
七階建ての構造のちょうど半分、三階と四階の間で、折れかけていた。
隣のブロックに建っていたビルが爆破解体でもなされたのか、道をまたいで倒れ掛かってきたらしい。その、ビルの頂を横っ腹に突き刺され、崩れかけ、炎上している。
火消しや周辺住人が集まり、恐々と見上げていた。野次馬のなかには、ゴーグルをしたままだった理逸を見て「三番だ」と気づいた者もあった。うちのひとりに詰め寄り、理逸は訊ねる。抑えようもなく、声はうわずった。
「一体、なにがあったっ⁉」
「わ、わからないです。轟音がしたから出てきたら急に隣のビルが崩れてて、倒れ込んで」
「それから、倒れ込んだビルを斜め掛けのハシゴみたいにして、何人かビルに入っていきましたよ」
「……はぁ?」
「倒れたビルの側面を、走っていくような感じで……」
横にいた野次馬からの話に、理逸は困惑する。もう一度ビルを見た。
たとえるなら「人」の字――のような状態になっている、要するに倒れ込んで組合のビルにもたれている、傾斜四五度はありそうなビルの側面を。人間が走って、乗り込んでいった?
こんなわけのわからない目撃証言に対し、スミレは情報を組み立てる。
「……組合の生活可能ビル自体は、暗号を持たされた者ゃ関与する者しか入れなぃ空間で警備も厚かったです。けれどいま倒壊させられたほぅのビルは『崩れゃすぃから』と放逐され、警備もなかった。だから、崩す準備も事前にできたのでしょぅ」
「いや、だとしても……あの急斜面の側面を走って、入る?」
「ここまで空中を疾走してきたひとが言ぅのですか?」
たしかに、それもそうだった。プライアホルダーは現実を超越する。なんらかの能力を駆使して入り込んだとしても不思議はない。そんな当たり前のことにも思い至らなかった自分があまりに動揺しているのだと気づき、理逸は歯噛みする。
「そいつらは出てきたか?」
「見ていた限りではまだ……」
「急襲とぃうことは、組合への攻撃でしょぅ。ぁの方たちがそぅ簡単に倒されるとも思ぇません。時間がかかってぃても当然です。して、どのょうなひとたちが入ってぃったのです?」
「群青の制服で、水道局の奴だ」
その言葉に、
理逸は硬直した。
もう一度見上げる。
はるかに地面より離れた場所。
位置エネルギーを蓄えた、そこ。
ビル。
高所。
燃え上がる戦場。
水道警備兵。
……組合。
《七ツ道具》。
繋がっていく言葉と言葉が、理逸のなかに過去の記憶を再現させる。
まるで変化することなく、
溶け出ることもなく。
脳内で状態を固定されて
そのままに
なっていた
記憶の肉塊が、
急激にとろけて崩れて滲んで混じって含んだ液体を脳内に染み出させた。
心臓の拍動が
リズムを変える、
横隔膜が
躍る、
その意味を察したときにはもう吐いていた。
「おっ……ぁ、ぉぉぅえッ、カッ、は、……ぉ、ぅうぶ」
久方ぶりの
……ちがう。
ちがう、
ちがう!
もうそれを克服する力を、理逸は得ている。この、震える両手に、宿した力は――兄の死を踏み台に得た力は、他者の命を救うためのものだ!
敵でさえ殺さずにきた。殺さずに、進んできたのだ!
だから……
だから!
「ぃきましょぅ」
告げるスミレを、冷酷と詰る者も居たかもしれない。
けれど理逸にとってはありがたかった。
進めない自分を許さず背を押してくれる存在は、少なくともいまの彼にとってはもっとも望ましいものだった。
「……ああ」
口許の吐瀉物を手の甲でぬぐい、屈んで、その手の甲をカーゴパンツの裾で拭いた。
反吐を口から噴き出し、もう準備はできた。ぐ、っと屈みこみ、跳躍の準備を整える。
スミレを背に負う、理逸はビルへと飛び出した。
#
#
「お前、そんなに剣を手放したくなかったのか?」
……敵からのその言葉に至るまでの時間は、一分にも満たなかった。
組合のある生活可能ビルに激震が走り、内部に居た蔵人と譲二、織架の三名が対応を考慮しているうちに――戦闘は始まり、終わった。
状況の把握と伝達のために
そこで、階段を駆け上がってくる音を聞いた。
「敵襲かァ」
「ですね、蔵人さん」
「んだ」
短く譲二と言葉を交わし、共に階段へ向かう。織架はおそらく屋上に出て状況把握と連絡に至っている。まずその時間を稼ぐ必要があった。
いま深々と十鱒は沟への交渉で出払っており、理逸は仲裁人としての仕事中。婁子々も同様に
ゆえにいま動ける戦闘人員は自分たちだけである。その自負を身に帯びながら、蔵人は腰の刀を、譲二は背負った
四階まで降りようとして、階段の途中で接敵する。
そこに居たのは水道局の制服を纏った連中だった。どうやったのかは知らないが、隣のブロックのビルを破壊・倒してきてこの生活可能ビルの中ほどに先端をぶつけ、これを足掛かりに侵入してきている。
水道局が約定破りを重ねるつもりか? あるいは制服で素性を隠すつもりの別派閥? 2nADの謀反?
様々な可能性は脳裏に浮かんだ。
けれど「殺すべき相手」であることが変わりない以上蔵人の体は鍛錬通りに跳ね、刎ねる。
「覚悟」
正眼に構えていた切っ先をわずかに振るう。動作と共に切っ先を伸ばす。
《物干し竿》とあだ名された蔵人のプライアが、刀身の質量をもとにして切っ先を伸ばす。伸ばすほどに刃が細くなるため最大でも十五メートルほどの間合だが、剣にすべてを賭してきた彼にかかれば十分すぎるリーチだ。
縦に二、その後ろに横並びで二、最後尾に一という五人体制で挑んできていた兵力。
提げていた
伸ばした切っ先を階段の斜めにかしいだ天井に差し込み、元の長さに戻すことでの引き寄せ。
三番である理逸からも貪欲に吸収した機動術が、頭上という死角を取った。
「死ねや」
真上からの横薙ぎ一閃。五名中四名をラインに捉えた一撃。最後尾から先頭まで過ぎ抜けるはずの一刀。
だが刃を受け止められる。捉えにくい頭上まで視線で追い続ける反応・神経加速がそれを可能にさせる。
最後尾の一名が、安臥小銃を盾にして防いでいた。
「蔵人さん!」
譲二の銛が、踊り場から投げ放たれた。最前列の一名が反応して体勢を崩す。だがそいつは最初から狙っていない。銛は放たれたあとで譲二のプライアである「軌道設置」により動きを捻じ曲げられる。
弾道を変えたくて仕方がなかった過去を持つ彼のこの能力は、応用こそ利かないが初見の相手には必中の投擲として機能する。
もっとも。
相手が練度高く高速反応を持つ機構運用者でない場合は――だが。
「当たるときに当たるよう投げるってのは、読みやす過ぎるぜ」
裏拳で迫る銛の切っ先を弾いて笑い、先頭から二番目に位置した赤髪の巨漢が左片手で安臥小銃を撃ち鳴らす。ストックの端を腹部に押し当てながらの片手撃ちは、じつに慣れた様子で弾丸を送り出し譲二の腹部と胸部を貫いた。
「譲二ッ」
「ひとの心配している場合か?」
蔵人の刃を安臥小銃で受け止めていた最後尾の、これまた巨漢。坊主頭の彼は発達して突き出た下顎でしかと歯を食いしばったのが見える表情で、銃身に食い込ませた刀をねじるようにして蔵人の重心制御を奪った。ぐるんと反転して階段へと落とされそうになる。
即座に刀を手放す。途端に刀身はもとの長さに戻り、巨漢は重心変化に姿勢を崩した。そこへ、今度こそはと脇差を抜く。
板バネ製の強靭な刀身は小具足ながら防刃素材も断つ重みを持っており、着地即の抜き打ちで目の前の相手を両断せしめんとした。
そこで見たのは前蹴り。
抜き放つ直前。切っ先がまだ鞘にあるうちに、柄頭を蹴り戻された。相手は馬の尾のように髪をまとめた女傑で、冷ややかな青の視線が蔵人を射抜く。
次いで銃撃も蔵人を射抜く。タクティカルジャケットが即死は防いだ。とはいえ肋骨のほとんどが破砕されたのを感じた。胃腸から込み上げる血と、肺腑心臓肝臓脾臓膵臓を銃弾の雨に殴られたことによる脂汗の噴出。両腕から力が抜ける。
それでも掌は脇差から離さない。
歯を、食いしばり。
抜き放ってから、ではなく鞘内でそのまま伸ばすことにより、
この反動を利して突撃し、蔵人は体当たりで眼前の女を階段の柵に叩きつける。つづけざま、階段を一段上がるように右足をさらに半歩踏み込んで下から上に突き上げる体当たり。本来なら相手の剣を打ち下ろして無効化したあとに仕掛ける技。折れた肋骨が各所に突き刺さり、胴体が爆発するような激痛が襲う。
否、胴体が四散させられている。
至近で浴びせられた銃弾がずたずたに引き裂いていた。一度目の掃射ですでにぼろきれだったジャケットは守りの役割を果たせず、熟れ落ちた果実のように蔵人の内から体液がほとばしった。地面に汁が飛び散っていく。
「お前、そんなに剣を手放したくなかったのか?」
力をなくし、柵に倒れ掛かって上半身が階下へと落ちかけながらもなお脇差を手放さない蔵人に、坊主頭の巨漢が言った。女は二度の体当たりで背骨をへし曲げてやったので死んだようだが、残り四名は無事だった。
口惜しや、とぼやく蔵人。
かすんでいく視界のなかでまだ、右手は脇差を握っている。
……あのとき蔵人は、手放せば死ぬと思っていた。
仲間が死にそうに、なっていた。手にした剣を投げれば、奴のことは助けられたかもしれない。
だが蔵人も斬り合っている最中だった。得物を手放すわけにはいかなかった。掌に吸い付き根を張ったようだったあの日の刀の感触は、一日たりとも忘れたことがない。
その感触を離せないまま、あの日蔵人は仲間を見殺しにした。
投げれば助けられたかもしれないのに。
いや、助けられたはずなのに。
わが身可愛さに、投げなかった。
だから。
この刃が、届けばよかったのに、と
「……、」
蔵人の手から刀が離れる。
螺旋に渦を巻く階段の、一階まで繋がる吹き抜けを落ちていく。
その切っ先が地面に当たるのを見届ける前に、彼は命を手放していた。
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