White whale (2)
理逸が車輛というものに乗ったのは初めてだが、慣性に振り回されるこの感覚は引き寄せで空を飛んでいるときに近い。だが自分で制御できない慣性で右に左に身体を揺さぶられるのは、気構えができないのもあって非常に落ち着かない。
総じて、乗り心地は悪いと言えた。
「うぇ」
助手席に居る理逸のうめきが路面にこぼれてあっというまに後方に流れていく。
狭い路地から飛び出すまで、加賀田は細かく右に左にハンドルを捌きつづけた。その都度車体がぐわんぐわんと波に揺られるように傾ぎ、三半規管を痛めつける。時折ザリザリと側面が壁に擦れ、目の前に現れた人を跳ね飛ばしそうになり、それでもアクセルは緩めない。
やっと広い道に出ると少しは落ち着いたが、それも数秒のことだ。今度は急加速でドふっとシートに押し付けられ、首がのけぞる。呼吸のしづらさを感じながらなんとか揺れに逆らい視界を取り戻すと……取り戻さない方がよかった、と感じた。
引き寄せ移動のときの比にならないスピードで、前に現れた景色が次の瞬間真横に来てまばたきしたらどこかへ消え去っている。
「……車ってのは、こんなに、エグいもんだったのか」
理逸が漏らすと、スミレが後ろで否定した。
「ぃえ。この人の運転が荒ぃだけです」
「……なるほど」
「車輛というのは人類が運搬速度と運搬量を求めて開発したものだ。トばさないのはむしろ技術に対して失礼だと思うのだぜ」
ガコガコ、と、加賀田の左手がシフトレバーを操作する。五速と書いてあるところに入った。
ヴぁんン、と、さらに唸りが大きくなった。また加速する。大通りを通り抜けていくと、両側にひしめく露天商のテントが車輛の巻き上げる風で壊れんばかりにはためいた。なお、於久斗は少しでもダメージを軽減しようと影を纏っておりひとことも口を利かなかった。なかで気絶してるのでなければいいが。
「でもこの速度なら、追っ手も――スミレっ伏せろ!」
わずかな安堵を覚えかけた理逸だが、射線の存在を感知した。
とっさに引き寄せで於久斗を手前に引き、スミレへの射線の盾にする。
走りつづける車輛に追いついた銃声と於久斗の体表で威力を奪われ落ちた弾丸が、射手の存在を明らかにする。
弾丸は、真横から飛んできた。また、そちらの方向からエンジンの音もする。
雑居ビル群のブロックを挟んだ一本向こうの通りを、追っ手が車輛で並走している。こちらの通りに繋がる脇道の横を通り過ぎる一瞬に銃撃してきたのだろう。投げられた縫い針が落ちるまでにその穴へ糸を通すような技だ。
間違いなく機構運用者が、優れた知覚能力による補正で射撃している。
「ふん。
加賀田は言って、ハンドルを左に切った。細い道に入り、抜ける。すぐまた左に切る。
途端に背後に車輛が現れた。後ろとの距離は二十メートルほどしかない。
「おい
「馬鹿を言うなよ《蜻蛉》、ありゃ先の並走車輛ではないさ。待ち伏せの伏兵に決まっている」
「待ち伏せ?」
「機動兵および伏兵で逃げ道を塞ぐよう広く囲い、斥候および遊撃隊で追い込みをかけてその逃げ道に誘導するのは市街地戦のセオリーだ。ヤクザどもの追い込みや抗争でもそうだろう?」
言いつつ加賀田は右に左にハンドルを揺らし、向こうの射手の狙いを定めさせないようにしていた。
ケートラに似た荷台持ちの、しかし前方一輪・後方二輪の三輪で走る車輛だ。運転手のほか、荷台に居る一名が銃をこちらに向けているのがルームミラーで確認できる。
発砲音。だが加賀田が首をすくめたことで、彼の真後ろに居た於久斗の頭に当たる。この流れをじっと観察していた――目にはすでに発動の青い光がある――加賀田は、一瞬手首の腕時計に目を落とし「一秒フラット」とつぶやいた。直後、また左右にハンドルを切る。狙いを定めさせず、当てられないように。
そしてその、振り子運動のような揺らめかしのあと。
後ろを見ないで右手で銃を抜き、
いきなり自らの肩越しに発砲した。
背後でハンドルを切り損なった音があり、破滅的な音がする。
理逸が振り返れば、追っ手の三輪車輛は建物外壁に突っ込んでいた。荷台の男も運転手も頭を撃ち抜かれている。驚きながら加賀田を見やれば、制式拳銃をぷらぷらと頭上に掲げつつ言った。
「運用者としての腕が良くとも対人経験が少ないやつは、射線とタイミングが正直でいかんね。機構が算出した照準補正まんまで撃ってくるなら、その射線をコンマ一秒早くこっちが撃てば当たらないはずがなかろうに。機構戦は早撃ちか読みで上をいくかどちらかに特化せねば」
「加賀田、あんたすごい奴だったんだな……」
「ははは。ただ、いまのを情報リンクされていると向こうも補正の補正を入れてくると予想できるのでね、次は《蜻蛉》にも手助け願おうか」
なにぶん弾は残り一発だ、と言いながら加賀田は肩をすくめ、ようとして鎖骨の不調から顔をしかめたので、理逸も蜻蛉との呼称につっこむのはやめにしておいた。
「やれやれ。肩もこの調子では、市街地まで抜けるにはまだまだかかりそうだな。お嬢さん、この
腕時計を外すと後ろに投げる。受け取ったスミレは表示された
そこからはまた荒っぽい運転のなかで身体を揺さぶられ、時折理逸も引き寄せで追っ手を荷台から引きずり落したりハンドルのミスを狙い、なんとか包囲網に穴をつくった。
完全に町外れ――灯京方面に向かうための高速道路沿いにある、廃墟群のことだ――までやってくると、加賀田はやっと目から青い発動光を消す。
「ひさびさのドライブにしてはなかなか刺激的だったのだぜ」
「刺激というにはスパイスが利きすぎだったように思うけどな……でも、助かったよ。ありがとう」
「ゎたしも、一応感謝ぃたします」
「今度は受け取ろう。もう追っ手もないようだしな。で、なぜ追われていたのだ?」
理逸とスミレは於久斗の方を見る。
だが彼は激しく揺さぶられたせいですっかりやられてしまったようで、車輛の外に身を乗り出して嘔吐している最中だった。
「……まあ本人は無理そうだし、俺から答えるよ」
理逸は於久斗が子どもの人体を解体したパーツの運び屋をさせられていたこと、それを指示したのが慈雨の会に関係するらしいこと、またそれらを当人は知覚できておらずいわゆる催眠状態で運搬に従事していたこととを話した。
とくに一連のなかで『催眠状態』というところで眉を跳ね上げ、加賀田は興味をそそられた様子だった。ハンドルを緩く握って運転しつつ、片手で顎のあたりを撫でている。
「人心を操る術かね」
「こんなことできるのはなんらかのプライアじゃないかと、俺たちは疑ってる」
「ふん? だがプライアとも限らないぞ。当人に殺人や自殺や傷害といった心的禁忌事項をさせていないあたり、後催眠暗示でも十分可能だ。それらは無意識領域でもセーブがかかるからな」
「なんでも知ってるなあんた」
「心的外傷の根を辿り話を聞き出すため、いろいろ手を出した時期があったのだよ。後催眠はもちろん、眼球運動による脱感作であるとか……その過程で結局プライアに目覚め、そちらによるサンプル収集が主となったがね」
くく、と加賀田は笑う。
問いかけにより、相手の記憶から答えを得るプライア。己の興味本位で他者のトラウマに踏み込む加賀田の露悪的な方法を思い出し、理逸は少し嫌な気分になる。
スミレはその嫌悪がよい強いらしく、加賀田に腕時計型機構を返却しながら言葉で刺した。
「ぁなたも心の傷でプラィアに目覚めたのでしょぅ。他者のそれを掘り返すことに思ぅところはなぃのですか」
「群れの一部にこだわるつもりはないし、そもそも私の能力は相手に『答えたことを悟らせない』。つまり、答えてはならないことに答えてしまったとしても罪悪感を持たずに済むのだ、私はこのプライアに感謝しているし、これがあったおかげで命を拾ったやつらもそうだろう。なにに『思え』と言っているのかわからないな?」
「踏み越ぇてはならなぃ領域の話です。了解を得ることなく他者の尊厳に関ゎる記憶に触れたことを是とすれば、ひとは容易く他人を踏みにじるょうになるでしょぅ」
「前回と同じ、出発点のちがいだなそれは。私はそも傷つけあっている状態こそが群れの中の正常だと定義している。キミは他者との共存それそのものは傷がない、あるいはあっても無視できるほど軽微だと考えているのだろうが私はそう考えていない。社会における役割の鋳型に身を収めようと自分の在り様を削るとき、それを選んだのが自身であっても選ばせたのは群れだ。この鋳型の選択過程こそが適応であり、個体の死ににくさに繋がる……私はそれを解き明かしたいのだ」
途中から加賀田は、聞かせるよりも自分に言い聞かせているように見えた。スミレは嫌悪と、それに入り混じる薄い戸惑いを浮かべて、会話を打ち切り窓辺に頬杖ついた。
会話にならないわけではないのだが。加賀田の奥深くで定まっているある種の価値観は、おそらく相当に他者と共有しづらい。
加賀田が自身の述べた後催眠や眼球運動がなんとか……という方法を捨ててしまったのはプライアが手に入ったからで、手段としてそちらの方が簡単かつ優れていると彼が判断したからに他ならない。実際、彼はいま語ったように『被術者が話したことを覚えておらず罪悪感がない』という部分に重きを置いていると見えた。そこを優れている、と考えているからだろう。
そのような力に目覚めたのは、罪悪感を辛いものだと感じているからだ。そんな加賀田は尋問を得意とし、頭も回る。自分で自分の罪悪感への偏重を、気づいていないわけがない。
だからいっそう、自身のやり方にこだわってしまうのかもしれない。
「……とりあえず、俺らの前で断りなくプライアを使うのはやめてくれ。見ていて気分のいいものじゃねぇんだ」
「共感できない感想だな。私の能力でなにかを知り得たとしてもキミらが黙っていれば、それは人の居ない森で倒れた木の音に過ぎないだろうに」
皮肉でも嫌味でも嘲りでもなく彼は言う。「だが一応、覚えてはおこう」と付け足した言葉にも別段の重みはない。面倒を避けたいだけの言葉だ。
だが面倒というなら、理逸たちも降りかかった面倒を避けるため加賀田を利用したと言える。結局、人倫とはあやふやで、ただ群れの足並みや色をそろえるためだけのものなのかもしれない。
「……北遮壁が、途切れるな」
やっと吐き終わったらしい於久斗が、青い顔をあげて言う。
見れば高速道路の一部が損壊し、崩れ落ちている。新市街側と南古野を分かつ壁の、ごく一部でこうした箇所がある。
迂回ルート。
二つの街にまたがる流通経路のひとつが、目の前に現れ始めていた。
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