Wandering wag (8)


 握っていたワイヤーがぴんと張る。

 視線をやると、尾道が動き出そうとしていた。こちらに引き寄せる力+こちらが壁に引き寄せられる力+全力で駆け込む体重移動の一撃、という技を喰らったのに、タフなものだった。


「おい。殺しはしないが、逃がす気もないぞ」


 ぐっとワイヤーを握り込んでその場に引き止める。ぐえっと悲鳴をあげながら尾道は這いつくばった。それでもじたばたと逃れようとして、先ほど理逸の引き寄せで引き破られたシャツの胸元がのぞく。


「……ん」


 思わず理逸の言葉が止まる。

 尾道のシャツの下の素肌は、隙間などないほどに傷で埋め尽くされていた。

 それも裂傷や擦過傷ではなく。

 全身焼き焦がされた、爛れた傷痕だった。

 ……反撃用。報復のためのプライア。

 彼が身に帯び経験してきたことの一端を、理解する。


「……負った痛みの分、要領よく生きようとしてなにが悪い」


 見られたくないものなのだろう、シャツの襟元を手で掻き寄せて尾道は言う。

 そもそも、プライアはトラウマから生まれる。辛い経験苦い想念憎い現実、これらの思いと密接に結びついて冷凍保存された地獄の感情記憶が生みだす。

 ゆえにプライアそれを忌避し、使いたがらない者。使うとしても発現状況・原因を探られたくない者は多い。……理逸だって、後者に該当する。

 疲れ果てたのか力無く身を横たえる彼を見て、理逸は同情した。

 だが、同情するだけだ。


「被害者意識ってのがいつどこでどんな相手にでも通る正しい道理だと思い込んでんなら、裏を返せばそれは『絶対に加害者になってはいけない』ってことだぞ」


 立場が正しさを担保するのなら、立場を逸した行いは出来ない。してはならない。

 ここを踏み越えている時点で、尾道は同情に値しても配慮と斟酌しんしゃくに値しない。


「お前の行いは加害者そのものだ。とっくに、被害者としての正しい道理なんてものは失ってるんだよ」


 理逸の断言に、身を丸める尾道はもうなにも言わなかった。

 決着だ。動かない彼の手足を縛って、連れて行こうとする。

 だが縛ろうと近づいたタイミングで、尾道が最後の手段とばかりにポケットへ手を差し込み、中身をあたりにぶちまけた。


 水道免税券。


 凪葉良内道水社が発行する税の優遇券……南古野で流通するいくつかの『貨幣』のひとつだ。あとは一部の外貨──といっても諸外国も軒並み滅亡を迎えたため外の元・国家の統治区通貨ということだ──が主な貨幣となっている。

 要するにあれは『金』だ。

 まき散らされたこれを見て、それまで背景でしかなかった路地裏の住民たちが目の色を変える。

 十数人が、

 ワ、っと、殺到して、尾道を引っ張る。まだ金がないかと揺さぶるために。

 ザ、っと、道を埋めて、落ちた金を拾い集める。ここの住民からすれば相当な生活費になるからだ。


「くそ──」


 人波に遮られ、ままならない状況に理逸は毒づいた。

 ずるずると引きずられた尾道は素早く群衆のひとりを背後から羽交い絞めにすると、相手の顔を焦熱の掌で焼いて脅した。

 人だかりの発する声で詳細は聞こえないが、喉元に手をやっていることからしてセリフは「命が惜しくば」で間違いないだろう。脅迫によって経路を得た尾道は、また細い道へと退避していく。


「おい、待てっ、おい!」

「リィチ、ひとが、あっ」


 スミレもばたばたと、人波にさらわれそうになっている。

 追うか残るかわずかに悩んだし名を呼ばれた不快感に顔をしかめたが、情報もほとんどなくここまで尾道と理逸を追跡出来たスミレがいる方が逃がさず済むと思われた。

 理逸は右手をかざし、人だかりに揉まれているスミレをぐっと引き寄せる。途中で手を開いてプライアを解除し、慣性に従って飛んできた彼女の腋下に手を差し込んで抱え上げた。周りもプライアの発動にどよっとしたので多少動きやすくなる。


「スミレ、どう逃げたか予想はつくか。この辺りの道に詳しいんだろう」


 不快そうに身をよじり、しかしこの人込みのなかを自分で歩くのは無理だと思ったか、スミレは理逸の首に腕を回してぶら下がりつつじっと路地に目を凝らす。スミレの体温は高く、身体からは焚き込めた香のような匂いがした。


「……ぁそこに入ったなら、大通りに一度出ます。人質を連れてぃる以上、狭い道は通れなぃですから」


 この言葉を受けて理逸は駆け出す。尾道を追って路地に飛び込んだ。抱えたままのスミレに問う。


「大通りに出て、そこからは」

京白ジンバイ市場を抜けて追っ手を撒き、歓楽街に入るのではなぃでしょぅか」

「希望街じゃなく、か?」


 大通りとは先ほどスミレが2nADの四人と別れたあたりだ。希望街もほど近く、身をひそめるならバラック群の構えるあちらでもおかしくはなさそうだが。

 そんな理逸の意見をまるで素人考えと言いたげに、スミレは深く嘆息して見せる。


「たぶんぁいつはまだぉ金を隠し持ってぃます。でも希望街の人々は、金で黙らせることができません。ぃえ正確には……黙ってぃてはくれますが、他の人に『居場所を教えろ』と金を握らされたら素直に言ぃます」

「まぁそうなるだろうな」

「その点、歓楽街の店の人間はぉ金を払ぇば貝のょうに口を閉ざします」


 なるほど。だからこそ歓楽街方面を使うと。


「お前の読みは当たってそうだ。あとは俺を案内できるか?」

「ひとを測位置誘導案内ナビみたぃに……まぁ、構ぃませんけど」

「頼んだ」


 スミレの指示に従って道を選び──大通りを抜け、街の西側へ。

 ここまでは希望街や安アパート、私娼窟といった居住の場だが、歓楽街との狭間にあたる緩衝地帯たるここの大公園から毛色が変わる。

 つまり、商売っ気が増す。

 すっかり日が暮れて夜市イェシィが開かれるここ京白市場は、布の天蓋を張り巡らした屋台がぎっしりと詰まって独特な空気を振りまいていた。

 食事のスパイスと、雑貨や古道具の油と人いきれとがごちゃ混ぜになった臭気漂うそこは、日が暮れて暑さがやわらいだ街のなかで熱気を盛り返そうとしている。

 屋台を成すテントとテントの間、人の通る道はすれ違うのがやっとという程度に狭い。ぎゅうぎゅう詰めになった人間たちが、通る気があるのかないのかわからない理逸たちを見て怪訝な顔をしている。


「なあおい、こんなところを抜けて逃げられるか?」

「ゎたしなら、通るのはテントの内側・・です。販売側のぅしろを、無理ゃりに通ってぃるはず……ぃました」


 青の残光宿した瞳で見据える先に、罵声や怒声が渦巻いていた。

 散発的に販売側の人間とトラブルになっては隣の屋台へ逃れているらしく。船の航路に白く泡立つ波が残るように、騒ぎの残り香を振りまきながら尾道は逃走していた。


「よし」


 理逸は一旦スミレを下ろすと、大公園を取り囲むように生える木の高い枝ぶりに向けてプライアを発動した。己を引き寄せて一五メートルほどかっ飛び、太い枝をつかんで登るとスミレをプライアで引き上げる。高所はあまり得意でないのか、スミレはおっかなびっくりな顔だった。

 枝のなかでもかなり高い位置に来たので、尾道の逃げる先も見下ろせる。吹き上げてくる風が心地よい。


「……一応聞きますが、どぅやって移動するつもりですか」

「決まってるだろ」


 スミレに背へ乗るよう言うと、今日一番のため息が後ろから耳を撫でた。

 枝の上で公園向かいに位置する木に狙いを定めると、

 ぎり、と両拳を握り込む。

 同時に勢いつけるため、背を預けていた幹を蹴り抜く。

 スミレを乗せたまま理逸は夜市の上空を飛んだ。

 理逸のプライアは片手につき自重程度──六〇キログラムまでの物体ならば引き寄せることができる。それを超えると基本的には理逸の方が対象物へ引き寄せられてしまう。

 両手で同時に引き寄せを使えば倍の一二〇キロ、とまで単純ではないが、ともあれ細く軽いスミレならば背負ったままで引き寄せを駆使できる。

 対面の木まで大公園を横断するよう直進し、そのままの勢いで激突するとまずいので途中で解除、両手を進行方向から斜め左に位置する木に向けて再発動。直進する慣性力に対して斜めに進む力を加えて、弧を描きながら勢いを殺していく。


「よ、っと」


 弧の終点である対象の木が迫ったところでプライアを解除し、糸が切れたようにフツっと放り出された身体。

 理逸は足を振り回して自身を半回転させつつ木の横を通り過ぎた。ここでまたプライアを発動して木に引き寄せることで、背面方向に進む慣性力と木に引き寄せる力を相殺する。

 一度プライアを解除するごとに高度を下げていた理逸はざざざざ、と路面に足をつけて接地し、ふうとため息をつく。


「……乗り心地は内臓がゅれて最悪ですが、ひどく器用ですね」

「これくらい出来ないと仕事にならないんだよ。で、あいつは」

「そこの路地、向かって右にぃます」


 気持ち悪いのか口を押さえるスミレを背負ったまま、理逸はビルの谷間へ駆け込んだ。

 狭い路地に、低いドア。這うように漏れる嬌声。

 慣れた者ならすぐわかるその手の店の気配。ドアを開いて中に入ると──


「ん? 円藤君じゃねぇの」


 薄暗い店内から軽い調子で話しかけられた。

 声の主は細い通路をさらに細く見せる三人掛けソファの真ん中に陣取り、両肘をだらりとスラックスを穿いた膝に載せている男だ。

 歳は理逸よりわずかに上。薄い生地の黒ジャケットの袖をまくり上げており、それなりに太さのある腕がのぞく。シャツの襟元もだらしなく開いて胸元がのぞいているが、これは荒事のなかで鍛えられた首が太く、ボタンを留めるのに難儀するからだそうだが。

 ハーフアップにまとめたばさばさの茶髪の下、一見するとにこやかだがよく見ると目が笑っていない、細面ほそおもて。右眉を斜めに削ぐ傷痕と、そこから延長線上にある右耳中央部の欠けが印象的な男。


「仕事中か、安東あんどうさん」


 仕事上幾度もぶつかった相手である彼を、半目で見据えつつ理逸が言った。安東は両手を左右に開き広げながらハっと笑う。


「俺らの稼業に休みなんざねぇさ。テメエも仕事か? おや、……子守りか女衒ぜげんにでも転職しちまったの?」


 背負ったままだったスミレのことを思い出し、締まらないなと思いつつのそのそと下ろす。安東は呵々かかと笑いながらスミレを一瞥し、「売り物の扱いじゃねぇな。嬢ちゃんがテメエで己に値付けするんならまだしも、あり得そうだが」と言った。

 話題にされたスミレは眉をひそめつつ、訊く。


「この方は?」

安東湧あんどうゆうだ。名刺やっとこうか、嬢ちゃん」


 自ら名乗った安東は、硬質で縁の鋭い紙片を人差し指と中指に挟んで差し向ける。

 名前と住所、そして『宗道会笹倉組 四天王』と書かれた簡素な白い身分証を、スミレはしげしげと眺める。


「笹倉組……ゃくざさんですか」

「そういうこった。よろしくね。えーと」

「スミレと言ぃます」

「よろしく。スミレちゃん」


 あまり手持ち枚数がないのか、確認を終えたスミレの手から安東は名刺を取り返すと懐にしまう。

 理逸たちが属する《南古野安全組合》そして華僑の《沟》と共にこの街に強い影響力を持つ組織のひとつ、《笹倉組》。この組織における七ツ道具のような幹部が《四天王》だ。金貸し場所貸しケツモチといった典型的なシノギの他、合法非合法問わずあまたの仕事を手掛けている連中である。

 つまりこの性接待の店も、奴らの縄張りシマだった。


「で、どしたの。ウリに来たんでもなきゃぁ、子連れで入ってくるような店じゃねぇぞ」

「人を探してるんだよ。さっきここに入ってきただろう、三十代くらいの男だ」

「なるほど? そりゃ大変だねぇ」

「店の前で待っても構わねぇか」


 先の尾道の喫茶室もそうだが、嬢や客の逃走を防ぐためこうした店は(基本的な構造として)出入口が一か所である。張っていれば、サービス時間終了と共に必ず出てくる。

 ことを荒立てず済ませるためそう提案した理逸に、しかし安東は「ダメだな」とつぶやく。


「俺は見ヶ〆みかじめ料を預かりに来ただけでよ。すぐここを出る。そのあとでごたごたされっと面倒だ」

「これは安全組合ウチの問題だ、安東さんに迷惑はかけねぇよ」

「ここは笹倉組ウチのシマだぜ? すでに迷惑かけてるとは思わねぇのかな、円藤君」


 食らいついてくる言い方に、理逸はすでに嫌な予感がしていた。それでも立場もあり、言い返す。


「客として来てるだけだろう、いま迷惑かけてるわけじゃない。外に出てからカタを付けるさ。それともなんだ、そこのせまっ苦しい通りまでシマと言い張らなきゃならないほど、おたくは逼迫してんのか?」

「ンなことしたらヤク中のゲロまで所有権を主張しなきゃなんねぇっての……そもそもよぅ、テメエらの逃走劇がそいつをここに追い込んだんだろ? もしそいつが凶行に出てうちの売り物を殺しでもしたらどうしやがるつもりだよあぁ?」

「可能性の話をしだしたらキリがねぇよ。ヤク中量産してそこかしこで事件起こさせてるおたくらに言われたかないな」

「テメエらは追った・そいつが逃げ込んだ。因果関係はハッキリ明確だな? 俺らは、売った・客が使った・客が暴れた、の三手順だ。そりゃぁ使ったら即暴れるってぇんならわかるぜ? だが暴れねぇ奴もいるじゃないの」

「だからそれも可能性の話だろ?」

「可能性はあるって認めるんだな? だったらよぉ、脅威の可能性に対して萎縮して仕方なーく下手に出る他にねぇって俺の立場もわかってくれるはずだよね」


 にやにやしながら両手をにぎにぎとすり合わせる。安東はすでに自分のなかでの結論が固まっているが、それを相手に言わせることで主導権を確たるものにしようとの心理が目に見えた。

 話をずらしつづけているが、それで時間切れになれば店内で理逸と尾道が出くわして笹倉組への迷惑となる=貸しひとつになる。かといって話を打ち切って外に出ればそれも相手の要求を呑んだことに繋がる。

 状況から、八方ふさがりだった。


「どうすればぃいのですか?」


 助け船のつもりがあるかはわからないが、スミレの問いかけは状況の転換に役立った。

 安東は一瞬、視線を走らせて理逸の表情だけでなく手先足先までの反応をうかがった。

 おそらくはこのスミレの問いかけが理逸の指示による、『安全組合・七ツ道具の立場からの発言ではなくたまたま・・・・隣に居た市井の者からの問いである』という体を取ることで己の言質としない──そういう姑息な手段でないかとの確認だった。

 こういうときの彼の嗅覚、目端が利く能力はしっかりしたもので、彼が武闘派の腕前で鳴らすだけで《四天王》の座にいるのではないことがよくわかる。

 つまりは理逸とスミレの関係性、スミレが安全組合所属の人間ということまでほぼバレた。その感覚があった。

 状況が自分に有利に転がったと認識したらしい安東は、にこりとして奥の間を指さす。


「ま、奥で一緒にあいつをどうするか話そうや。俺も暇じゃねぇもんでね、サクっと終わらせようじゃないの」

「……わかったよ」


 辟易しながら、理逸は自分より少し上背のある安東についていき奥の部屋へ進む。安っぽいアルミ扉は細い曇りガラスの窓越しに、内部で人が動いているのが見える。

 安東は歩く足を止めないまま扉をガチャリと開き中に踏み入った。


「お楽しみ中のところにこんちわぁ。ねぇアンタさ、逃亡中なわけ?」


 端的に訊くべきことだけを突きつけ、安東は壁に片肘ついてそちらに体重を預けた。

 室内はコトを成すためのベッドと簡易なローテーブルだけがある六畳ほどのスペースで、暇そうな嬢がベッドの上に、尾道がローテーブルに向かう座椅子に腰かけていた。その様がいかにも所帯じみた印象で場に対してちぐはぐで、ともすれば安い劇のようにも見える構図だった。

 尾道は戸口に立つ理逸とスミレを見てすぐ、自分が追い込まれたことを悟った様子だった。


「安東さん……、……ああ。そうですよ。私は、安全組合から追われている」


 ここで「金払った客を売るのか」とか言わないあたり、状況をつかめている。

 店に入っている以上、店側のルール変更には従うしかない。嫌なら出ていけと言われるだけなのだから。

 この場で主導権を握る安東は、尾道の告白を受けてそっけなく返す。


「そっか。アンタ俺からすっと邪魔なんだけどさ、どうするの? このまま引き渡される以外の手があるのか知らねぇけどさ、最後は自分で決めちまいなよ」


 まるで興味ないような態度で、安東は軽く言う。

 尾道はわずかに理逸の顔色をうかがい、それから肚をくくった様子だった。


「だったら笹倉組に、受け入れていただきたい」

「へぇ」

「安全組合のやり方にはついていけない。そちらのやり方こそ、道理と筋を通して南古野で生きていける方法だと。そう考えます」

「筋! いいねぇ。極道俺たちの心をくすぐるワードを言えるじゃねぇの。そういう物言いなら考えてやらないこともないぜ」


 興味を持った風に顔を上げ、にまっと笑いながら安東は近づく。尾道は自分が薄氷を割らずに踏み出せたと、わずかな安堵を滲ませていた。

 そんな尾道のそばに屈みこむと耳元に口を近づけ、安東は声を低める。


「……こっちが受け入れを整えられるだけの費用は持ってんだろうね?」

「ある。《共防金庫トライセクト》に預けて、ある」

「だそうだ、円藤君。善良な南古野市民の転属願い、まさか無下にするってことはねぇよね?」


 金の工面が出来るのならと条件つきでの受け入れを安東が表明した。

 あまりに早い判断に、スミレが「結局はこぅして、金銭を搾り取るための会話だったのでしょぅか」とぼやいたが当たっている。彼らはいつだって、自分たちの利益が最大になるよう動くのだ。

 ……南古野では、シマ抜けが一度までは許される。

 事情あった者、不義理を働いた者、皆に別派閥に移る・ないし派閥が追い出す権利が与えられている。多少の流動性と自浄作用を保つためであるらしい。

 だが権利があるからとハイハイうなずいていては他派閥に人材と情報を握られてしまう。第一、尾道はすでに加害の意志が明瞭な人物で捨て置けない。理逸は首を横に振った。


「どこが善良だ、そいつは未届の能力保有者だぞ。裁いてからでないと外になんて出せねぇよ」

「法務執行人は組でも呼べちまうんだけどね。テメエの方に手間取らせるつもりはないぜ」

「それは助かる申し出だけどよ、法務にぶんどられる前にそいつの個人資産は安全組合に置いていってもらうからな。なにせそいつの店で起きた不始末の処理にいくらか必要なんだ」

「そいつは道理が通らねぇな? だって俺たちはテメエらの組織の不始末に付き合ってやってんだよね。それなのに金を抜かれなきゃならねぇっての?」


 沸点のわからない、けれど確実に近づいていると予感させる笑みで安東は静かに立ち上がる。ポケットに手を入れ立ち尽くす。肩越しに理逸たちを顧みる。

 空気の変化を嬢も、尾道も、敏感に察したと見えた。

 もちろんここで事を構えるつもりはないだろう。

 しかし『やるかもしれない』と思わせる不条理さ、それがヤクザだ。理逸もわずかに足幅のスタンスを狭め、対応に移った己を感じた。

 と、そこで。


「組織の話と個人の話を混ぜてぃませんか」


 凛とした声でスミレがつぶやく。

 場の全員が彼女を見据えた。

 怖じることなく、彼女は冷静につづける。


「中毒者の吐瀉物は、ぁなたがた笹倉組のものではなぃと仰ぃましたね?」

「言ったな。それがどうしたスミレちゃん」


 安東は向き直り、至近にまで距離を詰めてきて上目ににらみつける。スミレは顎を上向かせて視線を合わせ、けして逸らさなかった。


「つまり個人の営為、自分の縄張りの外での営みには干渉しなぃのがぁなたがたの『筋』なのでは? 今回のその方の一件は、ぁきらかに外のことのはずです」

「ンならこの場のことについちゃぁどうなる? 危険なことが起きてたかもしれねぇよね? その可能性に対する落とし前は? どうすんだ、ああぁ?」

「ぁなたがそのポケットに入れた手から名刺でなくナィフを取り出す可能性の落とし前をぉ支払ぃくださるなら、そのときぁらためて考ぇましょぅ」


 恫喝に一切屈することなく、凛としつづける。

 臆さず退かないスミレを見て安東は、いからせていた肩をぴたりと止めた。


「脅威の可能性に萎縮して仕方なぁく下手に出てぃるゎたしたちの立場を──汲んでくださぃますょね?」


 安東のいちゃもんをひとつ残らず投げ返し、スミレは平然としていた。

 相も変わらず口と頭の回りはずば抜けている。

 だがこんな局面で、しかもヤクザを相手にしても引かず押し切るとはどういう胆力なのだ。理逸は舌を巻いた。

 ぽかんとして、安東はスミレを見つめた。

 次いで理逸を見た。また反応をうかがっている。理逸の差し金でないかといぶかしんでいるのだ。

 ややあって、口の端を吊り上げると「そういうことか」とぼやく。


「こりゃ…………俺の、落ち度だったね。単なるガキかと思っちまったが、なるほど。本命はそっちか、スミレ」


 なんだか彼のなかで納得出来るものがあったらしく、しきりにうなずいている。どうやら面白みを感じてくれたようだ。

 享楽的で刹那的な安東は、自分の予想を上回るものがあれば興味を抱く。

 そして大抵の場合──


「前言撤回だ。その鮮やかな軽口に、賛辞と敬意を払ってやる。この場の会話はなかったことにしとくぜ……そいつの受け入れも、金の話も。ナシにしてやるよ」


 ──その興味を、利益追求よりも優先する。

 愉快そうな安東は平然とさっきまでこだわっていた尾道周りの話を、投げ出していた。

 じつはある程度理逸が安東と対等に喋れるのも、この興味関心のお眼鏡にかなったからだそうなのだが……理逸本人からすると沸点のわからなさ同様に付き合いきれないポイントのひとつだ。

 しかしこの掌返しに異が唱えられる。


「待ってください。どうか、お聞き届けください」


 安東の背後から尾道が、自身の進退がこのままだとスミレによって潰されると思ったか。口角に泡を吹きつつ、口を挟んできた。


「私は組織の役に立てます」


 視線を向けた安東。まともな人間なら正面から向き合えそうにないこの鋭い眼を前に、尾道はなおも売り込もうとした。


「これまでの職のなかで、人集めも経営も経験しております。任せてもらえれば店舗の拡大案や発展への寄与を、必ずや。いえ、お約束いたします。ですからどうか」

「……んー」


 かりかりと頭を掻いて安東はうつむいた。

 尾道に背を向けたまま、理逸に半目を向けつつ。尾道に問いかけを聞かせる。


「この店の前金バンスさぁ、いくらだと思う?」

「え?」

「いくらだ」

「あ、いや……」


 と言葉を濁した瞬間に、

 理逸はスミレの前に進み出て視界を塞ぐ。

 途端に安東の左手が背後の尾道に向けられ、

 掌から発せられた『見えない力場』が、尾道の壁への激突でその存在を示した。薄い壁面が揺れて軋む。

《四天王》の一角・安東湧。

 彼もまた能力保有者プライアホルダーで、詳細は不明だが反撃用の極めて攻撃的な念動力サイコキネシスの持ち主だった。


 安東は冷めた顔で振り返るとつかつかと早足に近づき、尾道の耳をつかむと勢いよく引っ張り後頭部を壁に叩きつけた。二度、三度とつづけざまに打ち込む。ちぎれかけた耳からの出血で手が滑ったかそこで離し、逆の手で喉笛をつかんで壁に押し付けた。

 至近で睨みを利かせながら、安東は腹の底からの低い声を、溶けた鉛のように尾道の身の内へ流し込んだ。


「お前さぁ、ウチをナメてんの? 同業の金の動きも把握出来てねぇような奴が一体なんのお役に立てるってんだろうね」

「ごほ、……ぁ、ぉ、かっ、」

「なぁーちゃんと喋れよなに言ってっかわかんねぇから、さぁっ。なあ。なあっ。なあ。ちゃんと喋れよっ。おい。真面目にっ。やれや。真面目に」


 言葉の区切りごとに頬へ横振りの肘鉄を叩き込み、六発目で床にちゃりっと音が転がった。折れた歯だろう。

 顎も砕けたか陥没した顔を前に、完全に興味を失った様子で、安東は手を離すと立ち上がった。尾道も崩れ落ちる。

 安東は「きったねぇな」とぼやきながら横合いの枕カバーを引っぺがし、腕と顔に飛んだ返り血を拭くと足下に捨てる。シャツはまだらに血濡れたままだったが。


「ンじゃな、円藤君。俺は金回収してけぇるね。そのブタどうすんの」

「あとで使いを寄越して回収する。この部屋の金は払ってくからよ、それでいいか?」

「いんじゃね。あ、どーせココに金払うなら俺に直でくんね?」

「わかった」


 カーゴパンツの内ポケットにしまっていた水道免税券を六枚握らせると「まいど」と言って安東は片手を振った。そして去り際スミレに目を留め、にぃっと歯を剥く。


「『ゴネる』の語源知ってっか? スミレちゃん」

「ごねる?」

「ネゴシエーションの頭をとってひっくり返して『ゴネ』だ。逆にしてるわけだから、要は『道理の通らない交渉』ってこったよ」

「はぁ」

「オマエ、ゴネとネゴがとびっきりだね」


 からからと笑いを押さえきれないまま、安東は消えていった。

 残されたのは気絶したのか沈黙した尾道と、呼びこまれていた嬢だけ。だが彼女もこうした騒ぎに慣れているのか、「買われたなら、シてもいいけど」とスリップを脱ごうとする。その気もないので断り、理逸はスミレを押して廊下に戻る。


「ぁとは事後処理の人員でも呼んで、ぉわりですか」


 血なまぐさい荒事に心拍の乱れた様子もなく、スミレは言う。

 初仕事、戦闘、追跡、交渉。

 これだけ積み重なった二日だったというのにけろりとしたもので、ここまでさほど詮索してこなかった理逸でもさすがに訊きたくなるというものだった。


「お前、何者だよ……」

「これだけ横にぃてもぉ忘れだなんて、可哀相な頭のつくりをしてぃらっしゃぃますね」

「そういう話じゃねぇよ。どうしてそうも立ち回ることができる」

「べつに……時間消費の面でも感情の面でも合理的でなぃ、と判断ぃたしましたから口を挟んだだけです」


 と言って、眠そうにあくびをした。首元のチョーカーをいじる。


「ぁあいう輩は、不快です……」


        #


 路地に出た安東は振り返る。

 場末の安宿、価値などかけらもない場所。

 だがそのなかにいま、ずいぶんと面白そうな奴がいる。台風の目になりそうな奴がいる。

 そう思うとまた笑みがこみ上げてきた。


「モーヴ号への襲撃の噂は聞いちゃいたけどね……凪葉良なぎはらのクソどもが略奪に行って・・・・・・、けれど手に入らなかった目的の品。それがあいつか?」


 スミレが首につけていたチョーカーを思い起こす。

 六年前の静かなる争乱で渦中にあった、いや渦を引き起こした逸品。

 統率型拡張機構ハイ=エンデバイス

 街の力関係を、一変させかねないアイテム。


「くく」


 安東は街の薄闇に消えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る