九龍門伝説 逸話 長閑村編

久路市恵

第1話 金のしずくの降りそそぐ村

 そこは、どの時代とも、どこの国とも呼べない、人知れずひっそりとした集落しゅうらくである。


 山間に囲まれた長閑のどかな田園風景に一本の畦道あぜみちがずっと先までのびている。

 その畦道に沿って小川がせせらぎ、その小川をまたぐように其々それぞれの民家には橋がかかる。


 その橋の向こうには、土壁造りで三角屋根の小さな家々が花壇の花に囲まれて遥か彼方まで立ち並ぶ、なんとも言えぬ一幅の絵画のような、まるでおとぎの国に舞い込んだよう。


 ひっそりと静かにおごそかに朝靄あさつゆはキラキラと光に反射し金色のしずくは輝きながら村に降りそそぐ、これがこの村の目覚めである。

 まだ誰も目覚めていないようで人のいきする気配が感じられない。


 こうしてゆっくりと穏やかな朝を迎えた。


 村の小高い丘の上には他の家々よりも少しだけ立派な一軒の家がある。


 レンガの基礎に白壁造り、白樺しらかばの木を繋ぎ合わせた戸口、屋根から突き出た煙突からは、モクモクと煙がたち上っている。


 その白樺の戸口がぎぎぎぎぎと音を立てて開くと中から短髪ですらりと背の高い、グレーのちゃんパオを着た男がひとり背伸びをしながら出てきて、早朝の静かな田園を見下ろしながら、澄んだ空気を思いっきり吸って吐いて吸って深呼吸を繰り返す。


「今日も長閑だ。よしよし」


 家の周りをぐるっと囲んでいる花壇には深紅の花が所狭しと咲いている。

 その花の名はラナといい、柑橘系の爽やかな香りを放ち、いつでも清々しく鼻腔を抜け

心地よい気分にしてくれる。


 花たちの様子を伺いながら、丘下の田園の横に建ち並ぶ家々にも目を向ける。


 と、それがまるで目覚めの鐘であるように、住人達が次々とベッドの中で目を覚まし起き上がた。


 ひとり、またひとりと戸口から出てきては、田畑の様子を伺い向かう。


 それは各々に与えられた土地に与えられた種を蒔いて決まった野菜を育てて収穫する。

彼らが生涯、従事する生業である。


 いちばん手前の家の住人がいつものように丘の上を見て男に向かって手をぶんぶんと振った。


「おはようございます。今日も長閑ですね」


 その住人は大きな声を張り上げた。

すると他の住人達も畑の中から振り返って大きく手を振る。


「おはよう!はう!みんなも、いつもと変わらず長閑のどかで良いなあ」


「長閑ですね〜」


 あっちこっちで「長閑ですね〜」が木霊こだまのように返ってくる。


「長閑ですね」は、毎日、誰かしらと交わし合う合言葉のようで、その語源の通り、

この村の名は「長閑村」という。


 ほどよく吹き抜ける穏やかな風に男は、心を落ち着かせ、森を見やり、深緑を愛でて、いつものように、幸せな気分に浸り、家の窓からふわふわと漂ってくる妻の作る朝食のスープの香りが鼻先に漂う。


 この感覚を味わえることに日々感謝する。


 森を愛し、花を愛し、妻を愛し、すべてを愛する者、凛々しい横顔は品も良く、村人達にも慕われている。眉目秀麗びもくしゅうれい質実剛健しつじつごうけんのこの男の名は童玄どうげんという。


 いつものように空を見上げ、幸せを感じていると、田畑とは逆の家の後方の草原から幼児が息を切らしながら懸命に駆けてきた。


「たいへん……たいへん……」


 童玄の前まで来ると、両膝に両手を置き、

苦しげな表情をし、ハアハアと肩で息をする。


 小さな蒼色の長パオがとてもよく似合って、下膨れの頬がほわりと桃色をしている。

 童玄の愛息子、りゅうである。


「朝早くから今日はどっちの山へ行ってたんですか、また珍しい草花でも見つけましたか」


「はい……父……さん、でも……ちが……うの……草花……じゃ……ない……の」


「そんなに息を切らしていたら、なにも話せないでしょう。水を飲んで落ち着きなさい」


 童玄は花壇の脇にある井戸の柄杓ひしゃくを手に取って水を注ぎ入れて、隆に飲ませてやった。


 喉が上下しゴクゴクと一気に流し込む。小さな口からは溢れた水が滴り落ちて、胸元がじわりと滲んだ。


 隆は柄杓を童玄に押し返すと、口の周りを袖口で荒々しく拭い、


「はあ〜。父さん、ありがとうございます。その、小川のそばに人間がおちてます」


「なんだって?」


 童玄は目を大きく開いて、瞬きを繰り返す。隆も童玄と同じくらい瞬きをした。しばらく二人は黙ったまま瞬きを繰り返して見つめあう。


「小川のよこに人間がおちてる。父さんみたいな人間です」


「隆よ。落ち着いて話しなさい、落ちているではなくて、倒れているの間違いじゃないのか、人間じゃなくて人でしょ」


 隆のつぶらな瞳はどこかを見ている。

それは深いところで物事を考える時の癖である。間違いのない言葉を探してるのだ。


「たおれてる?ってなに?人間と人は同じじゃないの」


 隆はこの地に生まれ落ちて、まだ五年しか経っていない。まだまだ難しい言葉を理解して話せるほどではない。


「まっかな人間でした。ぼく、あんな、まっかな人間、はじめて見ました。この花と同じ色してるんです。ほんとうです。父さん」


 隆はくりくりとしたどんぐりお目目の真っ黒な瞳をキラキラと輝かせて、わなわなと身を奮わせる。


 隆の話を訊いてもいても、これではらちがあかないと思った童玄は「ふっー」とひとつ息を吐いて、きびすを返して家の中に入って行った。


「父さん?人間はどうするの?まっかな人間見にいかないのですか?」


 小さな身体をそわそわさせる。


 童玄の後について歩き、童玄にどう説明すれば納得させることができるのか考えていると童玄の尻に顔をぶつけた。


「いたっ!父さん?」


 小さな隆はおでこをさすりながら、痛くなるほど首を傾けて童玄の後頭部を見上げた。


 服を掴んで引っ張ってみようかどうしようか手を伸ばしたり引っ込めたりして躊躇ためらっていると台所から幸せそうな鼻歌が聞こえてきた。


「ふふふんふんふん、ふふふんふんふん、ふふっ!ふふっ、ふふっ!ふ〜」


れい


 お玉を持つ手を止めて「童玄?」と声のする方に耳を傾けた。釜から鍋を外して、鍋敷きの上に置くと、台所から顔を覗かせた。


「どうなさったの?童玄どうげん呼びました」


 透明感のある長い袖、胸元に襟が交差し腰上辺りから袴姿、歩く度に裾がひらひらとなびいて、それが尚一層、女らしく美しく煌びやかに華やいで見える。そしてその怜の姿は童玄の心を益々くすぐる。


 腰から巻いている前垂れで手を拭いながら、童玄に近づいてきたかと思ったら、突然抱きつき腰に手を回した。童玄も怜の腰を掴み引き寄せた。


「愛しい童玄。何かご用かしら?ふふ」


 互いに満面の笑みで鼻先をすりすりと擦り合わせ、愛情を確かめ合う。


「いつも変わらず美しい。ああ……私の愛しい怜」


 二人は深く深く見つめ合ってキスを交わした。


「ねえ、父さん?」


 背後からの声を聞いて、怜は閉じていた目を見開き、慌てて両手を伸ばし、童玄を突き離した。


「やだ!隆たら、そこにいたの?いやだわ、お勉強するって、山に出かけたんじゃなかったの?びっくりした!」


 頬を赤らめ肩をすくめ、童玄を見やって舌をぺろっと出した。童玄は優しく微笑んでいる。


「母さん、人間がおちてるの。小川のよこにおちてるの!それもねっ!」


「人間が落ちてる?」


 怜は隆の前で腰を屈めるながら隆の肩にそっと手をおいて、そしてつぶらな瞳をじーっとみた。


「隆……。人間ではなくて人よ。それから落ちてるのではなくて……倒れてる。でいいのかしら……。隆がなにを言わんとしているか、それを推理して答えを出すのって、楽しいわね」


 暢気な怜は相変わらず健在である。


 穏やかで、物言いも優しく、色が白く、目はパチリと大きく、栗色の髪は少し癖がありくるりと巻いて、知的で裁縫も上手く、時に少女で、料理に関して言えば、童玄の胃袋をしっかりと掴んでいる。


「母さん、たおれてるってなに?人間と人って同じでしょ。父さんと母さんは同じ思考なのですね」


 倒伏と落下の違いは解らずとも思考を理解している隆はいずれ大物になるだろうと二人は共に思って微笑んだ。こんな親の事を親バカと言う。


「と言う事で、怜、今から隆とその落ちている真っ赤な人間とやらを見てきますね」


「真っ赤って?ふふっ。わかったは、朝食は戻ってきてからにしましょうね」


「はい……。ちょっと行ってきます。さあ、隆そこへ、案内してくれませんか」


「はい!父さん」




 


 


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