わたしのみちる

鞘村ちえ

わたしのみちる

 わたしは小説が苦手だ。小説は難しい漢字がたくさん並んでいたり、登場人物が覚えきれないほどたくさん出てきたり、時間が歪んで急に理解できなくなったりする。だから小説を読むのは絶対に読まなければいけない読書感想文のときにだけ、参考図書リストの中から簡単そうなものを選んで読むくらいだった。

 わたしの通う中学校では、朝の10分間だけ読書をしなくちゃいけない。いつもは大声で笑っているタイプのミキちゃんも、この時間だけは静かになる。晴れた日も雨の日も、教室のこもった空気に本をめくる音だけが響く。ふざけた男子がお喋りしていると、担任のおじさん先生がのそっと顔をあげて「静かに」という。他のクラスはちゃんと読書しているか、机の間を縫うように見回りに来る先生もいるらしいけれど、おじさん先生はいつもみんなと同じように、教壇の上のパイプ椅子に座って小説を読んでいた。当然小説を読みたくないわたしは、いつも見せかけの小説を盾にして、黙々と読書をするクラスメイトたちを眺めていた。


 中学校二年生の春、転校生がやってきた。教室でわたしの前の席に座る彼は、体育館で見かけたよりずっとイケメンだった。おじさん先生に紹介されてぽつんと立ち上がった彼を見たときは、正直あんまり好みの顔じゃなくて、体育館の床の木目を指でなぞっていた。背は低いし、マスクで隠れた目はほっそりとしていた。わたしは高身長で、彫りの深い顔立ちが好きだ。なのに、給食のときに机をくっつけて隣り合わせになったら、彼の横顔に目を奪われてしまった。どこにも引っかかりのない綺麗な鼻筋と、きゅっと口角のあがった薄い唇。どうやらわたしの好みは知らない間に変わっていたらしい。どう見ても塩顔なのに、どう考えても好きだった。わたしはその日の夜、シャワーを浴びながら彼の鼻をなぞる妄想をした。それくらい滑りのよさそうな鼻だったのだ。厄介な感染症が蔓延しているせいでマスクをしていることを、これほど憂鬱に感じたのは初めてだった。

 初めて彼と給食を食べた日から、わたしは彼のことばかり見るようになった。教室に入っておはよう、と挨拶をすると、眠そうで寝ない赤ちゃんのような顔つきで、おはよー、と返してくれる。1、2時間目の理科の授業は机に肩肘をついたまま寝ていて、可愛い女の先生に怒られていた。3時間目の数学ではあまりに勉強が出来ないらしく、彼の隣にはずっと補助の先生がついていた。4時間目になると、ぎゅるるるる、という豪快なお腹の音でクラスメイトを笑わせた。全然かっこよくないのに、自慢げに笑顔を振りまいていた。5、6時間目の体育は男女別だから詳しくわからなかったけど、跳び箱が全然飛べなくてみんなに笑われていた。校庭からちらちらと覗いて見えた跳び箱は、三段だった。三段ならわたしだって飛べる。7時間目の社会は疲れたようで、また眠りについていて、今度はおじさん先生に怒られていた。今日は教室掃除の担当がわたしの班だったので、彼と一緒にホウキ掛けをすることになったが、あまりにちりとりの扱いが下手で呆れた。彼は何もできないらしい。わたしは彼のことを可愛いと思うようになった。

 掃除も終わり、みんなが帰っていったので、彼の机のなかをこっそり覗いてみたら一冊の文庫本が入っていた。わたしはまったく小説を読まないので、だいたいの作家を知らない。けれど、ブックカバーに隠れていた表紙の名前はわたしでも知っているとても有名な作家だった。リュックに突っ込んでいた教科書の端に「『斜陽』太宰治」とメモしてから、文庫本を机のなかに戻した。

 すると、大げさなくらいに息を切らした彼が教室に入ってきた。まるでゴジラにでも追われているかのような顔をしながら、彼は「あれ、まだ帰ってなかったの?」とわたしに言った。わたしがいることがまるで良くないことのような言い草だったから、少しムカついて「うん、そういえば小説忘れてたよ?」と返した。彼は頭をかきながら、あからさまにバレたくなかった、という顔で机のなかに片手を突っ込み、がさがさと文庫本を引っ張りだした。絶対誰にも言うなよ、と言い残して、彼はゴジラが追ってきていたであろう方向の廊下へ走っていった。危ないだろうと思い、わたしは彼のあとを走って追いかけた。わたしには彼を守らなければならない使命があるような気がしたのだ。彼は後ろから追いかけるわたしに気付くと、さらにスピードをあげた。これではわたしがゴジラみたいだ。最悪! と思い、わたしもスピードをあげた。校門の角を曲がる彼とわたしは、走りづらいローファーをゴトゴトと鳴らして駆け抜けていた。彼は跳び箱三段を飛べないほどの運動音痴だから、わたしはすぐに追いついた。はあはあというよりも、ぜえぜえと息切れしている二人は赤信号で立ち止まる。

「なんでついてくるんだよ」

「だって、なんか、危ないと思って」

「怖ぇよ」

 好きな人に怖いと言われて、少しショックを受けたけど、話せているだけでとても嬉しかった。少し乱暴な言葉遣いも、母子家庭で育っているわたしには新鮮で、異性を感じてときめいた。信号が青に変わった。

「読書好きなの?」

「別に」

「難しそうな小説読んでるし、好きなんでしょう」

「は? お前俺の机のなか漁るだけじゃなくて、タイトルまで見たの?」

 ドン引きされたけど、わたしは彼について歩きながら会話を続けた。

「漁ったって、人聞き悪くない? 忘れ物してたから届けてあげようかと思っただけなのに。別にわたしは小説に興味ないし、むしろ何が面白いのか分からないから知りたいぐらいだよ。朝の10分間読書とか一日のうち一番退屈だと思ってるし」

「……」

 さっきよりも彼との距離が遠くなったような気がした。いきなりぺらぺらと喋りすぎてしまった自覚はある。もう少しおしとやかにならないと、と思い「だから、なんで小説好きなの?」と質問をしてみた。おしとやかな女性は聞き上手だと、どこかで聞いた。そして聞き上手な人は質問で返すのだと、これはわたしなりの考えだ。

「なんでって言われても、お前にはわかんないだろ。俺前の学校で小説好きなのからかわれたから嫌なんだよ」

 ちょっとびっくりした。小説を好きなだけでどうしてからかわなければいけないんだろう。好きなものは好きでいいし、誰がこれを好きだからおかしいとか、そういうのってないでしょう。

「何を好きでも引かないよ。ちょっとえっちなビデオが好きとかでも、全然引かない」

「なにそれ」

 彼はほんのり笑った。わたしはわたしの発言で彼が笑ったところを初めて見たから嬉しくて、わたしも笑った。彼とわたしだけの笑顔の連鎖が生まれたことが今日のなかで一番の幸せだった。帰ったら日記に書いておこうと思った。

「俺は、小説の言葉が好きなんだ。表現っていうのかな。例えば都会に住んでた人が田舎に引っ越したときに空気の綺麗さを『光線がまるで絹ごしされているみたい』って言ったりするのとか、すごい良いなって思って」

「それ、さっきの小説?」

「そう。おれは、小説のそういうとこが好き」

「なんか難しそうだけど、わたしでも理解できる?」

「読めばわかるよ、おれが持ってるやつ読む? あ、別に、お前に心を開いたわけじゃないけど」

「えー、心開いてよ。もうちょっと簡単そうなのだったら、まだ」

 ということで、小説が苦手なわたしは小説を読むことになった。


 彼は最初に、わたしがまったく知らない小説をすすめてきた。本屋さんや図書室では有名らしい。わたしが読むならこれがいいんじゃないかな、と頑張って考えてくれた彼の努力に感動して、頑張って読んだ。最初は2ページくらいで集中力が途切れたけれど、朝の10分間読書のたびにコツコツと読み続けた。わたしがようやく一冊読み終わった頃には、彼は五冊も読み終わっていた。彼にとってはずいぶん前に読んだ小説のはずなのに、わたしが小説の面白かったところをぽつりぽつりと呟くと笑顔で頷きながら聞いてくれた。そのときの彼は目がキラキラしていて、本当に好きなものに触れているときは目がキラキラしているのだと思った。わたしも彼のことを考えているときは目がビー玉のように透き通って輝いているかもしれないと思い、嬉しくなった。ビー玉は可愛いから、つまり、わたしも可愛いということになる。

 彼と仲良くなっていることはクラスメイトには秘密にしている。リュックに詰めた小説をミキちゃんに見つけられて「小説読むなんて珍しくない? どうしたの」と大きめの声で言われたときは焦った。わたしだって別に小説を読むことくらいあるし、と苦笑いで誤魔化していると、黒板を消していた彼と目が合って心臓の音が早くなった。耳から頬までがほんのり赤くなって、彼のことが好きだとバレていないか心配になったりもした。


 わたしは彼から小説を借りることで、さらに彼を好きになっていった。彼の情報にも詳しくなった。彼はまず、転勤の多い会社員のお父さんと専業主婦のお母さんのもとに生まれた一人っ子だ。彼もわたしも一人っ子だ。親からの愛情を真っすぐに受けて育っている。わたしは母子家庭だから父親からの愛情を少し羨ましく思うこともあった。特に父の日のときに、彼が父親にネクタイをあげたら喜んでくれた、と話していたときは相槌をうつので精一杯だった。わたしは父親に会っても、父親が住んでいる地域の小さなお土産をもらっただけだ。何もあげていない。嬉しいはずなのに、お母さんの撮った写真に写るわたしは左の目元が引きつっていた。

 彼は勉強も運動もできないけれど、心がとにかく優しい人だった。わたしは羨ましかった。夏休みに小説を貸してくれたときは「別に夏休み中借しても大丈夫だからゆっくり読みなね」と連絡してくれたし、わたしが誰と夏祭りに行こうか迷っていたら「俺と一緒に行くか?」と詐欺師のような笑みを浮かべて誘ってくれた。夏祭り当日に約束した集合場所にいくと、わたし以外にも何人も女の子が集まっていた。みんなは朝顔や百合の花が爽やかに描かれた浴衣を着ていて、わたしはお母さんに買ってもらったばかりの白いワンピースを着ていた。ビニールプールに流されるカラフルなゴムボールの中に一つだけ浮かぶ白いゴムボールを見つけた瞬間、なぜか息が詰まった。わたしにとっては大切なワンピースなのに、これではわたしだけが浮いているみたいだ。誰も悪くないのに、誰もが憎くみえた。彼はわたしの目が潤んでいることに気付き、一緒に屋台を巡ろうかと言ってくれた。ジャンボフランクが食べたい、とだけ呟くと、彼は「みんなー! ジャンボフランク食いにいこうぜー」と大声をだした。わたしは俯いた。それでも彼なりにわたしを気遣っていることは分かったから、彼が奢ってくれたジャンボフランクを貪るように食べた。ミキちゃんに「ハイエナみたいになってる、口拭きなよ~」と言われたけれど、わたしは涙を堪えて目を細めることで笑顔になったように見せた。ミキちゃんの隣にいた女の子が、ヤバ、と呟いた。その日の夜に同じ顔をお風呂場の鏡に向かってしてみたら、わたしの顔はまるでゴジラのようだった。まだわたしが小さい頃にお父さんが真剣にゴジラの映画を見ていたことを思い出して、震えながら泣いた。温かいシャワーだけがわたしを慰めるように、涙を拭ってくれていた。

 どれだけわたしが落ち込むようなことがあっても、次に彼から連絡がきたときにはケロッと立ち直ることができた。恋というのはそういうものらしい。彼の顔をみると、わたしはたちまち元気になった。コンビニで売っている栄養ドリンクなんかよりずっと効果的で、半永久的な薬だと思う。彼は優しいのでわたしの悩みを聞いてくれたりもする。悩みを聞いてくれるのは下校の10分間だけだけど、それでもわたしにとっては大切な10分間だった。家族の話をたくさんした。わたしは母子家庭で、お母さんが遅くまで仕事に出ているから、家に帰っても誰も返事をしてくれる人がいなくて、時々寂しくなり、時々夜中に布団を被って泣いてしまうけど、どうしたらいいか分からないこと。お母さんが優しいから大好きで、寂しいと言って気持ちを縛ってしまうような言動はしたくないこと。お父さんがいる人を羨ましく思うときがあること。だけど、別に新しいお父さんが欲しいわけではないこと。

 彼は自分の話をほとんどすることがなかったけれど、一度だけしてくれたことがあった。わたしはおしとやかな女性として、彼の話を頷きながら聞いた。

「おれはさ、結構お前みたいなタイプが好きなんだよね。あんまり何にも考えてないっつーか、能天気っつーか。前の学校に通っていたとき、おれすげーいじめられててさ。ただ小説好きなだけなのに『ガリ勉だ』とか『キモイ』とか、そういう、いじめみたいな。それで、おれは、結構病んでさ。今もあんまり治ってはいないんだけど、パニック障害っていう病気になっちゃったんだよね。パニックになると、呼吸が出来なくなったり、突然走り出したりしちゃう、みたいな。自分でも止められないから、もしかしたらお前に迷惑かけるかもしれない、そん時はマジ、ごめん。ちょうど父さんの転勤が決まって、ここの中学に来れたから良かったんだけど、あのままだったら本当に死んでたと思う。相手の親が学校に来て、うちの親に謝ってる放課後はしょっちゅうだった。謝られただけで、うちの親は安心してた。あんなんで変わったら全国のいじめはなくなるよなー。お前は他の奴と違って、絶対悪いこととか考えなさそうだし、純粋で、一緒にいてめちゃくちゃ楽なんだよね。素でいられるっつーかさ。だから、おれが本忘れたとき、追いかけてくれてありがとな。おれ多分ずっと覚えてると思う。うちの親、おれがパニック障害だって分かってから、すげーおれに気を遣うようになってさ。普通に会話してても、どこか距離が生まれるようになった。親子なのに、変だよな。父さんは転勤で忙しくて、母さんは気を遣って、おれは一人になる時間が増えた。『ぼうっとしてるよりはいいでしょう』とか言って、母さんが小説を買ってくれるようになった。愛情を物で渡してくる、っていうと聞こえが悪いかもしれないけど、そんな感じに思えた。小説は、おれにとって愛情なんだ。唯一、形として感じ取れる愛情」

 彼はときどき声が柔らかくなって、俺、が、おれ、になることに、このとき初めて気が付いた。わたしは彼の柔らかくてのんびりした声を、ずっとずっと聞いていた。これ以降、彼が自分の話をしっかりとしてくれたことは今のところ一度もない。だけど、一度でもわたしに心を開いてくれたような気がして、二人だけの秘密を抱えているようでたまらなかった。


 中学二年生が終わりを迎えようとしている頃、合唱コンクールの練習をするために朝早くに集まるようクラスメイトから言われた。いつもより20分も早く、学校に行った。わたしは下駄箱の前で革靴を脱ぐと、自分の下駄箱がないことに気付いた。よくよく探してみると、下駄箱の上に小さく書かれているはずのわたしの名前が黒のマッキーでぐちゃぐちゃに塗りつぶされていた。わたしの名前だけが、いなくなっていた。上靴はあったけれど、掴むと中に小さい画鋲が一つだけ入っていた。画鋲はちくっとわたしの指を刺し、抜いたあとの小さな穴から血を滲ませた。夏祭りのビニールプールに流れる水のように、血はぐるぐると指紋に沿って円を描く。小さい違和感に気付きながら、気付かないふりをして教室に向かった。教室には友達のミキちゃんをはじめとしたわたしの友達が3人ほど、わたしを待っていた。

「待ってたよー、おはよー」

「おはよー」

 わたしがリュックから合唱コン課題曲の楽譜を出そうとすると、ミキちゃんはわたしの楽譜を横取りしてびりびりに破った。わたしは一瞬の出来事にあっけにとられて、声も出ずに固まってしまった。悪夢をみたときのように、動けない。

「最近さ、ちょっと読書してるな~って思ってたけどさ、みちるくんに小説借りてたんだね。私がみちるくんを好きなのは知ってるよね?」

 知らなかった。他人の口から聞く彼の名前は昭和のスターのような雰囲気を醸し出していて、なんとなくダサい。きっと今はわたしが一番彼のことを知っているのに、わたし以外の口から彼の名前が出ることに違和感を覚えた。そういえば、彼はわたしの名前を一度でも口にしたことがない。彼とわたしはお互いに名前を呼んだことがないのだ。言葉にしなくても伝わるわたしたちの関係は、特別感と安心感で包まれていた。

「アンタはいつも私の羨ましいところにばかりいるんだよね。私もアンタも母子家庭だけど、アンタはお母さんに愛されてる。私のお母さんは全然愛してくれない。帰ったらいつも知らない男の靴が玄関に揃えられてて、呑気に『おかえりー』とか言ってきてさ、あんなんだったら家にいないほうが全然いい。なのにアンタは自分の幸せなんて全然見てなくて、いつも悩んでるような顔してさ。私の悩みなんてちっとも知らない顔をして、アンタはみちるくんに小説を借りて仲良くしてる。みちるくんは私のことを全然見てくれない。みちるくんは優しいから、私の悩みを聞いてくれる。言わなくても、アンタの悩みも聞いてることくらい想像つく。私はみちるくんのことが好きなのに、みちるくんは全然心を開いてくれなくて、お前がいるから! お前がいるから私に振り向いてくれない! わかる? 私の気持ちなんて、微塵も分からないかもしれないけどさ、今後みちるくんから一切本なんて借りないで。図書室でも本屋でも、本なんてどこでも手に入るから問題ないでしょ」

 意地悪な質問だと思った。わたしは彼から借りる小説だから読んでいるのであって、彼以外から手に入れる小説などこれっぽっちの興味もない。ふと、脳内で彼を追いかけていたゴジラのことを思い出した。本能が「彼を守れ」と唸っている。教室の前方にかかっている時計は8時12分を指していた。彼が来るのはだいたい15分頃なので、3分くらいしかない。

 急いだわたしは思いっきりミキちゃんに掴みかかり、何度か脛を蹴る。ミキちゃんとその取り巻きはわたしの突然の行動に驚き、わたしのことを離そうとした。ネイルをするために校則違反の長さに整えられた爪がわたしの肩に食い込む。それでもわたしはミキちゃんの肩に噛みついた。ミキちゃんも抵抗してわたしの頬を殴る。忘れていた、ミキちゃんには確か男兄弟がいるのだ。喧嘩に慣れている。わたしはミキちゃんの手を掴み、取っ組み合う形になった。わたしは一人っ子だから、喧嘩なんてしたことがない。ミキちゃんはわたしの股間を蹴り上げ、わたしはミキちゃんのおでこに頭突きを食らわせた。教室に入ってきたクラスメイトの悲鳴が聞こえる。恐ろしいゴジラが現れたというような恐怖の叫びを聞いたわたしの気持ち、考えたことある? ないでしょう。一人、また一人と教室の様子を覗き見に来るクラスメイトのなかに彼がいないことを祈り、ミキちゃんの頬を平手打ちしたら聞き覚えのある彼の声が聞こえた。わたしとミキちゃんはぴたりと動きを止めた。ミキちゃんは急に泣き出した。

「どうしたの」

 教室が一気に静かになる。ミキちゃんが彼を好きだということは、みんなが知っていたらしい。まだ14分のはずなのに。この状況を彼にどう説明するか、わたしは今までにないほど混乱した。

「わたしの靴箱が消えていて、わたしの名前がマッキーで消されていて、楽譜がびりびりに破かれて、だから」

「だから加藤さんを殴ったの?」

「うん」

「暴力はよくないと思うけど」

「……」

「おれはこれからも小説を貸すよ」

 ミキちゃんは駆け付けたおじさん先生に支えられながら保健室に連れていかれた。ぐちゃぐちゃに崩れた制服のなかに、わたしのくっきりとした歯型がついた肩がみえた。先週行った定期健診で歯医者さんに歯並びを褒められたことを思い出す。ミキちゃんは泣いていた。泣きたいのはわたしのほうだ。

 わたしは黙ったまま、彼に借りてからまだ二日しか経っていない小説を返すと「ありがとう」とだけ言い残して学校の外へ駆けだした。彼はわたしを追いかけてきたけれど、彼は跳び箱三段を跳べないほどの運動音痴だから、追いつかない。信号が赤になった。わたしは突然、お母さんのことを思い出して立ち止まる。青になる前に彼がわたしに追いつき、わたしのことを置いてけぼりにして隣でバスに突っ込み、死んだ。


 灰色で顔を塗りつぶされたような人が「みちるくんの死因は、パニック障害によるものでした」と告げた。周りの人はほとんどが泣いていた。同い年の女の子が、子どものようにわんわんと声をあげて泣いていた。彼は運動音痴だから、止まることが出来なかったのだと思う。わたしは一滴の涙も流さなかった。

 家に帰ると、わたしは彼のSNSをブロックして削除した。寝ないで返事を待ったメッセージも、宝物だけをとっておく引き出しに入れていたジャンボフランクの棒も、すべてがゴミに見えた。捨てたい。もう生きる理由がないから、何も要らなかった。家庭用のごみ袋に部屋の荷物を全部詰めたら、ジャンボフランクの棒が張りつめたゴミ袋を突き破って、じわじわと袋を引き裂いた。引き裂かれた袋の奥に白い布が見えた。それは、お母さんが買ってくれたあの白いワンピースだった。わたしはワンピースだけを引っ張りだして、ジャンボフランクの棒を折り、破れたごみ袋をもう一枚の新しいごみ袋に入れて持ち手を結んだ。もうジャンボフランクの棒が突き破ってくることはなかった。

 夜になると、お母さんがいつもより30分も早く帰ってきた。嬉しかった。わたしは初めて「寂しい」と言って、泣いた。

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わたしのみちる 鞘村ちえ @tappuri_milk

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