静かな初恋
佐武ろく
1
聖女のように穢れ無き純白のウエディングドレスに身を包んだその人は……僕の方へ彗星みたいに見惚れしまう双眸を向け喜色満面の表情を見せた。その姿は、天使や女神――どんな比喩表現でさえ足元にも及ばぬ程に愛々しく煌びやかだった。
僕はどれだけこの瞬間を待ち望んだんだろう。僕はどれだけこの瞬間を夢見たんだろう。
「とっても――綺麗だよ」
* * * * *
母はシングルマザーだ。そして一人っ子の僕は小さい頃から鍵っ子で、家に帰っても迎えてくれる誰かはいなかった。
「ただいまー」
家の暗闇へあっという間に吸い込まれていく幼い声。母にいつも言われている通り帰ったらまず鍵を閉める。僕が音を立てなければ家の中は静寂に呑まれたまま。僕の存在も消してしまいそうな程に酷く静まり返っている。
でも淋しさは全くない。テーブルに座りお茶を飲む僕は時計で時間を確認すると頻りにドアを見た。家の静寂に溶け込むようにじっーと動かないドア。
だが程なくして鍵の開く音が颯爽と家中を駆け回り、ドアがじれったく開いた。
――でも淋しさは全くない。何故なら母が返ってくるまでの間、一緒に居てくれる人がいるから。
「夏姉!」
僕は椅子から飛び降りように離れると、制服姿の夏姉に飛びついた。そんな僕の頭を夏姉の手が上から雑に撫でる。
「今日も学校は楽しかったか?」
「うん」
夏姉は隣に住む中学二年生。肩に届くかぐらいの髪と耳にはピアス穴が開いていて僕より七つ年上。僕と同じ一人っ子だけど親は二人共いる。お隣さんはシングルマザーの母の為に帰宅までの間、僕の子守りをしてくれてたのだがそれで夏姉がよく家に来てたというわけだ(その為に母が鍵をひとつ渡していた)。
「ほら、さっさと宿題済ませちゃいな」
家に来ると夏姉はまず僕に宿題をさせる。テーブルの向かいに座ってスマホを片手に宿題を終えるのを待っててくれるだ(分からないとこがあれば教えてくれるし)。
僕は宿題は嫌いだけど、この時間は好きだった。
「ねぇ。夏姉は宿題ないの?」
「んー。ない」
「ひとつも?」
「うん」
「いいなぁ。僕も早く中学生になりたい」
そんな溜息交じりの愚痴のような声に夏姉はスマホを下げると僕を見た。
「そのうちなれるよ」
そう言ってまたスマホを弄り始めた。
母は夜遅くまで仕事をする日も結構ある。そんな時は、夏姉の家へ行っておばさんたちと一緒に夕食を食べるんだ。別に母と二人の食事が嫌いという訳じゃないけど(むしろ料理も含めて大好きだ)こっちで食べる夕食も賑やかで好き。
それからは夏姉と家に戻って母が帰るまで一緒に過ごす。そのまま夏姉の部屋で遊ぶこともよくある。その時はゲームをする事もよくあるけど夏姉は一切手加減をしてくれない。だから対戦系はほぼ毎回、決まってボコボコにされてしまう。
母が遅い日、遊び疲れた僕はそのまま寝てしまう事も屡々。途中で起こされ母と家に帰るのが殆どだけど、たまにそのまま朝まで眠り続ける事もある。そんな時は夏姉に抱き付いたままおばさんに起こされ、家に戻り準備をして小学校へ。
とにかく僕は夏姉が大好きだった。大雑把でめんどくさがりで口が悪かったり意地悪だったりするけど――
「夏姉、大好き!」
「おー、そうか。アタシも大好きだぞー」
優しくて温かくて一緒にいて楽しい夏姉の事が。
でも高校生になると夏姉は陸上部に入り、前よりか一緒にいられる時間が少なくなってしまった。最初はその所為で部活なんて辞めて欲しいとか自分勝手なことも思ったし、実際にそう愚痴を零した事もある。だけど夏姉は笑って僕の頭を雑に撫でた。
「部活はした方がいいよ。アンタもそのうち分かるって」
「じゃあ僕も夏姉と同じ部活にする! 一緒に部活する!」
「んー。それは無理かなぁ。アンタが高校生になる頃にはあたしもう卒業してるし。いたらいたでそれこそ大問題だから」
「じゃあ、僕も早く高校生になりたい!」
そんな僕を微笑ましく思ったのか、子どもだと思ったのか夏姉は声を零して笑った。
でもその後、僕の頭をぽんぽんと軽く叩いてこう言った。
「そのうちなれるよ」
それでもやっぱり夏姉ともっと一緒にいたくて部活なんて嫌だなと思っていた僕だったが、おばさんに連れられて行った大会で初めて走る夏姉を見るとその考えは一変した。
その姿はいつも見る夏姉とは違い、とてもカッコ良かったから。僕はまるで正義のヒーローでも見るような煌々とした表情で感嘆の声を漏らしていたという。正直、記憶は無い。でもその時から僕は、夏姉に対して強い憧憬の念も抱くようになったのかもしれない。
だけどそれはある日の帰り道(その日は友達と遊んでその帰り道だ)。僕は夏姉の姿を偶然見つけ、その途端に駆け寄った。いつも通り僕の頭を雑に撫でる夏姉だったけどその隣には見知らぬ男の人がいた。ブレザーの制服を着た男の人は僕を指差しながら「これがあの子?」と夏姉に尋ねる。
僕は逆にその人を指差し友達かと尋ねた。すると夏姉は少し得意げな表情を浮かべこう答えた。
「彼氏」
その時の僕はその言葉の意味が分からなかったが、そう言って仲良さげに肩を組む姿に、胸を刺さされるような――酷く嫌な気持ちになったのは、忘れもしない。自分でも何故そんな気持ちになるか分からなかったが、僕は無性にその男の人の事が嫌いになった。
「今からうち帰んの? なら一緒に帰る? 何だったら途中でこのおにーさんがジュース奢ってくれるってよ」
「何で俺なんだよ」
「いーじゃんケチケチするなって」
そんな風にやり取りする夏姉は楽しそうだったけど僕はつまらなかった。だからその感情に押し上げられるまま言葉が出た。
「ヤダ! その人大っ嫌い!」
そう言って僕は走り出した。
本人に対してじゃないにしろ思わず感情に身を任せそんな事を言ってしまったら、次会うのが少し気まずくなりそうなものだけど、子どもというのはある意味で最強。何てことなく夏姉と会いいつも通り――いや、いつもより甘えた。
でも流石に中学生にもなると僕も夏姉に対する自分の感情に薄々気が付き始めていた。特にそれを思い知らされたというか意識させられたのはある日、同年の女子に告白された時。率直に嬉しいと思ったのは嘘じゃない。でもその瞬間、僕の頭に浮かんでいたのは夏姉だった。
だから僕はその告白を断った。
でもそれでいて僕はこの抱えた気持ちを一切、口にして伝えられないでいた。目をやっているからなのか、それとも無視できぬ程に大きく育ってしまったからなんだろうか。気が付いてからそれは日に日に、会う度に大きくなっていった……気がする。なのに口からはその欠片すら漏れることはない。
そして大学生になった夏姉とはより一層、会う機会が減った。でも夏姉はたまにふらっと家に来ることがある。
「おっじゃましまーす。あれ? いい匂い。おばさん帰って来てたの?」
「ううん。今日は遅いって。急にどうしたの?」
「いや。別に何となく」
家に上がってきた夏姉はそう言いながら鍋の蓋を開けた。
「肉じゃがじゃん。もしかしてこれあんたが作ったの?」
「うん」
「え? まじ?」
その日の夕食は夏姉と食卓を囲んだ。今でもたまにおばさんに呼ばれる事があるけど基本的には家で食べてる。
でも今日は一人と思ってたけど、夏姉が目の前に座り僕の作った肉じゃがを口へ運んでいた。
「うっまー。あんたいつからこんなもん作れるようになったのさ?」
「中学なって僕が夕食作るようになってから」
「へー。でもこれは……いい嫁になれるよ」
「嫁って。僕、男だし」
そう呟きながらも美味しそうに食べる夏姉を見て僕は思わず笑みを零した。
「あっ、そうそう。今度の土曜あんた暇?」
「え? まぁ、何も無いけど。なんで?」
「じゃあアタシと遊園地行かない?」
「えっ! いいの?」
映画やボーリング、スポチャとか。たまにこうやって夏姉と遊びに行ける時がある。僕が勇気を振り絞って誘う事もあれば、夏姉が誘ってくれたり。
でも遊園地は初めてだ。夏姉と二人で。僕は心の底から嬉しかった。今すぐにでも踊り出したいくらいに。
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