第2話 殺してはならない
暗くなった戦場の夜、名も知らぬ昆虫達が泣く中、スティーブは物思いに耽った。
彼には幼少の頃から、頭に浮かんでは消えてゆく、一つの言葉があった。
「殺してはならない」と言う言葉だ。
彼は健常者であったが、どうしてもこの言葉の意味が分からなかったのだ。
もちろん、命あるものが死ぬ事は分かっていたし、自分が生きる為に命を頂いている事も、毒ガスで沢山の部下が死んでゆく悲しみも理解出来た。
それなのに、「殺してはならない」と言う言葉だけは何を言っているのか分からなかったのだ。
これは、両親にも先生にも友人にも知られてはならない、彼の最大の秘密であった。
この言葉の話題が予告なく持ち上がってしまった時は、用事が出来たと言って退席したり、さも分かっている風を装ったりしてやり過ごしてやり過ごして来たが、そんな時は何時も決まって大変気分が悪くなったのである。
ある意味では、彼が「殺してはならない」事の意味が分からなかった事は、軍人に進む為には追い風になっていたかも知れない。
人を殺す事が仕事であり、それは作業である。
殺せば殺す程、優れた職業人として認められるのだ。
スティーブは、統率力が認められ少佐に昇進した時、両親を喜ばせようと思い、制服とバッヂで正装して実家に帰った事がある。
二人共引退していたが、父は消防士、母は医者だった。
父は大喜びでスティーブを出迎えたが、母の方は「自慢する事じゃない」と言って軽くあしらった。
母にこそ褒めて欲しかったスティーブは、とてもガッカリして、母に対して軽い憎しみの念さえ湧いた事を思い出していた。
翌朝6時、スティーブ隊は進軍を開始した。
何故増援兵を待たなかったのかと言うと、防護服が15着しかなく、増兵して進軍しても毒ガスの被害者を増やすだけなのが明白だったからである。
前日夜、偵察部隊によって毒ガス砲の可変角度が特定できたので、スティーブ隊は一旦砲の届かない方面へ移動し、更に敵陣地後方から精鋭部隊を周り込ませて制圧する作戦を立てていた。
砲は固定されてはいたものの、土台を移動させる事は決して不可能では無かったので、行動は迅速を求められた。
スティーブ隊が3マイル線に近づくと、昨日同様毒ガス砲撃が始まった。
砲撃の届かない線まで後退して援護射撃の形成を整え、精鋭15名による周り込みが開始された。
敵は本隊からの援護射撃に注力していたので、後方からのスティーブらの突撃は気付かれていなかった。
静かに荒廃した市街地を進んでゆくと、ふいに、脇道から10歳位の少年が飛び出して来た。
距離は近かった。
マリエス軍曹は、通りに飛び出して少年に銃口を向けた。
知性溢れる優秀な女性軍曹マリエスのライフル銃が咆えると同時に、みすぼらしい軍服を着た痩せ細った男が少年を覆い隠す様に立ち塞がり、その男の背中を赤く染めた。
男が崩れ落ちる時少年が叫んだ!
「兄さん!」と言ったようだ。
兄と思しき男は、少年に向かって最後の力を振り絞って「早く逃げろ!」と言った。
深い悲しみに強く歪んだ顔の少年と、スティーブは目が合った。
スティーブの中で地響きの様な衝撃が走り、不意に自分の少年の頃の思い出が蘇った。
毎晩毎晩、スティーブが布団に入ろうとすると、決まって母がやって来ては優しく布団を掛けて「おやすみ、スティーブ」と言うシーンだった。
スティーブは瞬間、「殺してはならない」と言う言葉の意味を理解した。
そこにいた少年は、決して悪魔の手先などでは無かったのである。
「マリエース!」スティーブは叫んだ!
マリエスの放った銃弾が少年を掠めた。
再び少年と目が合ったスティーブは、少年に「行け!行け!」とゼスチャーした。
少年は倒れている兄を見てためらっていたが、向き直って後方のビルの影に消えて行った。
「少佐!どういうつもりですか?」マリエスがスティーブを捲し立てた。
「これで良い、作戦は中止だ。帰ろう我が家へ」
「少年は我々の居場所を仲間に連絡しますよ」
「彼は兵士ではなかった」
「奴らは違反兵器を使って、昨日同胞が沢山殺されたのですよ!」
「私はこの年になって新たに言葉を一つ覚えたのだ。責任は私が全て被る、とにかく撤退だ」
スティーブは人望厚く部下たちに尊敬されており、それはマリエスも同じであったのでしぶしぶ同意した。
マリエスは精鋭部隊に撤退命令を出した。
昨日と同じく敵は反撃追軍して来なかった。その理由はその後の分析調査でも分からず奇跡としか言いようがなかった。
スティーブはその後退役して講演家に転身して、「殺してはならない」事を伝える伝道師となった。その活動に於いて、「殺してはならない」事を知らなかったのは自分だけではなかった事をスティーブは知った。
皆も分かっているフリをしていただけだったのである。
かくして順次世界から戦争が無くなった。
完全なる知性とは、女性の感性によって進歩する事が理解され、本当の意味での女性の社会進出が始まったからである。
社会構造上、男性化された女性の社会進出ではない、女性の特質を活かした活動が展開されたのである。科学技術も飛躍的に進歩する事になり、「スティーブ少佐の奇跡」としてこの事件は人類史に燦々と輝き、深く刻まれる事になったのである。
スティーブ少佐の奇跡 @mody
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