第四十六話 オロカモノとハープ(12)

 人間だったら、これを眩暈めまいと言うのだろうか。


 身体が揺れる。力が抜ける。


 感情の波が広がっていく。


 小さい。


 小波でこそあるが、それは悲しみだった。


 ズデンカは泣きはしなかった。


 今、眼の前で、アコが殺されたのに、泣けるわけがない。


 だが、どうして自分はアコを想うのだろう。


――想いなど、寄せなくていい。


 単に通りすがりに会った人間なのに。むしろ、こちらに害を及ぼした輩なのに。


 それも智恵遅れの。


 だが、眼の前でその首は断たれ、まだ生命の光を宿しつつある瞳孔が緩やかに広がっていく。


 ズデンカは怒ろうとした。怒れない。恐らく自分の血管(あるとしてだが)の中にまで流れる吸血鬼の本能がそれを拒む。


 圧倒的な力の差。


 逆らえばねじ伏せられる。死にはしないが粉々にされるだろう。いや、上位種は吸血鬼を殺す方法だって心得ているのかも知れない。


 吸血鬼の多くがそう考えるように、ズデンカも早く死にたいという念慮に囚われることは多かった。


 だが、今は死ねない。


 ルナも、カミーユもいるのだ。


 ダーヴェルは、その二人にはまったく関心を示していなかった。胸を杭で貫かれたというのに、何とも思っていないようだ。


「『ラ・グズラ』の面々はあなたにメンバーになって欲しいようですね」


 他人事のようにダーヴェルは言った。アコに死体を無造作に振り落とす。


 血が満ちるままに。


 流れ流れ去るままに。


 ちょっと舐めた以外、吸いもしないのだ。


「お前は誘わないのか」


 ズデンカは目を逸らしながら答えた。声はまだ震えていた。逆らう姿勢を出来るだけ見せたくなかった。


「私はあなたを知らない。だから誘う気にもなれません。こちらのハープは返して頂きますよ。もちろん、私はあなたの食べ物を奪うつもりもありません。流石にそんなことをするのは紳士ではない」


 ダーヴェルは微かに笑って、ハープまで歩いていった。


「炎で焼くことも出来るけど」


 声が聞こえて、ズデンカは振り向いた。ルナはいつになく顔を歪めていた。


「やめておけ。お前じゃ勝てない」


 ズデンカは声を絞り出した。


 ダーヴェルは片手でハープを掴んで悠々と持ち上げ、空に浮かび上がった。


 蝙蝠たちを周りに従えて、空の彼方に飛んでいく。


 ズデンカは点になるまで見送った。


「はぁ……」


 長い溜息を吐く。


 ズデンカは前のめりになった。


 人間だったら、過呼吸で倒れていたところだろう。


 恐怖はなかなか去らなかった。これまで数多くの危機に直面してきたが、今日のような感情を抱いたことはなかった。


「さあ、行こうか」


 ルナは言った。ズデンカが見るともう、笑顔に戻っていた。


「そうだな」


 思い悩んでいる暇はない。自分たちは旅を続けなくてはならない。


 誰かが死んだところで、歩むのを止めるわけにはいかない。


 皆は歩き出した。


「旅を始めたばかりなのに、こんなこと言っちゃうとあれかもしれませんが……ルナさんもズデンカさんもきっと、今みたいな別れをたくさん経験されてきたんでしょうね……私は……悲しいです」


 カミーユが言った。その目には涙が宿っていた。


 カミーユはズデンカ以上にアコと関わりがないのだ。むしろ、ハープの音色で操られもしたのに。


――なのに、そんな相手のために涙を流せるとは。


 ズデンカはそう思ったとき初めて、頬が濡れている己に気付いた。

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