第三十六話 闇の絵巻(8)

「え? どういうことですか?」


 即座にカミーユが嗅ぎつけてきた。


「そのままの意味だよ! あはははははは」


 ルナは白々しく笑った。


「怪しい。やっぱりルナさんもズデンカさんもインゲボルグと会ったんでしょう!」


「そ、そんなことないよ!」


 ルナが否定する。


 だが、もうカミーユは信じていなかった。


「いーなー、私も会ってみたかったなー!」


 羨ましそうにカミーユは叫び続けた。


――こいつ、大人しいと思ってたが、意外に……。


 とズデンカは思いながら、


「はぁ」


 ため息を吐いた。


「そうだよ。あたしらは会ったよ」


 ルナが咎めるように見詰めてくる。


「やっぱり」


「会ったことは会ったが、話を聞いても、お前の思っているような劇的な事実は何もなかったんだ。そもそも、ペーターとインゲボルグは実在したが、恋人同士ですらなかった」


 ズデンカは正直に言うことにした。


――隠していても仕方がない。


「ええ! ほんとですか!」


 カミーユはびっくりしていた。


「小説で書かれていることなんざ、実際はそんなもんばっかりだぜ」


 ズデンカは苦笑いしながら言った。


「ふーんそっか」


 カミーユは一瞬考え込むようだったが、


「なら別にいっかー」


 とあっけらかんと言い放った。


「良いのかよ」


 ズデンカは突っ込んだ。


「もちろん、一瞬あの感動を返せーって思いましたよ。でも、私が楽しんだのは小説を読むという体験それ自体で、それが本当にあったかどうかなんて、別に良いって思えてきたんです」


「確かにな。お前は現実で起こった事件を聞いて感動したんではなく、小説を読んで感動したんだからな」


 ズデンカは納得した。


 ルナも破顔して、


「そうだよね。夢は夢のままでって、思ったけど、現実を知ってもなお夢を見続けられる人は偉いよ」


「それって私のことですか! 夢見る夢子さん見たいに思われるのは心外ですけどね!」


カミーユは負けじと言い返した。


「わたしたちと旅するぐらいにはカミーユだって夢見がちだよ」


 ルナは朗らかに笑った。


と、いきなり窓ガラスの外に黒い影が張り付いた。


 三人は咄嗟に座席から身を引き離した。


「なんだ、ステラか」


 大蟻喰だった。


「あ、さっきはどうも」


 カミーユは御辞儀したが、その声は当然聞こえない。


 大蟻喰は何か言いたそうに口をもごもごと言わせていた。


「ふーむ。なになに。『相変わらずズデ公は間抜けだね』、か」


 ルナは読唇術を心得ているのですらすらその意味を理解したようだ。


「読み上げなくても良いぞ」


 ズデンカは腕を組んだ。


 ルナは懐から紙を取り出して、つらつらと書いて窓へ向かって広げた。


「入って来なよ」


 の文字が記されてきた。


 そして、ズデンカが止めようとするのにも構わず、窓を引き開ける。


 大蟻喰はめんどくさそうにあくびをしながら部屋の中に入って来た。


「こいつは無賃乗車なんだからな」


「必要なんだったらわたしが払うよ。親友だもん」


 ルナは言った。


 いつも捻くれている大蟻喰だが、今回は素直に嬉しそうだった。


「お前はお人好しだな」


 ズデンカは注意した。


「そうだよ。損をしたって気にならないもん」


 ルナは自慢そうに言った。


 ズデンカはその頭を軽く撲った。


 するとズデンカは手首を大蟻喰に掴まれた。


「おいズデ公、調子にのってんじゃないよ」


 普段おちゃらけている大蟻喰には珍しいぐらいその声には怒気が籠もっていた。

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