第三十五話 シャボン玉の世界で (6)
いつの間に現れたのかずんぐりとした大男が、二人を睨み据えていた。
フランツを優に見下ろせるほど背丈があり、
「俺の道具を勝手に弄りやがって」
「その点に関しては謝るが、あんなとこに置いたままにしておくのもよくないのではないか?」
言った後でこれは火に油を注ぐことになるぞとフランツは思った。
大男は無言でフランツに顔を近づけた。
口が臭い。ドブ泥に入ったようだ。
フランツは顔を背けた。
その隙に手に握っていた輪っかを奪い取られた。
「このボナヴェントゥーラさまに断りなくシャボン玉を作った罪は重い」
大男――ボナヴェントゥーラは怒鳴り声を上げた。
「ごめんなさい、ごめんなさいですぅ」
オドラデクはペコペコと頭を下げた。
「許さん」
ボナヴェントゥーラは盥まで歩いて行き、深く輪っかを漬けた。
素早く輪っかを持ち上げると二人の真向かいへ向けた。
そして、一息吹く。
たちまち巨大なシャボン玉が形成されて、オドラデクとフランツを足元まで包んでしまった。
「臭い」
吹き入れたのだから当然だが息が籠もっていたのだ。
だがそんなことで驚いてなどいられなかった。
シャボン玉は空に浮き上がったのだ。
意外に感じられるほど素早く。
膜一枚を隔てて、地上は見る見る遠ざかった。
「フランツさん、なぁに固まってるんですか、どうしましょ!」
確かにフランツの足は竦んでいた。考えることも一瞬止めていたほどだ。
「どうもこうもしようがない」
こう見えて密閉はされていないようだ。
空気が少しは入れ代わるのか、臭さが薄らいだ気がするが、いまだに鼻腔は刺激されている。
「様子を窺うしかないだろう」
フランツは怯えの感情を押し殺した。こう言う場合は自分を突き放して客観的に見詰めるに限る。
訓練の時、きつく教えられた。
人の命を殺めようとするのだから、不測の事態に陥ることは何度だってある。
その度に動揺していては仕方ないのだ。心を一時的に殺し、冷静な目で眺めるのはフランツの得意とするところだった。
だが、一体この世界で何人の人間がシャボン玉の中に封じ込められたことがあると言うのだろう。
ボナヴェントゥーラは次から次にシャボン玉を生み出して、空へと飛ばしていた。
鈍色の空に染まって鉄球のように頑丈に見えたが、もし雨が一滴でも降りでもしたら即座に割れて落下してしまうだろう。
「いざとなったらお前が何かに変身して俺を守れよ」
「えええええ! なんでフランツさんをぉ?」
「俺は落ちたら死ぬ」
フランツは言った。声が震えないよう注意しながら。
「でも、ぼくの身体はかったぁーい糸なんですよ? もし打ちどころ悪ければフランツさんは輪切りになってしまいます。ぷぷぷ」
口元を押さえながらオドラデクは言った。
「それを何とかしろ。俺たちは……」
「えっ、何だって言うなんです。聞き取れなぁーい?」
オドラデクはフランツに身体を寄せてきた。女になっているので、胸が肩に触れる。
フランツは恥ずかしくなった。
「まだ言ってない」
「じゃあ言ってください。教えてくださいよぉ」
「簡単に言葉にできん。よくわからん。この関係は」
フランツは真剣に考えた。そして惑った。
「カ・ン・ケ・イってぇ。なんかヤラシイですねぇ」
オドラデクは、フランツに凭れ掛かってきた。
「やめろ! 割れる!」
フランツは叫んで、身を離そうとした。
案の定、薄い膜はたちまち破裂した。
落下。
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