第三十話 蟻!蟻!(9)
だが。
蟻たちは突然いきり立ったかのように蛆に飛びかかっていった。そして一匹づつそれぞれの背中に抱えて、外へと放り出していった。
「こいつら、何してるんだ?」
穴の縁に積み上がる蛆の山を見ながら、ズデンカが言った。
「人間より虫の方が義理堅いってことは往々にしてあるものだよ。われわれも今まで見てきただろ」
「蜘蛛は虫じゃねえぞ。蝶は虫だがな」
ズデンカの謎めいた言い草に、カミーユは首を捻っていた。
半分だけ理解できる大蟻喰はわかりそうでわからないのがもどかしそうにしていた。
――さすがにボッシュの事件を知ってる奴は喰ってねえようだな。
ズデンカは独り、得々とした気持ちになった。
蛆はすっかり取り払われ、爛れたサシャの顔が現れる。
ルナは無表情で覗き込んでいた。
「死者を甦らせることは出来ない。お前の能力が作用するのは辛うじてでも生きている人間だけなはずだ」
ズデンカは言った。
「甦らせたいわけじゃないさ」
ルナはそう言いながら観察を続ける。
そしてまたパイプを吹かせ始めた。
「やっても無意味だぞ」
「いや、わたしが出現させたいのはサシャさんの見たものではないよ」
ルナは二重に否定する。
煙はあたりに満ち広がった。
「彼女たち、のだよ」
するとたちまち二つの人影が煙の中から現れ出た。
イザークとサシャだ。
サシャはいつも通り、巣に向かって進んでいく蟻たちを静かに眺めていた。
そこに猫背になったイザークが足早に歩いてきた。
本を抱えている。
ズデンカはそれがすぐにわかった。
「『鐘楼の悪魔』じゃねえか」
「君の予想通りだったね。推理小説としたら、実につまらない。まあ、わたしの言った通りでもあるんだけど」
ルナはおどけた。
「何を悠長なことを言ってる! 今すぐ潰さねえと!」
ズデンカは飛び出し掛けた。
「君、あれは過去に起こったことだよ」
ルナは諭すように言った。
ズデンカはまた恥ずかしくなった。人間ならば赤面ものだろう。
「兄貴」
サシャは兄の気配に気付いたのか、ゆっくり振り返った。
「いつも蟻、蟻ばかりだな。お前は」
イザークは言った。
「ああ、人間と違って、蟻は優しいからな」
サシャは指の先に乗せた蟻を、大事に見つめながら言った。
「だが、お前は喰っているじゃないか」
イザークは冷たく答えた。
「喰ってないさ」
サシャは笑った。
「俺は知ってるぞ。親父も見た」
「ああ、喰ってると思われても別に構わない」
「じゃあ、どうしてるんだ?」
サシャはぱっと手を閃かして口元を擦ったかと思うと、一匹の蟻を掌の上に乗せた。
「事前に口を渇かしておくと、唇の裏に蟻を隠せるんだ。手品の練習さ。ちょっと、こそばゆいけど。お陰で蟻たちとはすっかり仲良しさ」
「お前……手品なんか」
イザークは明らかに苛立っていた。しかし、寂しそうな様子も見えた。
「俺は手品師になりたい。せっかくクンデラに住んでいるんだし、多くの人に見て貰える機会はある」
サシャは目を輝かせて語った。
「馬鹿言え、俺たちには厩舎がある。親父の後を継いでやっていくしかないんだ!」
イザークは叫んだ。
「しかない、しかないで人生を計るなんて、つまらないよ。一度しかないんだし、やりたいことをやりたいんだ」
サシャは穏やかに口答えした。
「……そうか。ならわかった。お前がそんなに蟻を食いたいなら、俺が幾らでも喰わせてやる」
禍々しい笑みが、イザークの顔に広がった。
『鐘楼の悪魔』を開き、言葉を唱え始めた。
「安穏とあの善き夜に身を任せてはいけない
老いぼれは日の暮れにこそ 燃え 喚け
怒れ 去りつつある光に 怒れ」
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