第九話 人魚の沈黙(7)
結局、ケートヒェンに昼食まで作って貰い、そのまま長居した。
ケートヒェンと話を続けながらも、時間を確認した。
既に十六時近くなっている。
ドアがノックされる音が聞こえてきた。
「夫です」
他の者は誰も訪れてこないかのような口振りでケートヒェンは立ち上がり、ドアの鍵を開けに行った。
ラファエル・ケッセル――グルムバッハは静かに入ってきた。ドアが大きかったのはこの身長のためだろう。
フランツも高い方だと自負していたが、その頭を遙かに見下ろせるほどだった。
今は五十代のはずだ。写真より白髪が交じり、皺もよってきているが、腕の筋骨は隆起しており、まだ鍛え続けている様子が窺われた。本人で間違いないとフランツは思った。
「ケッセル先生、お久しぶりです。エルンスト・ヴァルドマールです。覚えておいででしょうか」
冷ややかな笑いを浮かべて、フランツは手を差し出した。
グルムバッハの顔は一瞬の曇りも見せず、微笑んで手を握り返した。
「エルンストくん。本当にお久しぶりだね」
「覚えておいでですか。それはよかった」
「積もる話もあることだ。少し散歩しませんか」
「えっ?」
ビックリしてケートヒェンは二人を見比べた。
「男同士、語り合いたいこともあるのだよ」
そう穏やかにケートヒェンを説き聞かせて、グルムバッハは歩み始めた。
フランツもそれについていく。
二人は屋敷の外へ出た。
向こうがすぐ攻撃してくるなら、すぐ応戦出来るだけの準備をフランツはしていた。
だがグルムバッハは肩幅の広い背をフランツに見せながらも、殺意を毛ほども覗かせなかった。
行き先も話し合っていないのに、自ずと二人は村から離れた先ほどの林に向かって歩いていく。
もう子供たちも家に帰った後だ。
半熟卵のような赤光が木々の間を透かして溢れている。
「もういいだろ。ゴットフリート・フォン・グルムバッハ。俺が誰だか分かるな?」
フランツが静かに言うと、グルムバッハは歩みを止めて振り返った。
「スワスティカ
グルムバッハは穏やかに言った。
「そうだ。お前は俺たちシエラフィータ族を問答無用で虐殺した。報いを受けなければならない。素直に縛に付くか、それとも……」
前者は期待していなかった。フランツが望んでいるのは――。
「私にはここの生活がある。突然出て行っては村のみんなが困るのでね」
思いを汲んだようにグルムバッハは静かに言った。
「お前がここで集めた尊敬は偽りのものだ。お前の過去はどこまでも血に汚れている。それを自ら拭い去ることもせず、のうのうと生き延びている!」
フランツはグルムバッハを睨み付けた。
「そうだな。私はとっくに過去を拭い去ったつもりでいた」
グルムバッハは動じることがなかった。
「偽善者め! お前らのような醜いやつが!」
フランツは収容所で、各地で死んでいったシエラフィータ族の姿を自然と心に思い浮かべた。
自分で見た光景、後から写真で捉え直した風景。
焼却炉で人体が燃やされた灰。
収容所の外では、屍体が山のように積み重なっていた。
ベーハイムの高笑いが耳鳴りのように何度も繰り返される。
暴力の痕跡をひたすらに凝視した。
涙は不思議と滲まない。涙を流せる程度の悲しみは深くない。そう思えてしまうほど鈍い痛みを感じた。
目の前の男は、その加担者だ。
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