フレンドシップ

春雷

フレンドシップ 1

 2020年はあっという間に過ぎ去った。私立探偵を生業としているキイチは、この年、とうとう破産寸前まで追い込まれた。それでも彼は酒を味方につけて、俺はまだまだやれるんだと叫び続け、現実から逃げ回り、不安を追い払うことに専念していた。しかしながら、夜眠る時なんかは不安で不安でたまらず、もうだめだという言葉を繰り返しながら、枕を殴り続け、そしてこの点がこの男の長所でもあり短所でもあるのだが、それらの行動を俯瞰して我に返り、俺、何してんだ? という冷静さに立ち返り、結局ただその場に立ちすくんで涙を流すばかりなのだ。

 どうしようもない状況のとき、助けになるのは友だ。キイチにも友がいた。ギャンブラーのヒデアキである。

 キイチはいつものバーでヒデと会った。

「なあ、お前はどうしてツイているんだ。まったくどうして、俺の人生は散々だよ」

「ああ。別に俺もツイちゃいねえよ。敗ける時もあらあ。ただなあ、ここ一番って時にゃあ、一歩も退かねえんだ。一歩もな。そう、一歩たりともな。退かないんだ」

「俺は退いてしまうなあ」

「戦略的撤退なんてものは、『今』を生きていないやつがするもんだ。最近観た映画で言ってたぜ? 『明日を生きるやつは今日を生きる者に殺される』。不安なんてものは将来を考えるからこそ発生するものなのさ。今、この瞬間を生きていれば、呑気に生きられる」

「そういうもんかね」

「そうさ! 刹那主義だなんだと罵られようが気にするな。批判するやつがてめえの人生全てを面倒見てくれるわきゃねえんだ。保証もしてくれねえ。そんなやつの戯言に耳を貸すな。自分の生きたいように『今』を生きろ」

「そりゃあ、ギャンブラーのお前はそう言うだろうけどさ……」

「人生は賭けだ。この世界じゃ誰もが参加者。なあ、実は大企業だって等しく倒産の危機に晒されている」

「そうかなあ。俺には勇気が足りないのかなあ」

「勇気。鈍感力。直観力。退かない力。『今』を生きるという考え。それさえありゃあ、幸せさ。お前は今の仕事が好きか?」

「どうだろう。好きだと思うけど」

「好きだ! 何の躊躇いもなく言えなきゃ駄目さ。俺はギャンブルを愛している。だから女神さまが微笑むんだ。信じた者に救いは来るってね。俺は自分を信じているし、最後はハッピーだとわかっている」

「お前は力強いね」

「まず酒を飲め! この瞬間を楽しむんだ。『暗い話ばかりやたら詳しくなった』。誰かが歌っていたなあ」

「俺ももう三十だぜ? そろそろ人生について真剣に考えなきゃ」

「おいおい。まだ三十だ。冒険するにゃ一番いい年齢だ。俺は死ぬまで冒険者でいるつもりだがな」

 ヒデは酒をがぶがぶ飲む。見ているこっちが気持ち悪くなるほどに。

 キイチの顔はまだ暗い。バーの照明と相まって、芸術的な感じだ。

「あーあ。小学校時代が懐かしいよ。夏休みが待ち遠しくてさ。カブトムシ取ってさ。ゲームしてさ。漫画読んで。世間の問題なんか一切関係ないねなんて顔して、大通りを大股で歩いていた。けれど今はどうだ。夏休みなんか虚構の存在で、カブトムシは金儲けの道具で、ゲームは時間の無駄で、漫画は時間つぶしに読む程度。何だか馬鹿馬鹿しいよ。滑稽だよ。今の俺を見たら、昔の俺はがっかりするよ」

「何をそんなに落ち込む。今日のお前より明日のお前の方が賢い。賢けりゃ世界は面白いものだらけだ。賢ければ賢いほど、色んなものが見えてくるからな。次の瞬間のお前が一番賢くて、面白いんだ」

「賢くなっているかなあ。そんな気はしないけど」

「身長が伸びたことを知るのは、誰かに指摘されてからだ」

「そういうものかね」

 キイチがナッツをかじっている間に、ヒデは色んなカクテルを飲み干した。酒を飲むスピードを競う競技があったのなら、ヒデは優勝候補だろう。

 がはは、と快活に笑うヒデ。髪は塵毛で長く、髭も濃い。教育熱心な親なら絶対に子供を近づけたくないタイプの人間である。

 一方のキイチはまだ暗い顔。痩せていて、髪も七三。スーツ姿でいるのが妙に滑稽だ。リストラされた営業マンみたいな姿。公園で一人ブランコに揺られているのがお似合いな感じだ。夕暮れが彼の哀愁をさらに際立たせる。このバーにおいては間接照明がそれだ。

「キイチ、強盗になったらどうだ?」

 キイチはマティーニを噴出した。強盗? 馬鹿言うな。何を言っている。本当に馬鹿なのか? 一瞬にして様々な言葉が脳裏に浮かんだ。

「この前『オーシャンズ11』って映画を観たのよ。ジョージ・クルーニーとブラット・ピットがイカした野郎でな。カジノを襲うんだよ。仲間集めてな。お前、それやったらどうだ」

「映画と現実を混同するなよ」

「映画も現実も大差ないさ。みんな馬鹿やってる。映画よりもイカれた野郎ばかりだしな」

「そりゃお前だ」

「私立探偵も十分イカれているよ。はは。しりつたんてい。平仮名にすると余計阿呆な感じだ」

「あんまり馬鹿にするな」

「ホームズは現代社会じゃ通用しねえさ。もっとモダンに生きなきゃ駄目だ。適当に時代に流されながら、その場その場で自分を貫きながら生きなきゃ。誰しもが世間の流れを無視することはできねえし、どれだけ世界の枠組みから離れようとしても人間は連鎖的な生き物だから不可能な芸当だ。はは。どうせ馬鹿なら、踊らにゃ損ってね。いっそ馬鹿馬鹿しい踊りに熱中してみるのも一興じゃねえか」

「お前はブラピか?」

「俺はジュリア・ロバーツさ」

「馬鹿め」

 本当に馬鹿馬鹿しくなってきて、キイチは帰ることにした。不毛な議論だ。こんなやつに相談したのがそもそも間違いだったのだ。友人は自分に影響を与える第二の人物だ。当分こいつからは離れていよう。キイチはそう思った。


 翌日は晴れ模様。青空は画家でも出せない素晴らしいブルー。素敵な通りの素敵なカップルなら素敵と呟く天気だ。しかしキイチは素敵でもないし、素敵な気分でもないし、実際に素敵と呟いたことなんて人生で一回もない人間だから、当然天気のことなんか無視して、今日も仕事がないなあ、なんて無駄にため息をつくばかり。

「やれやれ」

 これも無駄な呟き。

 ニュースでは今日もあれこれを報じている。キイチは社会に無関心を貫きたがる割に、ニュースをよく見る。そして難しい顔をして、難しいなあ、と言う。時には鼻をほじりながら。

「ニュースの合間に『ミスタービーン』が流れたら面白いのにな」

 これも無駄な呟き。

「さあ、良いことないなあ」

 キイチは新聞も読む。近頃新聞を読む人が減っているとかなんとか。キイチは絶滅危惧種だ。

「世知辛いなあ」

 これも以下略。

 キイチは占いもよく見る。熱心ではないが、たまたまテレビや新聞、ネットなんかで目にすると、ついつい見てしまう。そして大体落ち込んで、次の瞬間には忘れている。

「それにしても、蟹座ってなんか間抜けな感じするよなあ。天秤座とか、射手座とか、羨ましいよ。蟹って。確かに美味しいけどさ」

 間抜けな男はコーヒーも飲む。わかりもしないのに、本場の味だ、とか言う。

 もちろんインスタントコーヒー。

「本場だ」

 彼のイメージするコーヒーの本場はスタバである。

「私立探偵って、もう古いのかなあ。コロンボを見てなりたいと思ったのに、現実は違ったなあ」

 コロンボは警部である。あと、キイチは独り言が多い。それが原因で彼女とも別れた。

「単純にうるさい」

 それが別れた時の彼女のセリフ。

「ああ、良いことないかなあ」

 コーヒーを飲みながら、スクワットをしているキイチは嘆く。

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