第1章 第7部 第38話
やがてその時がやってくる。
鼬鼠は渾身の一撃を持って、風雅の顔面に一撃を加えようと、全力で直進する。
だが、風雅は動かず仁王立ちである。そして、鼬鼠の一撃が当に風雅の顔面を殴り飛ばそうとした瞬間だった。
彼の拳は止まる。まるで一枚の壁に阻まれたように、ピタリと止まるのだ。
その瞬間、鼬鼠の体を覆っていた、荒れ狂う闘気は消え去り、普段の彼となる。
「はぁ……はぁ……」
鼬鼠の動きが完全に止まったその時、上空から落ちてくるサングラスを、風雅はキャッチし、慣れた様子で、さらりと掛け直す。
それから、事もあろうか鼬鼠にデコピンをするのである。
だが、たったそれだけで、鼬鼠は大の字になり、大きく呼吸を乱し、倒れ込むのである。
「うんうん」
その時の風雅は、本当に満足げな笑顔をしていた。間違い無く最後の鼬鼠は自分の予想を超えていた。直ぐに限界が知れてしまう、底の浅い素戔嗚ではあったが、切り札としては十分な技だと言えた。
「審判!オレの負けでいいわ」
風雅が唐突にそんなことを言い始める。
「ちょっと待て!アンタ何言ってんだ!」
鼬鼠は動かない身体を懸命に起こそうとするが、消耗しきっている彼は、風雅にしがみつくことすら出来ずにいる。
首だけを漸く起こし、風雅を睨み付けるが、呼吸の上がった彼に睨まれても、凄みの一つも無い。
「いやまぁ。十分見たかなって」
風雅は、しゃがみ込み余裕の表情で、鼬鼠の顔をのぞき込む。そしてその表情は矢張り機嫌が良いのだ。
しかし、審判はいつまで経ってもコールをしない。
当たり前だ。誰がどう見ても風雅が勝っているし、鼬鼠は戦えない状況である。風雅が宣言しようが、この状況は覆らない。
「なぁ、史上最強の風皇が、判定出せっつってんだから、さっさとしてよ」
スクリと立ち上がった、風雅は一見ニコニコしているようだが、その声のトーンは、やや下がり気味で、矢張りそれだけで凄みを増すのだ。
「天海風雅選手、試合放棄と見なし、鼬鼠選手の勝ちとします!」
まさか、そんな結論が出るとは誰もが思わなかった。これには場内も大いにザワつく。
「おい!くそ!殺してやる!待てよ、風雅さん!」
「はいはい。元気になったら、また遊ぼうね!」
そう言って、風雅は鼻歌を歌いながら、舞台を里程ってしまうのである。
「くそ!」
鼬鼠は呼吸を整えながら、腕で顔を伏せる。
それは彼の生きてきた中で、尤も悔しいと思える瞬間でもあった。
黒野鋭児と言う存在が現れてから、なんともモヤモヤとしていたものがあったのだ。彼が炎皇を越えようと、そして並ぼうとしている中で、鼬鼠も感化されていた。
尤も同じ六皇であったとしても、残念ながら風雅と焔では、埋められない差がある。風雅という男はそれほどに強いのだ。
追いかけては切りのないものもある。
ただ、もう少し自分なりの満足というものが有るだろうと鼬鼠は思ったのだ。
だから、自分の継承は来年になるということも、十分に理解していた。それはある意味、次の風皇は、間違い無く自分が継ぐのだろうという自負もあってのことだ。
「ゼッテェ越えてやる!アンタ越えてやるよ!」
鼬鼠は叫ぶ。その悔しさは、分かるものにしか解らないだろう。
少なくとも六皇というものに手を伸ばした者であれば、鼬鼠の気持ちは分かる話ではある。
しかし、端からそれを目指せない者達には、わかり得ない。
認められて尚、力の差を痛感するという矛盾は、プライドの高い鼬鼠には、耐えがたい屈辱だ。ただ、その悔しさがあるからこそ、鼬鼠は不完全でありながら素戔嗚という技を、風雅に叩き着けたのである。
それが彼の素戔嗚よりも精度の低いものだと知っていても、一泡吹かせたいと思ったのだ。
次の年になれば、鼬鼠の素戔嗚は、更に精度を上げていることだろう。
それを実感することも、面白いかも知れないと、風雅は思った。だが、二度同じ事をこの大技で繰り返しては、益々鼬鼠のプライドに傷が付く。
結局天海風雅に適うはずがないという、レッテルが残るだけなのだ。
寧ろ、来年であると思っていた鼬鼠が、そこまで伸ばしてきた力を認めてやらない方が、師として、先輩として、引き際が悪い事になる。
「あ~でも、本気の鋭児君とやれないのは、ちょっと心残りかな~」
風雅はそう言って、鼻歌を歌いながら、通路を後にするのであった。
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