第1章 第7部 第24話
鋭児達が六皇戦というイベントを漸く終えた頃、誰もが本来過ごすはずの日常を過ごしていた美箏は、少々集中力を欠いていた。
普段率無く、無駄無く、真摯に取り組んでいるはずの授業を、半ば上の空で窓の外をボンヤリと眺めては、はっと切ない溜息をつく。
そんな彼女は柄にもなくペン回しをしている。
勿論美箏は普段ペン回しなどするはずもない。
そんな暇があるのなら、黒板の文字を一言一句ノートに写しているだろう。
彼女のペン回しは、実に華麗だった。全く意識を集中していないにも拘わらず、絡めた指の間を、ペンがアクロバティックにクルクルと回り躍るのである。
ただそれはよく見ると、彼女が指先でシャープペンシルを操っているというよりも、指とシャープペンシルが戯れているようにも思えた。
何となくそれが気になる学友は、彼女の指先に幾度も視線を奪われている。
しかし、教諭の興味はそんな黒野美箏の指先ではなく、全く集中力を欠いて、窓の外をウットリとして眺めている、その視線である。
「黒野!……黒野!」
と教諭が彼女の名を呼び、後ろから学友に突かれて、漸く教諭のその声に気がつく美箏だった。途端に彼女の指先と戯れていたシャープペンシルが、放り出されるようにして、机の上にカラカラと音を立てて転がるのである。
「今、先生が呼んだ文章を翻訳してみろー」
特に怒っている様子ではなかったが、明らかに様子のおかしい彼女に対しての当てつけである。
「す……済みません。聞いていません……でした」
立ち上がると同時に、美箏は恥ずかしそうに顔を真っ赤にする。そして、耳まで真っ赤なのだ。
いや、実は言うと彼女の耳は窓の外を眺めていたときから、随分赤かった。
「すみません。熱っぽいので……保健室へ行ってもよろしいでしょうか……」
それ自身は美箏も自覚していた。
従業をエスケープする。そんな経験は美箏も初めてだが、頭の中に熱がこもって仕方が無い。それに教室内のエアコンも、彼女の頭を妙にのぼせさせる要因となっていたのは、確かな事だった。
美箏は、保健室に姿を現すが、担当医はいない。少し席を外しているようだ。
幸い、保健室には自分以外誰も居ない。
美箏は、ヒンヤリとした保健室のベッドの掛け布団をめくり、そこに横たわり、身体を丸めるようにして、横向きに寝る。
「鋭児……君」
美箏が思い出していたのは、鋭児の腕枕で眠りについたあの夜のことだ。あの時はアリスもいたが、確かに自分は鋭児の腕の中で、彼の身体に確りと身を寄せて眠りについていたのだ。
その時の感覚を生々しく思い出してしまうのだ。
もしあの時、自分と鋭児だけであれば、どうなっていたのだろうか?と、自分らしくもない想像を膨らませる度に、それが膨れ上がっていくのである。
そして、自分はなんと大胆な行為をしたのだろうと思うのだ。
鋭児には、焔と吹雪の件がある。今の鋭児には、女性を肩に抱いて寝ることは、差ほど驚きに値することでは無いのかも知れない。
勿論、アリスに先導されるまま、二人の腕枕を買って出た鋭児も、可成り顔を赤らめていたが、完全にアリスの方が一本上手で、自分もそれに巻き込まれた感じではあった。
勿論不快であれば、巻き込まれることも無かったのだが、その時の自分は明らかに、何か一本理性を支える柱が、引き抜かれていた気がするのだ。
そして、その柱は今でも引き抜かれたままであるらしく、こうして誰もいない保健室だとなると、美箏は、一人で貪る禁断の果実に、思わず手を出してしまいそうになるのだ。
その衝動をどうにか押さえ込んでいる時だった。
静かだったはずの保健室の、しかも自分の周囲で、妙のカタカタとした振動音が響き始めるのだ。地震ではない。だが明らかに、カタカタと様々なものが揺れて音と立てて、微かな音を立てているのが解る。
「え?」
美箏は、急に現実に引き戻され、ベッドから起き上がると、それはピタリと収まる。
少し気が削がれてしまった美箏は、もう一度ベッドに横たわる。
ただ思い出したのは、鋭児の腕枕ではない。焔が倒れたと連絡を受けたときの、鋭児の動揺した表情である。
「焔さん……大丈夫なのかな」
勿論、倒れた焔は、今は大丈夫だという連絡は受けている。ただ、人が急に倒れるということは、それ相応に理由があるものだ。
特にこの季節に、熱中症のような事はあり得ないし、あの健康体のような焔が、貧血で倒れるということもない。
そういう人間が倒れるということは、普段それに気を遣っている人間より、遙かに怖い症状であることの方が多い。
本当に問題がなければよいがと、心配をする。
「気のせい……だったかな」
焔のことを考えているときには、とくに妙な振動音がするわけでもなかった。
ただ、直ぐに焔と吹雪のことが思い出される。二人とも鋭児との密なる一時を惜しげも無く堪能していた。
「やっぱり……きもちいいの……かな」
そう考えると美箏は、再びドキドキとし始める。そういう箍の外れた自分が信じられないのだが、それがどうしようも無く、自分の中に溢れかえるのだ。
まさかそれが、アリスに少しだけ自分に素直になるようにと、掛けられた暗示のせいだとは思いも寄らない美箏だが、彼女は次に鋭児が戻ってきたときのことを、心待ちにして、少しその心拍数に身を任せていた。
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