第1章 第2部 第37話

 しかしながら、あれほど誰かに夢中になった瞬間があっただろうか?いや、吹雪とも未遂事件がある。あの時は、美箏に見られてしまい、気が動転してしまったため、気が削がれてしまった。

 晃平に見られたのは事後であり、もうどうしようも無い状況だった。

 鋭児は、ブツブツと文句を言いながら、焔の部屋に到着する。

 「焔サン……来たっすよ」

 溜息がち彼女の部屋に入った鋭児のそれは、明らかに照れ隠しだった。どんな顔をして焔と向かい合えば良かったのかが、解らなかったのだ。

 「鋭児クン?」

 と、そこにいたのは、吹雪だった。リビングで一人寛いでいた吹雪が立ち上がり、鋭児のを見つけると、ゆっくりと近づいてきた。

 これは意外だった。

 吹雪の顔など尚更見られたものではない。どの面を下げて吹雪を見れば良いのかと、罪悪感を感じてしまう。

 二人を守ると言ったことは嘘では無いし、遅かれ速かれ、焔と求め合うことは、必然だと思っていた鋭児だったが、そういう予感は、吹雪に対しても感じていた事である。しかし、いざそうなってしまうと、事の重大さを知る。

 と、吹雪が鋭児の横に並ぶと、トン!と、肘鉄を入れてくる。

 「イテ……」

 「そんな顔しないの!」

 言ったのはその一言で、吹雪は静かだった。自分を裏切り者とは思っていないようで、内心ホッとしてしまう。吹雪の一言は、全てを理解している様子だった。

 「っと。焔サンは……」

 「居ないわよ。出かけちゃった」

 吹雪は先に歩き出し鋭児に背中を見せる。非常に落ち着いているような吹雪の背中だが、少しだけ、ぎこちないのが解る。明らかにその後ろ姿は、彼女が理性的に振る舞っている証拠である。

 気がついてはいなかったが、今になって吹雪の後ろ姿というものを理解する鋭児だった。

 細く上品な吹雪のシルエットだが、肩の力が抜けており、何時も少し踊っているように思えるのだ。そして、どことなく茶目っ気があり、楽しそうなのだ。

 「何処へ?」

 「さぁ……」

 吹雪とリビングにやってくる頃、吹雪は立ったまま、鋭児に背中を向けて待っていた。

 鋭児がそんな吹雪の背中に手を伸ばした瞬間、彼女はもう一歩前に出る。

 「嘘。焔は自分のケジメを着けに行ったから。今日はもう部屋に戻らないわ」

 「え……」

 鋭児は一瞬だけ思った。自分を部屋に呼んでおきながら、何処かへ行ってしまうとか、其れは焔らしいのだが、やはり理解出来なかった。

 しかし、吹雪がこの部屋に居ると言うことの意味を鋭児は知る。

 明らかにこのシチュエーションを狙ったのは焔で、此処で待っている吹雪は、このシチュエーションを知っていたと言うことになる。

 「ケジメって……なんすか……まさか、なんかやばいことしに、行ったんじゃぁ……」

 「そう思う?」

 「……いや。けど……」

 鋭児は、少しだけ呼吸を詰まらせた。

 「はぁ……」

 しかしすぐに息を吐いて、呼吸を整えて、冷静になる。焔が何を考えているのか?ということくらいは解る。それは、明らかに焔がしそうな事なのだ。

 そして、そうしなければ、翌日あたりに、間違い無く殴り倒されるだろうことは、理解出来た。しかし、其れは焔に言われたからそうするのであり、其れでは吹雪を傷つけてしまうことになる。

 鋭児は、リビングに行く。

 「飯作るんで、吹雪さんは座っててください。どうせ、焔サンの冷蔵庫には、肉以外期待デキそうにないけど……」

 「鋭児クン?」

 吹雪は、キョトンとする。

 彼女は何より、彼が板挟みになるのがいやだったし、焔に対する責任を優先するだろうと思っており、彼が焔の後を追って、部屋から出て行くものだと思っていた。しかし、鋭児は食事を作ると言い出した。

 「チャーハンぐらいしか、できねーっスけど……自信はそこそこあるっスよ」

 キッチンから、吹雪に話しかける鋭児の声に、コクリと頷く。

 吹雪は、ひょっこりと扉の外から、キッチンの様子を伺うと、満更肉ばかりでは無いその冷蔵庫から、あれこれと野菜を取り出している鋭児がいた。

 「焔が、何処へ行ったか気にならない?」

 吹雪は、少し何時もの吹雪に戻っていた。鋭児が何処へも行かないことに、少し安心したのだ。自分は独りにならないという安堵感が、彼女をそうさせたのだ。

 「気にならないっちゃ嘘ですけど……吹雪さんが此処にいるってことは、まぁなんつうか……」

 鋭児は口籠もってしまう。

 口には出さなかったが、吹雪を大事にしろと言っているのだと、言いたかった。しかし、其れを口にしてしまうと、焔が大事にしろと行っているから、吹雪を大事にするのだと言うことになってしまう。

 そうではなく、言われるまでも無く、そうするつもりである。ただ、今夜は焔との時間を大切にしようと思っていたのだ。しかしそこには吹雪がいる。鋭児の思っているタイミングではなかったというだけのことである。

 「だっせーけど。オレには、吹雪さんも焔サンも大事だし、二人とも手放したくないっつーか……どうしても、割り切れなくってさ……、二人に同じくらい惚れてるし……」

 鋭児は、吹雪に背中を向けたまま、材料を刻み始めるが、耳が真っ赤だ。

 その割には、欲張りで直球な言動だと吹雪は思う。鋭児がそういうのは解っていたのだが、其れが無理をしているだとか、同情からではないのだと言うことを改めて認識する。

 吹雪は、ゆっくりとキッチンへと入り、鋭児の背中に頬を寄せて、彼にギュッと抱きつく。

 「欲張り……」

 「……家族はもう……失いたくネェから」

 鋭児のその言葉は、吹雪の胸に染みた。鋭児が何となく野暮ったく、日常生活に執着を持たない理由が、そこにある。

 吹雪は、気がつけば施設だったし、家族と言えるような存在は、親友の焔だけである。鋭児の言う家族という絆が理解出来ているわけでは無かったが、少なくとも彼の家で過ごしたあの時間がそうだというのならば、其れこそが正しく家族の時間なのだろうと思った。

 祖母を亡くして、鋭児も孤独だ。いくら彼の伯父が理解者であっても根本的にはどうしようも無いのである。失ったことを知っている鋭児は、ある意味自分達よりも、その孤独感が強いのだろうと、吹雪は思う。そして、家まで失おうとしている。

 その中で、母の形見である浴衣を、自分達に着て欲しいといった鋭児の言葉が、吹雪の心を振るわせた。

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