第1章 第2部 第7話

 吹雪との楽しい食事の一時が終わる。

 「俺、洗いますから、吹雪さんゆっくりしててくださいよ」

 と、鋭児は吹雪に迷惑をかけないために、直ぐに片付け始める。

 「ダメ。今朝方まで寝たきりだったのに、そんな直ぐに動けるのって、絶対鋭児くん痩せ我慢してるでしょ?」

 と、察しのいい吹雪である。トレイを持ち上げようとする鋭児の両手を上から押さえ、制止する。

 確かに吹雪のその力だけで、簡単に腰が砕けて、ソファーに倒れ込んでしまう鋭児だった。トレーの上の皿は、割らずにすんだが、少し強引だった吹雪が体勢を崩して、鋭児の膝元に倒れ込んでくる。

 「大丈夫…………っすか?」

 「あまり無理しちゃダメ……。鋭児くんはもう少し、人の話も聞かなくちゃ……」

 確かに図星であるその心配事を、吹雪に言われてしまうと、鋭児は何も言えなくなってしまう。そんな吹雪は鋭児の腰に抱きついた状態だった。

 「はい……」

 鋭児が折れる。吹雪はその返事が出たからこそ、すぐに鋭児から離れたのだろう。

 「じゃぁ、コーヒー淹れてくるね」

 吹雪は自分の感情を切り替えるようにして、トレーを手に取り、キッチンへと向かう。部屋の構造としては、焔の部屋と全く同じだ。

 特に断ることもなく、鋭児はリラックスした様子で、テレビのリモコンを握り、四十二型の液晶テレビの電源を入れる。吹雪は特にサウンドには拘っていないようで、焔の部屋にあった、サラウンドスピーカーななかった。

 そう言えば拘りのない焔なのに、サウンドには拘るのだろうか?サウンドに拘ると言えば、風雅のほうがよほど五月蠅そうに思える。

 テレビ番組は、というと、ちょうどお昼時の、他愛もない帯番組の後半が流れている。

 少しすると、吹雪が上品なティーセットを持ってくる。ミルクと砂糖は、お好みでどうぞという雰囲気だ。と、吹雪は再び鋭児との間を空けずに、ストンと腰を下ろすのだった。ただ、それほどベタベタとはしてこない。

 ここまでの雰囲気だ。本来なら吹雪の肩の一つでも抱くべきなのだろうが、鋭児には其れが出来なかった。気持ちはあった。考えれば吹雪の部屋に来ることも、断るべきだったのかもしれない。自分の優柔不断さに、少し嫌気がさす。

 焔も好きだが吹雪も好きだ。「吹雪も大事」と言った鋭児には、それほどの罪悪感があったわけでもなく、それもまた本当の気持ちである。その感情は惚れるという言葉に値する感情であるのも確かだったし、恐らく焔も吹雪も、そう言う鋭児の感情はもう理解しているだろう。ただやはり見ていて危なっかしいのは焔の方だ。吹雪にはそう言う部分では安定感がある。吹雪からみれば、鋭児も焔も、どっちもどっちなのだろうが……。

 吹雪といても、焔のことが気になってしまう事実もあり、余計に今の時間に夢中になりきれない自分がいる。

 本来其処まで意識することもなかったのだろうが、焔には電話で唆されている部分もあり、鋭児はついつい吹雪との距離感を意識してしまう。そしてあらぬ方向への妄想を想像してしまう。

 そんなこんなで、少しソワソワとする鋭児だった。いや、吹雪から見ると、少々ではなかっただろう。

 「ああ、そう言えば俺、私服とってこねぇと」

 鋭児は、この場を去るきっかけとなりそうな言葉を、思わず口にする。

 「それね!晃平君があとで、焔の部屋に持ってきてくれるって、ほら鋭児くんの部屋あんな状態だし、寝泊まりできる状態じゃないし……、焔は鋭児くんを自分の部屋に置くってきかないし……」

 焔は自分の視界から、鋭児を離したくないのだろう。離した瞬間、どんな危なっかしい行動に走るか心配でならなかったのだ。しかも自分の為に、平気で命を削るような行動をこれだけの付き合いの中でやってしまう。あまりに自分を粗末にしすぎる。

 「…………焔さんには、俺の部屋見られたくねぇな……」

 鋭児は、服を取りに行ってくれるのが晃平で良かったと思う。しかし、実際の出来事を鋭児は知らない。それと同時に、自分と吹雪の距離感を忘れて、浮きかけていた腰を、再びソファーに落とし、両手を組んで、額にあてがい、両肘を膝の上についた。


 鋭児にそう言われた吹雪は胸を痛めた。それは自分より焔のことを気に掛けているからではなく、そう思っている鋭児の気持ちを無視した形をとった自分に罪悪感を感じたからだった。しかし何時までも隠しているべきことではないし、焔には鋭児の覚悟や気持ちというものを、知っておいてほしかった。

 それは吹雪にとってフェアであることにおいて、大事なことなのだ。

 「晃平君に頼んで、ペンキ屋さんに入って貰ってるから大丈夫!」

 と、吹雪は鋭児を安心させようとする。

 ただどれだけ塗ったとしても、真新しいペンキの臭いは早々取れるはずもない。同じペンキを塗ったとしても、部屋に何かの変化があったことなど、直ぐに解ることだ。知られたくないからと言って、心もウソで塗り固めてしまう事になる。その嘘は焔に突き通さないとだめな事なのだ。身体に無理を強いたことは知られてしまっても、醜く藻掻き苦しんだその血痕だけは、見られたくはない。尤も焔はもう、その事を知っている。鋭児は焔に隠し事をし、吹雪は鋭児に嘘を言う。それでも吹雪は、不安に思うことなど何もないと、笑顔を作る。天真爛漫な焔の笑顔とは違い、吹雪の笑顔は沢山の意味を持つ。二人の笑顔には、それぞれの魅力がある。

 自分を心配させまいと、笑顔を作る吹雪を、気がつけば鋭児は、ぎゅっと腕の中に引き寄せていた。腕の中に軽々と収まってしまう吹雪は本当に細かった。

 惚れてしまうなと言う方が無理だろう。

 たった一月だというのに、二人もの女に心を奪われてしまっている。

 「俺、なんか優柔不断で最低だな……、色んな事ゆるせねぇとか、散々言っておいて……」

 ぎゅっと抱きしめられた吹雪は、少し驚いたが直ぐに身体の力を抜く。

 「時々でいい……こうして抱きしめてほしいな……」

 吹雪は鋭児の迷いには答えずにそう言う。少しの欲張りを見せながらも、健気過ぎる吹雪の言葉だった。

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