『権能』
「可哀想に」
男は同情するみたいな口ぶりでそう言った。
「君だって
包帯男から、憐れみにも温情にも似た視線を向けられ、頭が混乱する。
「どういう意味だ、何を言っている……?」
「学生君は、抽象美術というものが何かわかるかい? その名の通り、非具象的に描かれた、難解で複雑な抽象絵画などを指して言うんだ。 特徴としては、絵を見た者に想像の余地を強く与える点だ。 図形や歪な
彼の指さした先には、2メートルほどある高さの絵画貼り付けられていた。
肝心の絵は抽象的で、青を基調にした柱が、赤い飛沫に囲まれているだけで、何を表現しようとしているのか、少なくともオレには理解出来ない。
「よく見ろ、よく見ろ! これはきっと塗料を床にぶちかました猫が、
こいつ――――、
「
言葉が強くなるに合わせて、彼の手が包帯の上から顔面を強く
「
ぼたぼたと赤黒い液体が漏れ出す顔面を、更に強く乱暴に
「私はこの言葉が大嫌いだ。 もっと伝わりやすく、理解されやすい言葉を使えばいいのにと思わないか? それなのに、わざと回りくどい言葉ばかりを選び取って、浅い深みを演出しやがる! 駄作を現代アートだと免罪符のように守るやつらが使う常套句だッ! それが私にはどうしても我慢ならない! どうしてだ、どうしてそんな真似をする! そんなことをするもんだから、若い世代の私たちが、理解不能の作品もどきに価値観を歪まされてしまうんだ! 想像の余地だと? そんなものは美しさではない! 現実を完全に描き出した作品の方がずっと美しいッ! 人間の醜悪さを、世間の猥雑さを、多数派の図々しさを! 不正を、不満を、不利を、不平等を! 脚色無しでそのまま描きだす! 余地はいらない! グレーゾーンは白黒はっきりつけなくては美しくない! そうさ、そうだとも。 だから、芸術は爆発だという言葉は、私が貰い受ける! 私なら、表現欲の爆発を美しく写実できるからだ! 見せてあげるよ学生君ッ! 文字通り、爆発の芸術を、私の爆発をッ!! ぐ、ぎぎ、ぎああぁぁぁぁああああああああああああああああああ!!」
絶叫が響き渡るよりも先に、
男の顔から赤い激流が吹き上がった。
それは爆発にも似た、異様な光景だった。
激流から放たれた血の粒たちは、
各々が自分勝手に飛び交い落下先を選んでいく。
白かった壁紙、
綺麗だった大理石の柱、
高価そうだった額縁の絵、
変な模様だった壺。
全てが赤色に塗り替えられていく。
噴水が収まった頃には、男の着ていたパーカーは著しい量の出血で、すっかり真っ赤に染まってしまっていた。
「か、かか、かッ……! どうしてかな、君には気付かせてあげたくなったんだ……。 この世の中の不明瞭さを、理不尽を…………!」
その時、視界の端で二つの人影が部屋から出て行ったのが見えた。 一瞬ではあったが、仁に手を引かれていった遥夏は心配そうにこちらを向いていた気がする。
これでいい。
これでいいんだ。
あとは、この気狂い野郎から逃げ切るだけだ。
「…………学生君、そういえば君の名前を聞いてなかった。 教えてくれよ」
「テロリストなんかにほいほい名前を教えると思うのか?」
「まさか、立場がわかっていないね。 悪いけど、銃を見られた時点で、もう君を簡単には逃がしてやれなくなった」
その直後、仁達が出て行った部屋への道が、急に降りてきたシャッターによって音を立てて閉鎖された。
「か、かっ、く、き……。 この施設は以前、地震災害を受けたことがあってね。 あのシャッターは被害を受けて増設された防災設備だ。くき、きき、き。 既に操作室はこちら側の手の内さ。今更逃げようなんて思わないでくれ、奥の展示室も別の防火扉で閉鎖されてる。 非常口から出れたって、警備員に捕まるのがオチだよ」
「――――――っ」
行きも帰りも壁に塞がれ、うまくいっても逃げられない。 窮地に立たされたオレが咄嗟に起こしたアクションは、床に転がった銃を拾い上げ、男に向けて構えることだった。
両手に確かな重量感と緊張を感じる。
その重みが、次々に不安を産み始める。
最悪、正当防衛しなくちゃならない。
最悪、銃を撃たなければならない。
最悪、この男を殺してしまうかもしれない。
最悪、オレは人殺しになるかもしれない
最悪、弾は当たらないかもしれない。
最悪、銃を奪われてしまうかもしれない。
最悪、逆に撃たれてしまうかもしれない。
最悪、オレは殺されてしまうかもしれない。
アニメやゲームみたいに上手くいくわけがないし、正しい銃の構え方なんてものもわからない。
だけれど、わからないものはわからないし、仕方ねえ。
全部、その場の流れに身を任せるしかない。
「学生君、勘違いしているみたいだから言っておくけれど、私は君を傷つけようなんて気は毛頭なかったんだ。 一般客には少々、手荒な真似をしたが」
「信用できるか!! なあ、どうしてだ。どうしてオレ達を巻き込んだ!?」
「……なるほど、オレ達、か。 さっきの客に、君の友人が混じっていたようだね。 確かに、今日は学生服を着た一般客が多かった。 校外学習でもしていたのなら、すまなかったな。 くく、く、ぐ……、彼等には一時的に人質になってもらってる。 なあに、目隠しして正面ホールに座ってもらってるだけで、乱暴なことはしていないはずだよ」
「何をする気だ、あんたの目的は何なんだ」
くくく、と気味の悪い声を漏らしながら
無装飾で無骨だが、ぴったりのサイズであるところを見るに、男の顔に合わせた特注品のようだ。目に合わせてくり抜かれた穴の
「目的は、そうだな…………」
「何を回答に悩んでやがる。こんな事件を起こした目的は何だって聞いてんだよ!」
「待てよ、今考えてるから」
今考えてる――――?
今考えてるだと?
こいつまさか、何も考えずにテロなんて迷惑なもんを起こしてるっていうのか!?
「学生君、ハッキリと言ってしまえば、この事件について、私には目的なんてものは存在しないんだよ」
「………………は?」
男は壁に飾られた絵画に
「ふざけた世の中に反逆する、っていうのは
そのまま強く爪で引っ
あまりに強く
「これだ、これがアートだ。 不適切な評価を得ている作品の破壊と上書き。 これこそが私のアート。 私はこれを展示してもらうために、ここへ来たんだ」
「……どうやらあんたに言葉は通じないらしいな」
「くく、ぎき、くくくく、くくっ。 どうやら君は、この世の中に本当に酷く毒されてしまっているらしい。 私達、『
男は再び、顔を
今度は、鉄の仮面の上から。
「か、ききき、かっ、くぎぃっ、ききかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかかか!!!!」
硬い鉄を、砂場の土のように掘ろうとするもんだから、男の爪は次から次へと剥がれていく。
痛々しい指々の出血が、仮面に流れていた血の涙を文字通り掻き消していく。
「かッ、きききききく、ぎこががかかかかかかくけききかッ、くく、くくくかきげけけけけけけ、きき、く、がぎききっ! きき、き、きくくく、かかかかか、くき、こきききッ! がゅいぃいい!! きっ、き、かかかかかかか!! ききィ、くかかかか!! ぎききき、き、ぐがかかか、ぎぎぐぁ、ががっ!! ご、ごぐ、ききききききききかかかかかッ! 私の
どくどくと流血した両手を高く掲げて、
「想い
男が腕を下ろすと、高速道路を走る車のテールランプの様に、爪から赤い光跡が空中に残った。
「私は自分のために描いているから、普段はギャラリーがいることは嫌なんだが……、君には不思議と、見ていて欲しいって気持ちになれたんだ……、見ていて欲しい……!」
そう言って、男が腕を振り回して光跡を操ると、突如として2メートルほど柄のある赤い斧が実体化した。
「想像物から創造物へ。 これが私の権能、『
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