ガラス細工の今

ゆでたま

往々にして、倒錯する

降りしきる雪の日。会社からの帰宅途中。

俺は夢遊病者のような、おぼつかない足取りで大通りを歩いていた。


早紀さき……?」

「……?」


俺はその声に立ち止まり、振り向く。

声の主は、意外とすぐ側にいた。


「どうして―――」


“俺の名前を?” 

―――と口を開こうとした。だが、できなかった。思考が硬直する。


「やっぱり早紀……だよね?」


俺は目の前の女性を知っている。だけど―――


「良かった―――! ほんと、どうしようって思ってたんだ…」


大きく白い息を吐いてそう、安堵するように言った。


栞子かこ


それが目の前の女性の名前。俺が高校生の時に付き合っていた、彼女だった。


「いいのか? 栞子? 俺たち…」

「え?」


その反応は、俺が予想していたものとは違っていた。

彼女―――栞子の様子がおかしい。

それだけはすぐにわかった。


改めて栞子を見る。

スーツ姿。その上にコートを羽織っている。俺と同じで仕事帰りなのだろうか。

両手を胸に寄せている。手はかじかみ、耳は赤く腫れている。それなりに着込んでいるようだが、どこか寒々しい。まるで捨てられた子犬のようだ。


「場所を移そう」


俺たちは近くのカフェに入った。

さすがにあの大雪の中で立ち話をするというのは、なかなか堪える。

しかし……


「キョロキョロ」


そんな擬音が出そうなくらい、栞子は辺りを見回している。

このカフェに入るまでの間も、そして今も、ずっとこんな感じだった。

やはり様子がおかしい。


席に着き、一息つく。暖房のおかげで外の寒さとは無縁だ。


「何にする?」


俺は栞子にメニューを渡す。


「早紀は選ばないの?」

「常連なんだ。いつも頼むのはブラックコーヒーって決まってる」

「じゃあ私もブラックにしてみようかな」

「飲めるのか?」


栞子は確かブラックが苦手だったはず。高校生の頃の話だが……。


結局、栞子はブラックに決めた。注文を終えて、店員が離れる。それを見計らうように―――


「ねえ、今って何年?」


―――そんな質問を投げかけられた。


“まさか、未来から来たとか言わないよな?”


その質問は大体、違う時間軸から来た人間の開口一番の台詞だろう。まさかそれを聞ける日が来るとは…。


「今は二〇二二年だ」

「そう……私、過去から来たみたい」

「は?」


その顔は真剣そのもの。俺を笑わそうとかそういう悪意は感じられない。


「私が最後に覚えてるのは、合格発表の前日」


合格発表、というのは他でもない、大学受験のことを指しているのだろう。

忘れもしない、その年は二〇一〇年だ。


「けど目が覚めたらこの姿でいつの間に外に立っていたの……」


つまり過去の記憶だけが、現在へとタイムスリップした、と。

そういうことか、と俺は内心、納得していた。


栞子の仕草と雰囲気は、高校生の時と全く変わっていなかった。だけど、それは今の大人の姿とどこか噛み合っていない。

だから俺はずっと、妙な不釣り合いを感じていた。


「つまり、今の栞子は……」


そのとき―――――――――ふと、視線を感じた。背筋におぞましい異物が走るような感覚が走る。


俺はゆっくりと、窓から見える外へ、視線を向けた。


「――――――あ」

「どうしたの? 早紀?」


思わず、間抜けな声が出てしまった。

それにつられて、栞子も俺が見ている方向へと視線を移す。


「いや! 何でも―――」


何でもない、って言おうとした。けど、やめた。

なんだか面倒になってしまった。どうせこうなっていたことだろうし……。


栞子が見つめる先には、一人の女性が立っている。その女性は、こちらを冷ややかな目で見つめている。

一体誰を? そんなことは考えるまでもない。“あいつ”は俺を蔑んでいるだろう。


「ねえ、あの人って」

「俺の妻だ」


俺は水を飲みながら、なんてことないように、そう言った。


「―――誤解」


それだけ呟いて、栞子は席を立とうとする。

栞子がこれからやろうとすることを、俺はよく知っている。


「いいんだ、栞子。お前が気にすることじゃない」

「なんで? あの人は早紀の奥さんなんでしょ? すごい冷たい目だった。誤解を解かなくちゃ!」


そう、栞子は昔からこうだった。いつも実直で、すぐに行動する。そんな眩しさを持っていた。だが俺はそれを……。


「遅かれ早かれこうなっていた。俺とあいつの関係は、もう終わりかけなんだよ」

「終わりかけ?」

「最近では離婚の話も現実味を帯びて来てる。栞子が負い目を感じることはない」

「そ―――そういうことじゃないでしょ? 早紀はいいの? あの人と別れて、それでいいの!?」

「もちろんだ。後悔もない」


きっぱりとそう言った。むしろあいつとはもう別れたかった。だから栞子がそのきっかけとして働いてくれたのは、正直有り難いと思っている。


「とにかく、この話はこれで終わりだ。もう、終わってたんだ」

「――――――そう……」


栞子は納得できない面持ちのまま、腰を下ろす。


遅れて、注文していたブラックコーヒーが来た。


―――沈黙。

気まずい空気が漂う。俺はそれを紛らわすようにコーヒーを啜った。一方、栞子はコーヒーに映る自分の顔を見つめるばかりで一向に飲もうとしない。


「私たち、別れたんだよね? 私と別れるときも、同じ気持ちだった?」

「………」


後悔はなかったのか? そういう問いかけだろう。

俺はコップから口を離さないようにして、目を閉じる。


「良い別れ方じゃなかったんだね」


悟ったように、栞子は薄く笑った。その笑いは失望からではなく、現実の儚さを知ってしまったからだろう。


「確かに、良い別れじゃなかった。けど、俺が言うのもなんだが、別れは時として必要だ。それが互いのためになることだって往々にしてある」


―――“はずだ。”

と、俺は心のなかでそう付け加えた。


「なんか、大人だね」

「お前も一歩、大人ってやつを知ったな」

「あんまり知りたくなかった、かな」


そう言って、栞子はコーヒーを口にした。


「苦いね、ほんと」


栞子はやせ我慢をして、一気に飲み干した。そして勢いよく席から立つ。


「それじゃあ、行くね」

「どこに?」

「警察署。住所もわかんないし」


そうか。栞子の記憶は高校生のままだから、現代について全くの無知。

文字通り、路頭に迷っている。となれば、警察に頼るのが妥当だろう。


「警察署の場所、知ってるのか?」

「これから探そうと思ってる」

「はあ・・・もう夜も遅いんだぞ。警察署まで送るよ」

「いいの?」

「もちろん」

「優しいね」


そんな言葉は聞きたくない。


会計を済ませ、店を出る。先程まで吹雪いていた雪はずいぶんと落ち着いていた。

二人、新雪を踏みしめる音が並ぶ。


「ねえねえ、さっきの畳めないケータイみたいなのってなに?」

「ああ、これのことか」


俺はスマホを取り出す。っていうかスマホのこと、畳めないケータイっていうのか…。

二〇一〇年の日本ではまだスマホは普及していない、か。


「これはスマホって言ってだな。こうやって、ライトにもなれば、ケータイと同じようにメールや電話もできる。それにさっきみたいに支払いも済ませることができる」

「へ~、じゃあ今って現金ないの?」

「いや、病院とかは基本現金だな。ご老人はこういうのに弱いからな。なかなか進まないんだよ。栞子もポケットに入ってるんじゃないのか? スマホ。この時代、スマホを持ってないやつを探すほうが難しい」


栞子はポケットに手を入れて、スマホを取り出した。

電源は……ちゃんとある。しかしパスワードがわからなかった。生体認証じゃない、六桁の番号。

他にも、栞子の所持品を見させてもらったが、身元確認に使えるようなものは一つもなかった。


「タイムスリップってのも考えものだな、ほんと」

「も~! 他人事みたいに!」


元カノと言えど、結局は他人事だ。

しかし……


「どうして記憶だけ未来に先行してしまったんだろうな?」

「信じてくれるんだ。この話」

「今更なんだよ?」

「だってこんな話、普通は疑うでしょ? でも早紀はすぐに理解してた」


別に、俺を疑っているわけではないのだろう。しかし俺はその指摘に内心、汗をかく。


「仕草があの頃と全く同じだったからだ。その社会人の姿で高校生の身振り手振りをするのは、相当違和感があるからな」

「ぶりっ子っていいたいの?(#^ω^)」

「もう死語だぞ、ぶりっ子」


栞子の記憶だけが転移した現象。しかし俺はもっと別の理由で確信していた。

俺も、お前と同じような経験をしているんだ―――。お前とは全く逆だけど。


俺は―――未来の記憶だけ、過去へと逆行した。

三六歳から二六歳への逆行。あれから四年が経過し、今は三〇歳。 

もちろん、驚いた。そして自分の愚かさにもまた驚かされた。


もともと俺の妻は、上司の妻だった。だが、俺は未来の知識を駆使して、上司よりも先に接触し、結婚した。

なぜそんなことをしたのか? 

もう覚えていない。もしかしたらストレス解消の余興のつもりでやったのかもしれない。

俺は他人の家庭を奪った。


「あ、警察署」


栞子の声で気づく。警察署が見えてきた。


「ありがとう、早紀」


そう言ってこちらを振り返る栞子。


「礼なんていい」

「実はすごく不安だったんだ。どこを見ても知らない景色ばかりで……」


先行の早紀と、逆行の栞子。

苦労するのは、間違いなく栞子のほうだろう。知らない場所にいきなり放り出されるのだから。


「だから、最初に会えたのが早紀で本当に良かった」


―――会えて良かった。

まさかそんな言葉が聞けるなんて。


「どうしたの? 早紀?」

「いや何でもない」


何でもないはずがない。その言葉は絶対にありえない。

だって、俺たちは――――――会ってはいけないのだから。


「電話番号教えて」

「なんで」

「だって、いつ記憶が元通りになるのかわからないし、不安だし・・・」


そう言って、こちらに手のひらを差し向けてくる。番号のメモを渡せ、と言うかのように。

しかしためらう。渡すべきか、渡さずべきか。

ここで関係を断つのが賢明。理性ではそう結論付けている。

だけど、俺の体は……


そのとき―――びりっと頭蓋にねじれるような痛みを感じた。


「―――!」


その衝撃に思わずよろめく。

遅れて、俺はその痛みを理解した。実に久しい。

それは未来からの記憶の逆行だった。内容は――――――


「大丈夫!?」


心配するように声を上げ、俺に手を貸そうとする栞子。


「いや、いい」


俺はそれを振り払った。そして、ふと“それ”が目に付いた。

指輪。栞子の左手薬指。


「どうしたの? 早紀?」

「………」

「ねえってば――――――」

「やっぱり会うべきじゃなかった」

「さ、早紀!?」


そう告げて、俺は逃げるように駆けた。


「はあ・・・はあ」


雪道を走るというのは、疲れる。

俺はいつも通りの帰り道にいた。


一人、家路につく。恐ろしいほど、静かだった。

そういえば、あの日もこんな雪道を一人で歩いていたっけ。


―――“堕ろせ。”


それは高校卒業間近の日。今でも覚えている。


俺は栞子を妊娠させてしまった。

故意ではなかった。しかし、許されない行為であることに変わりはない。

第三者を交えた協議の末、子供は堕ろすことになった。そして俺は栞子との接触を禁じられた。


最後に栞子を見たのは、その話し合いのときだった。

終始、俺を憎んだ目で見ていた。

栞子は堕ろすつもりなど毛頭なかった。しかし俺はそれを拒否した。

荷が重かったんだ。


栞子との別れに、俺はどうしようもなくなって、よく深夜を徘徊していた。そのときも、雪が降っていた。

だけど、それもいつからかやらなくなった。栞子のことを思い出の一つとして忘れ去ったからだろうか。


「………」


俺如きに踏みつけられる、地に積もる雪を見た。

それは春の訪れとともに、溶け、流れ去る。

俺の過去の過ちも、そうあってほしかった。

しかし、許されなかった。


俺はあのとき―――栞子に電話番号のメモを渡す瞬間、未来を知った。

そこには、憎悪の目と、瞳に涙を浮かべる栞子の姿があった。それはあのときと全く同じ。

しかし唯一違うのは栞子が“今”の姿だったこと。


どうあがいても、俺は他人を傷つける。だから栞子の手を振り払った。


家の前に着く。今日は嫌なことばかりを思い出す。まるで自分の醜い部分だけを切り取られたような一日だった。


「―――――――――………」


ぎい、と扉の音が鳴る。家の中に入る。中には誰も、居ない。


続く扉。俺は寝室に入る。

そこには―――


「そういうこと、か……」


俺がいた。ベッドの上で眠っている。しかし呼吸がない。

それは死んでいた。


「ただいま」


自分の死体に、帰宅を知らせる。死体のそばには錠剤があった。


俺は、あまりにも多くの罪を犯してきた。


“この人でなしが。”


それは、妻との口論で言われた言葉。

はっとさせられた。これ以上ないくらいに腑に落ちた。

俺は人じゃなかった。

人じゃないから、他人を不幸にしてしまう。

それでも他人が恋しかった。でも、その他人から疎まれた。

だから死を選んだ。


けど………


“私と別れるときも、同じ気持ちだった?”


「今でも後悔してるよ……」


未練があった。

俺はあのとき、子供を出産させるという、栞子の決断を、俺は責任を持って受け入れるべきだった。

そうすれば、今とは違う人生を歩めていたのかもしれない。


願わくば、栞子ともう一度会いたい、せめて顔だけでも――――――。

しかしそれは叶わない。


だから………俺は最期に、都合のいい夢を見ることにした。


初めは、見飽きた景色をただ、ふらふらと眺めていた。走馬灯かと思った。


でも―――そんなとき、栞子が声をかけてくれた。

歓喜に打ち震えた。自分が既に死んでいることさえ忘れるくらい。


だが、それは全て狂った妄想だった。


「もう、こんな時間か……」


時計を見る。時刻は夜の十一時五九分。

零時まであと、一分。

明日も会社は普通通りにある。そして俺が居なくなっても会社は普通通りに動く。いや―――俺が居なくなれば、会社はよりよく動くだろう。


残り……三〇秒。

意識が飛び飛びになる。

俺に残された、妄想というガラスの魔法も、もうすぐ尽きる。


「いい夢、見れそうにないな………」


歪んだ俺は、死の間際でさえも、そうだった。

それこそが、人でないものにとって、申し分のない終わり方なんだろう。


―終―

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