暮れる町で君を待つ

晴なつ暎ふゆ

第1話



 ゴロゴロゴロ。

 キャリーケースがコンクリートを滑る音がする。その少し後ろを歩いている。蜩が鳴く夕暮れ時の道には、自分と少し前を行く涼以外誰もいない。夕陽に照らされている田んぼの稲が、風に気持ちよさそうに揺れているのが遠くに見える。道路にも、車は一台も走っていなかった。

「マサ、何見てんの?」

 少しだけ振り返った涼は、今日この田舎町を去るのが嬉しいのか、満面の笑みだ。それが何となく気に入らなくて、別に、と投げやりに返してポケットに手を突っ込む。

 少しでも悲しそうな顔をしてくれたら可愛げがあるのに、涼という男は、いつも通りの人を見透かしたような笑みを浮かべて、そっか、と言うだけだった。

 ゴロゴロゴロ。

 またキャリーケースが滑る音が耳に戻ってきて、ポケットの中でキュッと拳を作った雅斗は、小さく舌打ちをした。


 ここは小さな町だ。

 電車の駅も、バスに三〇分以上乗らなければ辿り着けない。テーマパークもなければ、コンビニすら自動車を三〇分くらい転がしてやっと辿り着くような田舎。コンビニの代わりに駄菓子屋があるような町。

 不便という不名誉な代名詞が似合うこの町を、雅斗はそれでも気に入っていた。

 いつも、涼がいたから。

 小学生の頃からずっとつるんで、中学も同じで、バカやって遊んだ。夏になるとプールの塩素のせいで元々色の抜けやすい涼の髪が染めたみたいに茶色くなるのを見ては、うらやまし〜! と自分の真っ黒な髪を比べながら声を上げて無邪気に騒いだ。

 近所の山に虫取りも行ったし、川で魚を捕まえたりもした。

 きっとこのまま大人になって、父がやってる神社なんかを継いで、いつまでも涼とバカやっていくんだと思っていた。

「俺、東京に行く」

 高二の初夏。まだ梅雨にもなっていない時だった。

 二人の溜まり場になっていた、何の神を祀っているかも解らない小さな祠のある木陰で、葉っぱの隙間からこぼれ落ちる陽光を浴びながら、涼は言った。

 持っていたオレンジジュースの缶のかいた汗が、ぽたりと石段に落ちた。

「え、東京に行くって…?」

「上京するってこと」

「家族の事情でってこと?」

 ううん、と涼はゆっくりと首を横に振った。見上げてくる瞳が、木漏れ日を反射してきらりと輝いた。

「俺がやりたいことの為に」

 オレガヤリタイコトノタメニ。

 それはまるで知らない言語のようで、どこか遠くに聞こえた。気の早い蝉が鳴いているのを聞きながら、涼の言葉を頭の中でぐるぐると回すうちに、口が自然に閉じてしまった。

 自分の知っている涼は、女子にモテて、楽しいことが大好きで、少し不器用で、ちょっと泣き虫で、一緒にバカやるのが好きで、隠し事なんてナシに自分の隣に必ずいる親友だった。

 だというのに、目の前の涼はどうだ。

 いつのまに、俺を置いてオトナになっちゃったんだ。俺がやりたいことの為ってそんなのいつ決めたんだよ。俺に何の言葉もなしに一人で決めて、勝手にいなくなるなんて、そんなの。

 湧いてきた言葉をぐっと飲み込んで、涼を見ながら彼の言葉を反芻する。

 俺のやりたいことの為に上京する。

 涼は笑顔だったけれど、その目の奥に灯っていたのは確かな覚悟だったように思う。茶化すことなんて出来なかった。でも、何をしたくて上京するのかも聞けなかった。

「そっか」

 雅斗が言えたのは、そのたった一言。

 うん、と小さく、でも強く頷いた涼は、手に持っていたアイスの缶コーヒーを飲みきっていた。涼が持っている缶コーヒーと自分の持っているオレンジジュースの缶が、やけに目に付いた。二人の間の溝を表すような気がして。ぱきり、と缶が音を立てたのにも構わず、雅斗もまた勢いよく中身を飲みきった。


 それから今日まではあっという間に過ぎてしまった、というよりも、あまり記憶がない。

 バタバタと涼が忙しそうにしていて、帰り道を一人で歩くことが多かった。あの日以来、涼が上京する話もしなかったけれど、涼がいなくなるということだけは、ヒシヒシと肌で感じていた。喉の奥だか、肌だか、首の後ろだかがちくちくとして、涼の目を見て話せなかった日が続いた。

 凄い勢いでタイヤが滑る音が耳を通り過ぎる。

 顔を上げると、涼と雅斗の脇スレスレを車が走っていった。すぐに見えなくなった車の赤いテールライトから、涼の頭へ視線を移す。ふわふわと楽しそうに赤く染まった髪が揺れている。足取りも軽い。雅斗の胸に在り続ける靄なんて知らないで。

「なあ、涼」

 俺も一緒に行きたい、なんて言えれば良かったのかもしれない。でも自分には、涼みたいにやりたいことなんてない。上京して、それから? 一体どうするのか想像もつかない。そういう自分はきっと、この町にいる方が余程有意義なんだろう。もしも涼に着いていってしまったら、いつか自分と涼を比べて情けない自分に気付いて、涼に当たり散らしてしまうかもしれない。それの方が余程想像がつく。

 涼との仲をくだらないことで駄目にするくらいなら、この小さな町に残っていた方がマシだ。羨むくらいならまだ良い。自分と比べて自分の小ささに嫌気が差して、嫉妬に支配されて涼を嫌いになってしまうより、ずっと良い。

「どうした、マサ」

 振り返った涼の顔が夕陽に照らされている。唇の隙間から見える白い歯がやけに目を刺した。

 何をしに東京に行くの。

 その言葉を飲み込んで、違う言葉にすり替える。

 物理的な距離が出来たって、心の距離が離れるわけじゃない。

「東京遊びに行ったら、涼んちに泊まるからよろしく」

 ぶはっと吹き出した涼が肩を揺らして笑うのを見て今同じ気持ちで笑うことが出来る。それだけで、何の根拠もないのに大丈夫な気がした。

「ンなこと言って、ホントに東京来んの?」

「失礼な。行くつもりだし」

「どうかなぁ、マサって出不精だし。俺が連れ回さなくなったら心配だなぁ」

「うるさいな。だったらお前が俺の為に東京行きのチケット送ってくれれば良いだろ」

「ははっ、片道チケット?」

「ばか。それじゃあ帰れないだろ」

 キッと目を鋭くして睨んでやれば、涼が息を零すように笑った。口が動いたのにその言葉は耳には届かない。何? と聞いても、何でもないよ、と言われて結局雅斗が口をへの字に曲げるしかなかった。

 蜩の声が二人だけの道路に反響している。

 気付けば、涼が乗るバス停までもう数メートルだった。

 滑っていたキャリーケースのタイヤが止まる。わざとらしく息を吐いた涼がキャリーケースに軽く腰を掛けて、こちらを見上げてきた。

「今年はマサと夏祭り行けないんだな」

「なに、急に」

「いや、マサの舞、見たかったなって」

「だからなんで突然そんなこと言うんだよ」

 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。

 そんなこと言われたのは初めてだ。確かに毎年雅斗は、神社で行われる夏祭りで舞を踊ることになっている。今年も学校の合間を縫って練習をしているし、それを涼も知っていた。時々せがまれて踊ったりもしていたけれど、見たかった、なんて言われたことはなかった。

「俺さ、好きなんだ」

 びゅうと吹きつけた風に、二人の髪の毛が宙を舞う。え、と開きかけた口。ニッと頬を釣り上げた涼は言った。

「雅斗の舞、すげー好きなんだ」

 何を今更、と言ってやりたいのに、ぎゅっと喉の奥を絞られたように声は出なかった。だから残念、と涼は溢して足先で落ちていた石ころを蹴飛ばした。遠くへ飛んでいった石ころは、対向車線を飛び越えて向こう側の草むらに消えていく。石ころから目を離して彼を見ても、目は合わなかった。石ころが消えた場所を眺めたまま、前髪が風に揺れている。

 ブロロロ。

 だんだんと大きくなる音へとゆっくりと目をやった。涼の事を東京へ連れて行くバスが、ゆっくりと二人の方へ近づいていた。

「おっ、来た来た」

 ぴょんと跳ねるようにキャリーケースから降りた涼が、また歯を見せて笑う。もうお別れだな。小さな声が風と共に鼓膜へ届いた。

「風邪、引くなよ」

「どっちがだよ。マサこそ腹出して寝んなよ」

「うるさいな。涼だって腹出して寝るくせに」

 そう言いながら、ポケットの中に忍び込ませていた贈り物を、どさくさに紛れて涼の胸に押し付けた。え、と間抜けな声を出した涼を横目に、ふん、と鼻を鳴らす。心願成就の御守り。願いもたっぷり込めた。

「俺からのはなむけ。……がんばれ。応援してる」

 言い切ったか、否か。

 思い切り腕を引かれて、あっと思った時には抱き締められていた。ぎゅうぎゅうと骨が軋むくらい強く。

「ありがとう、雅斗。俺、頑張るよ」

 泣き虫な涼の声が震えていたのは、今日は知らないふりをしてやろう。背中を撫でて、あんまり気張って頑張りすぎんな、と笑ってやる。

 プシュウ、と音を立ててバスが止まる。とんとん、と背中を叩いてやれば、バッと身体を離される。目の前の涼は、今日一番の笑顔で笑った。

「行ってくる!」


 涼を乗せたバスは、少しも後ろ髪を引かれる事なく遠ざかって行く。テールランプが見えなくなるまで手を振って、ゆっくりと手を下ろす。

 ぽっかりと空いてしまった隣。少しだけ寒い気がして腕を擦った。

 今日から、親友は同じ町にいない。

 それでも雅斗は、生きていく。涼のいない町で、涼との思い出を抱えて生きていく。いつか、涼がこの町に顔を出した時に、今日と同じ笑みを浮かべられるように。




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