第三十二章:雷神顕現

 鳶丸は醍醐寺にいた。有髪のままではあったが、僧形をしていた。


 僧としての名を、道賢・・という。道真の生前、僧と成る日が来たらそう名乗れと、名前の一字「道」を贈られた物である。


 僧ではあったが道賢の本業は薬師、即ち医者であった。唐人の手引きで大陸に渡り、中国医術を身に付けたのだ。学僧として長安で学ぶ事五年余。道賢は、大陸の医術を吾が物にしていた。


 日本に帰国した後、普段は醍醐寺の宿坊に身を置いていた。寺の作務や勤行ごんぎょうの合間、道賢は里を回って里人の脈を取った。薬礼は受け取らない。


「儂は、仏に仕える身じゃでな。礼等貰うては、余計な欲が出るばかりだ。勘弁、勘弁。」


 そう言って手を振って断っていた。


 其れに、道賢が病人に与える薬は、野草や木の実の類が多かった。


「御前は、青菜が嫌いだそうじゃな。其れでは長生き出来んぞ。子等も未だ小さいのに、早死にしても良いのか?」


 食べ物や、暮らし振りを体に良い物にする。其の事を治療の本義としていた。貧しい者が多い里人達は、銭の掛からぬ道賢の治療を有り難がったが、其れでも何か礼がしたいと思った。


 人とは勝手な生き物で、「貰い放し」では気持ちが悪い物なのだ。


「御坊の拝んどる神さんを、儂等にも拝ませて貰えんかな?」

「ならば『南無大日如来』と念ずるが良かろう」

「だいにちにょらい様とは、どんな神さんかの?」


「世に在る物、凡ての中に宿って居られる。御前の中にも居る」

「こんな汚い爺の中にも、居りますかの?」

「居る。草の中にも、岩の中にも居る」


 大日如来は、真言密教の本義である。宇宙の中心であるとも言えるし、万物に宿る真理であるとも言える。其の真理と一体化する事により、人は仏に成れるのだと考える。


「ふうむ? 儂等には、良く分からん神さんですのお」


 里人にとっては、神仏の区別は無かった。有り難い物であれば、其れで良い。


「もうちいと、拝み易い神さんは、いらっしゃらんかのお?」

「神か? 儂は仏徒じゃが、一人だけ大切な神がいらっしゃる」

「ほう? 其れはどんな神さんかいのお?」


 道賢は諸手を袖から出すと、そっと合掌して頭を垂れた。


「吾等が神は、唯一人。『天満大自在天神』様で在る」

「てんまん……。何ですかいの?」

「天神様よ。菅原道真様の事じゃ。」

「おお、あの、天神さんで御座いますかな?」


 都に近い里であれば、天神を知らぬ物は既に居なかった。藤原家に祟った猛威は、畏れを以て語られていたし、貧者にとって権力者、搾取者に立ち向かう者は何時の世でも英雄視される。


「なら、儂等御経は読めんで、天神さんを祀らせて貰いましょうかのお」


 日本の信心には、神は何人いても良いのであった。道賢の恩に報いたいとの想いから、里人は挙って天神を崇めるようになっていった。


 「此のまま病の人を助け、死に行く人を見送るだけの暮らしで終わろうと思っていたがの――」


 葛彦からの文を読んだ道賢は鳩を空に放すと、小屋に戻り手早く身支度をした。僧形の身形を改め、筒袖に筒袴という作務衣のような服装になった。短刀一本を懐に吞み、菅笠を被ると、後は手拭い一本、水筒一つという身軽な格好で小屋を出る。


「さて、久しぶりに京まで一走りするか」


 するすると歩き出したが、十を数える間もなく其の速さは飛脚の歩調を遥かに超えた。飛ぶような速さだが、不思議な事に急いでいるようには見えない。普通に速い、只其の様な物として目に映った。


 現代の地図にして約十五キロ、徒歩では三時間は掛かるであろう行程を一時間足らずで道賢は走破した。


 里の入り口で速度を落とし、普通の歩みに戻してから道賢は喉を潤し、息を整えた。里長葛彦の館に辿り着く頃にはすっかり汗も引いていた。


「そろそろ来る頃じゃと思っとった」


 館の前には葛彦が佇んでおり、自ら道賢を家の奥へ通した。次の間にはまだ、娘と婿の亡骸が寝かせてある。道賢は手を合わせると、「南無大日如来」と念仏を唱えた。


 落ち着いて、道賢は葛彦と向かい合った。


「御無沙汰を致しました」

「急に呼び立てて済まなんだ。こんな事に成ってしもうて……」

「誠にお気の毒な事で。右兵衛の侍どもの仕業と文にありましたが」

「うむ。美努忠包みぬのただかね様配下の者共じゃ。其の上には清貫様がおる」


 清貫は時平の取り巻きとして道真を排斥し、太宰府配流後も監視に協力した人間であった。


「つくづく道真様に仇為す御方ですな」


 道賢は清貫をそう評した。


「――儂は、藤原等焼き尽くしてやりたい」


 葛彦は絞り出すように胸の内を語った。


「娘御一家三人を無残に殺された恨み、察します」

「じゃが、藤が無くなれば別の草が是幸いと枝葉を広げるだけじゃろう。所詮キリがない」


 自分を納得させる様に訥々と言葉を紡ぐ葛彦であった。


「清貫、忠包と其の一派。此奴等だけは生かして置けぬ。よ、雷神と成って呉れい」


 きっと顔を上げて、道賢を見詰めた。


「――道賢の名、捨て申そう」


 鳶丸は瞑目し、静かに答えた。


「鳶!」

「吾は天狗の鳶丸也。天道乱す者あれば是を討つのみ。頭領の御許しを得て、事を起こしましょう」


 鳶丸は決然と言い放った。


「ならば天龍は儂が支度する。雷神の神威、彌増いやましに知らしめて呉れる」


 二人は連れ立って、翌日道明寺を訪れた。


「話は聞いている。娘御達は気の毒な事であった」


 嘗ての梅若、今は頭領と成ったは堂々たる体躯を伸ばし、背筋を正して言った。


「頭領、雷神の神威解き放つ事を御許し下せえ」


 葛彦は床板に額を付けた。


「待て。此度の事、御前の家族、いや月読の里一つの話に留まらぬ」


 葛彦の願いに答えを与えず、梅は重々しく言い放った。


「天神の里と知りつつ、其の結界を破っての乱暴狼藉。神域を汚す事に他ならぬ。天神の和霊にぎたまを踏み付ける行いじゃ」

「では?」


 葛彦は床から顔を上げた。

荒霊あらたまと成った天満大自在天の神威。此の世の物であろう筈もない。此度は宮中にて神敵を討つべし!」


 恐るべき宣告であった。事もあろうか主上のいます宮中にて雷神の威を示せとは――。


「宮中にて血を流せと?」

「非常の悪行を誅するに、常の手段で事足りようか? 天神の前に人の理等意味を持たぬ事、天下に示さねばならぬ」


 宮中にて血を流すという事は、死穢しえを主上に及ぼすという事に他ならない。流石の葛彦も顔を蒼褪めさせた。


「手前の覚悟が足りませなんだ。頭領の言う通りで御座えます」


 葛彦は改めて床に手を付き、頭を下げた。


「うむ。主上に対しては畏れ多き事ながら事此処に至ってはせん方もない。三善様を通じて御伝え願おう」


 予め示し合えるのであれば、出来るだけ現場から遠ざかって置いて貰う事も出来るだろうと、梅は考えた。


「宮中に忍び込むのは鳶丸、其方の役目だ」

「はい。間違いなく遣り遂げて御覧に入れます」


 鳶丸に最早もはや迷いはない。既に矢は放たれた。後は雷神の矢と成って標的を倒すのみ。


「葛彦よ。天竜の使役を許す。天神の力、存分に見せ付けよ!」

「へえっ! 藤家一党の肝を抜いて呉れましょう!」


 其の後、一刻を掛けて如何に襲撃を成就させるか、三人の間で策を練った。


――――――――――


 その日、醍醐帝は朝から不予を称し、寝所に籠った。凄惨な襲撃現場から出来るだけ距離を取る為である。事件の最中に宮中にあったというだけで公家や世間に対するインパクトは充分であった。陰陽や奇門遁甲、風水によって幾重にも守護された内裏において怨霊が祟る等あってはならぬ出来事なのだ。


 機会は遂に巡って来た。旱魃かんばつに見舞われた都に慈雨を呼ばんと、雨乞いの祈祷をするべきかを、其の日清涼殿で論じる事になった。清貫始め藤原家の重鎮や平稀世が一堂に集まる機会である。


 鳶丸は前夜の内から内裏に潜入し、清涼殿を狙える位置に付いた。


 昼を過ぎると、昨日までと打って変わって俄かに黒雲垂れ込め激しい雷雨となった。清涼殿の向かい、仁寿殿じじゅうでんの屋根上に潜む鳶丸は、胴火どうびと呼ばれる容器に火種・・を入れていた。滅多な事では火は消えないが、雨水が掛らぬ様体の陰にした。


 会議が行われる清涼殿は帝の住まいであったが、静養に差し支えては行かぬとの配慮で帝は北東に離れた常寧殿に移っていた。鳶丸にしてみれば、気兼ねなく天龍を打ち込める状況が整っていたのだ。


 雨乞いの要否を論じようと集まった面々であったが、折からの雷雨である。帝不在という事もあって世間話で時を潰していた。


「帝の威徳が天にも通じた様ですな。雨乞いの祈祷を論ずる前に、雷雲の方が降りて来て呉れた様じゃ」


 清貫が貫録を示す様に笑って言った。しの突く様な雨を物ともしない磊落らいらく振りであった。


「誠で御座いますな。雷神とやらの祟りで雨が降らぬ等と言う輩もおりましたが、何の事か。ほほほ……」


 口元を袖で押さえたのは、平稀世であった。


「聞き分けの良い御霊である事よ」


 清貫の笑いに皆が釣られた時、一際眩しい稲光が真っ黒な空に走った。笑い声に遅れて、天を割る様な雷が響く。一瞬、音の大きさにびくりと肩を竦める者がいる中で、清貫は尚も意気軒高であった。


「帝のいます此の内裏に、如何な御霊とて祟りは出来まい。光ろうと、唸ろうと、やまいぬの遠吠えと同じ事よ」


 豪胆にも御簾を捲って、外に顔を覗かせて見せた。


「お見事なお覚悟。勇ましや、勇ましや」


 一同が誉めそやした時であった。向かいの仁寿殿の屋根上に鳶丸が仁王立ちした。何を思ったか、素早く刺子の衣服を脱ぎ捨てると、褌一本の裸になる。


 其の上半身には黒々と燃え立つ黒炎が胸から腕へと描かれていた。雨に打たれて黒煙の一部は滲み出しており、黒い血を流しているようでもあった。


 暴風がざんばら髪を吹き乱す中、鳶丸は胴火から火縄に種火を移す。


 またひとしきり大きな笑い声が清涼殿から沸き上がった時、鳶丸は大音声で名乗りを上げた。


「出でよ、藤原清貫! 平稀世!」


 清貫は己が名を呼ばれて御簾を上げてみたが、外には誰もいない。


「はて? 面妖な……。誰かが我が名を呼ばわったような……」

「東風吹かば――、匂い起こせよ梅の花――」


 朗々たる吟声が頭上から響く。


 漸く清貫は仁寿殿の屋根上に人影を認めた。此の豪雨の中、裸とは――?


「誰じゃ? 何奴じゃ?」

「主なしとて――、春な忘れそ――」


 吟じ終えて、悠々と鳶丸は清貫を見下ろした。


「我は天満大自在天神たる菅原道真が眷属、鳶梅天狗也! 其方等の所業、天神の神威を踏みにじる事甚だし。天道の許さざる所也!」


「何を血迷うか? 推参者、いやあやかしか? ええい、衛士、衛士よ!」


 喚き散らす清貫に構わず、鳶丸は天龍を構えた。


「天道を犯す者あれば雷神是を討つ。天神荒霊の怒りを知れ!」


 叫ぶや否や、火縄を火皿に落とした。


 筒先を離れた鉄丸は、どーんと雷鳴よりも大きく大気を揺るがせて、清涼殿北東の柱を直撃した。


「ぎゃあー!」


 砕け散った榴弾が周囲を襲う。


 清貫は破片と炎をまともに受けて、胸から血を噴き出して倒れた。傍にいた平稀世は顔を焼かれた上に、爆風を吸い込んでしまい、呼吸器が爛れて窒息死した。


「……」


 言葉も出せず、腰を抜かして仁寿殿屋根上を指さす太政官達。


「何事!」


 斜め向かいの紫宸殿に侍していた衛士達が、漸く雨の中庭に走り出て来た。


「ぬ? あれか?」


 雨の中目を細めて、屋根上の人影を見定めようとする。


「出たな、いぬ共!」


 只の筒と成った天龍を振りかぶり、鳶丸は屋根を蹴って宙へと飛び出した。


「いやあーっ!」


 裂帛の気合と共に、棒立ちで仰け反る近衛に天龍を振り下ろす。


 ごしゃりと、瓜でも割るように近衛の頭蓋が潰れた。


「帝を守り奉らぬ近衛など不要!」


 天龍を振り捨てた鳶丸は、褌の後ろに差し込んだ石榴ざくろ筒を抜き撃ちする。短い筒先から広がる散弾が数人を至近距離で捉えた。


 正面にいた二名は体を引き裂かれて即死。その後ろにいた紀蔭連きのかげつらは腹を、安曇宗仁あずみむねひとは膝を撃ち抜かれて悶絶した。美怒忠包みぬのただかねは頭に散弾を食らい、炎に髪を焼かれながらのた打ち回って死んだ。


 残った近衛達はすっかり気を呑まれ、散り散りに逃げるか、腰を抜かして動けぬかのどちらかであった。


 はっと意識を取り戻した時は、裸の雷神は跡形もなく消え失せていた――。

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