第十章:雷神降臨
「何だ、何だ。漸く相手が来たか? 此方は何時始めても構わんぞ」
場所柄、身分も弁えず、蹴速麻呂は大声で言い放った。
「相手は御前か? 其の様な体付きでは話にならぬ。詫びを入れるなら今の内ぞ」
道真が誰かも知らず、傲岸に侮蔑の言葉を投げ付けると、蹴速麻呂は両手で辛うじて握れる程の太さの立木の前に立った。
ぐっと腰を落として構えると、無言の気合と共に踏み込み、立木目掛けて突き手を放った。現代の相撲で言う「てっぽう」である。どん、という鈍い音を立てて立木は揺れ動いた。
更に手を替えて立木を突く。
どん。どん。
三度目には、めりっと木にひびが入る音がした。
どん。どん。
五度目の突きでは、ぼこりと根元が土を持ち上げた。蹴速麻呂は更に深く踏み込んだ。脇を締めて両手で立木を突き上げる。
ぶつ、ぶつ、ぶつという根の切れる音を立てながら、立木は土を跳ね飛ばして斜めに傾いた。
「はっ!」
半歩間合いを取った蹴速麻呂は、再び踏み込みながら右脚で蹴りを放った。三十貫はあろうという体の重みを乗せた蹴りである。
砕けた樹皮の破片を撒き散らしながら、立木は根こそぎ薙ぎ倒された。
「おお! げに凄まじや」
見物客は胆を潰した。
「どうじゃ? 是でもやるか!」
蹴速麻呂は汗を滴らせながら、道真に向かって吠えた。道真は是に構わず、基経に正対して頭を下げた。
「是より土師氏の習わしに従い、此の身に雷神を降ろす呪法を行いまする」
「雷神じゃと?」
思いも寄らぬ成行きに、基経は場の主導権を道真に奪われていた。
道真は黙礼すると、従者達に目で合図を送った。御者の老爺が麻袋を捧げて進み出た。
高貴の人々の注目を浴び、引き攣る程に緊張していた。操り人形の様にぎくしゃくと歩を進める。
道真が呪法を行うと宣言した後である。老爺のぎこちない動きさえ、見守る者達には不気味に見えた。一同は、固唾を飲んで様子を窺っていた。
開けた場所まで進み出ると、老爺は袋に手を突っ込んだ。取り出したのは白い粉であった。
「神
裏返りそうな声で唱えながら、白い粉を辺りに撒く。一面が薄く雪を被った様になると、老爺は後ろに引き下がった。
続いて鳴神の箱を捧げ持った葛彦が、道真の横まで進み出た。
「
此方は美声とは言えないながらも、腹の底からの朗々たる詠唱である。恭しく箱を地面に置くと、今度は道真の後方へ回り、真言を唱え始めた。
「おんあぼきゃあ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばらはらはりたや うん……」
道真の肩から狩衣を取り去る。
現れた道真の肉体には、異様な紋様が描かれていた。
両手は真っ黒に塗られ、其処から首筋に掛けて両腕の表に黒々とした帯が描かれていた。まるで燃え盛る漆黒の炎の様でもあり、黒い奔流の様にも見えた。
「あれは何じゃ?」
「まさか刺青ではあるまい」
見物人がざわざわと騒ぎ始めた。
梅若が背にしていた細長い包みを解いて、中身の物を両手に捧げて歩み出た。真言を唱えながら道真に差出した其れは、一振りの銅剣であった。
「おんあぼきゃあ べいろしゃのう……」
今や道真も真言を唱和しつつ、梅若の手から銅剣を取上げる。体の前に横たえたまま目の高さに捧げ拝んだ後、するりと抜き放った。
「まかぼだら まにはんどま……」
箱の前に座り込んだ葛彦は、懐から取出した取っ手を鳴神の箱に差し込み、真言と共に廻し始めた。箱の中からは、何かが擦れる音が聴こえて来る。
「じんばらはらはりたや うん……」
道真は手にした銅剣を箱の表面に開けられた隙間から差込んだ。
「おんあぼきゃあ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばらはらはりたや うん……」
葛彦と梅若の声が一段と高くなった。
ふと見れば、道真の髪が
「何じゃ、あれは?」
一同は最早蒼褪めていた。
更に時を掛けて、道真主従は銅剣を研ぎ上げた。
既に道真の髪の大半が逆立っていた。
すいと銅剣を箱から抜き出すと、道真は先程蹴速麻呂が倒した木の方へと歩き出した。其の横には、倍程の太さの別の木が生えていた。
「此の身に依り居ます雷神の神威、得とご覧あれ」
言うや道真は構えもせず、右手に下げた銅剣を差し出す様に放り投げた。剣はゆっくりと円を描きながら、二間の距離を飛んで立木に突き立とうとした。
其の瞬間。剣の先から雷光が発し、切っ先を埋める寸前の樹皮を撃った。
「ぱん」
と、小さく破裂音がしたが、次の瞬間耳をつんざく轟音に掻き消された。
どおーんと辺りを震わせて、剣が突き立った所から立木が爆発したのだ。めりめりと凄まじい音を立てながら、立木の上部が倒れて行った。
破片が飛び、折れた立木からは煙が立ち上っていた。刺激臭が鼻を襲い、人々は咳き込み、涙を流していた。
「あわわわ……」
「雷じゃ!」
見物どころか、大半の者は腰を抜かしていた。爆発を最も間近で経験した蹴速麻呂は呆けた様に立ち竦んでいた。
「雷神に向かう者は其方か……」
道真は眼光鋭く蹴速麻呂を睨み付けながら、近付いて行った。蹴速麻呂は気圧されて声も出ない。
もう一歩で手が届くという所まで近付くと、道真は歩みを止めて右手をゆっくりと差し伸べた。
伸ばした腕の先、拳が相手の目の高さまで来た時、道真は低く囁いた。
「見よ……」
握った拳の中から人差し指だけを立てた。
其の手は漆黒に塗られ、爪が長く伸ばされていた。異様に尖った爪の先を蹴速麻呂が見つめた其の時、道真の指先から電光が走った。
雷は蹴速麻呂の左目を撃った。
「ぐわっ!」
予期せぬ衝撃に、蹴速麻呂は顔を押さえて仰け反った。
道真は低く身を沈めると、死角を突いて地を這う様に相手の左手に回り込んだ。するすると左後方に抜けると、目を覆っている蹴速麻呂の左手、其の小指を掴んでぐいと捻る。
「うっ?」
鋭い痛みに蹴速麻呂は引かれるままに腕を取られた。其のまま体を廻しながら、道真は蹴速麻呂の腕を引き落として行く。
更に相手の肘を右手で決めながら、ぐっと押し下げた。堪え切れず、蹴速麻呂の巨体がふわりと宙に舞った。
くるりと、嘘の様にきれいな円を描くと、蹴速麻呂は地に落ちて行った。下は剥き出しの地面である。
立木が倒れた時を上回る地響きを立てて、巨体が背中から地を叩いた。
「うーん……」
蹴速麻呂は息が詰まって悶絶した。
「おお!」
「これは……」
道真は基経達の方に顔を向けた。
「次は誰か……?」
右手を一人一人の顔に向けて行く。
「其方か?」
「其方か?」
見物人は首を振り、顔を背けて逃れようとする。
「吾が力、其の身を以って試すが良い」
「おんあぼきゃあ べいろしゃのう まかぼだら……」
道真が再び真言を唱え始めると、最早堪らず我先にと逃げ始めた。関白基経も例外ではなかった。
「主様!」
「ぐむ……」
道真は右手を抱え込む様にしてよろめいた。
「葛彦、荷物を頼む」
梅若は崩れ落ちそうな道真を抱きかかえて、出口に向かう小道を辿り始めた。
「雷神の神威、疑う者は最早ございますまい」
梅若が語り掛けると、道真は僅かに頬を緩ませた。
「関白殿にも畏れを知らしめる事が出来た様だ。屋敷に帰ろう」
後に残った葛彦は、頬を涙で濡らしながら剣や箱を仕舞って行った。
「雷神様の神威疑う者あれば、次は儂が……儂が討つぞ」
蹴速麻呂はまだ意識を失ったまま、ぴくりとも動かなかった。
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