第八章:山籠もり

 其れからの三日間、梅一族は相撲勝負の支度に全精力を傾けた。


 道真に命じられた仕掛を準備し、万に一つもしくじりが無い様、何度も試しと手直しを繰り返していた。其れは夜も日も無い打ち込み振りであった。道真は屋敷に引き籠もり、奥庭で梅若と体裁きの稽古を繰り返した。


 足運び、掴み所、体裁き。舞の手を覚える様に、道真は梅若の精妙な動きをなぞって行った。


 三日目には、相手の虚を突けばどれ程の大男でも大地に転がせる技が身に着いた。


「心に置くべきは、力の向きと体裁きであるな」


 道真は納得した面持ちでそう語った。


「左様です。人の体には骨があり、筋があります。どのような力自慢でも手足は決まった向きにしか動きません。決まり所を抑えれば、必ず思いのままに倒す事が出来ます」


 梅若は庭の脇に控えて、言った。其の顔には満足の笑みが浮かんでいた。


「良し。いよいよ仕上げの時が参った。今日より山に籠もるぞ」

「畏まりました」


 道真主従は夜陰に乗じて、屋敷から姿を消した。


 道真は北野の山中に籠り、次の一日を雷神の技を身に着ける為に費やした。其れは修行と言うよりも苦行と呼ぶのが相応しい吾が身の責め方だった。


 道真は呻き声を洩らしつつも、己の体を虐め続けた。勝負の場でしくじりがあっては、全てが水泡に帰すのだ。


「主様、どうか御休み下さい」


 見かねた従者が涙ながらに止めたが、道真は聞き入れなかった。


「痛み等、何程の事があらん。下がっておれ」


 道真は髪を振り乱し、汗みずくに成りながら尚も修行を続けた。其の姿は正に雷神と呼ぶに相応しい気迫に満ちていた。


 遂に、十度仕掛けて十度、外す事なく技を使う事が出来る様になった。


「雷神の技、成れり……」


 道真はがくりと地に膝を突いた。辺りは既に薄闇に包まれていた。


「主様!」


 挑む様に叫んだのは、二間程先に仁王立ちした梅若であった。


「吾を蹴速麻呂と思うて倒して見られよ!」


 其の気迫は、容赦なく勝負を挑む者の其れであった。


 崩れ落ち掛けた道真は傍らの銅剣を拾い、無言で顔を上げた。頬はこけ、目は落ち窪み、最早殿上人の面影はなかった。


 骨を軋ませる様に立ち上がると、傍らの従者に剣を磨かせる。


 真っ直ぐ立っている事もままならず、体はゆらゆらと揺れていた。一瞬、気を失いそうになったのであろう。がくりと膝が曲がったが、道真は唇を噛んで其れに堪えた。


 剣が磨き上がると、雷神は梅若の方へ向き直った。


 両眼は飛び出す程に見開かれ、総髪は逆立ち雷気を孕んでいた。噛み破られた唇からは血が滴っている。


「かあっ!」


 振り絞るような声を発すると、道真は銅剣をかなぐり捨てた。其のまま梅若を目指して、のめる様に歩き出す。

 後一歩で手が届くという所で、道真は足を止めた。梅若を睨み付けたまま、ゆっくりと右手を挙げる。


「——見よ」


 掠れ声が聞こえた次の瞬間。


「がっ!」


 短く声を上げた梅若が、後ろによろめいた。


 獣の様に道真が動いたと見えた時、梅若は地に倒されていた。


――――――――――


「お見事でございます。御神力確かに見極めさせて戴きました……」


 左肩を押さえながら、梅若は地面から半身を起こした。


 道真は技を遣った後倒れ込んだまま、俯せに横たわっている。びくんびくんと右腕が痙攣を続けていた。


「主様、お許し下さい」


 梅若は地面に額を擦り付けた。


「……人の身で雷神に立ち向かえると思うか……」


 倒れたままの道真が呻いた。


「お許し下さい!」


 自分が責められたと思い、梅若は更に額を地面に擦り付けた。


「例え関白と言えど、人の身に過ぎず。天道を妨げる者あれば雷神是を討つと知るべし……」


 そう言うと、道真は完全に気を喪った。

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