第30話 森の民、叡智の民

 リューセドルクはユーラしか目に入っていなかったが、会場の特に令嬢は、異国の女の手を引く見慣れぬ長身の男性に釘付けだった。

 玲瓏たる美貌。細身だが均整のとれた体躯。光を閉じ込めたような金銀の髪は丁寧に編み込まれ、そこに誰も見たことのないほど大きな緑の宝石がひとつ飾られている。ユーラと同じ不思議なとろみのある布の衣装に、こちらは琥珀色の小さな石が規則的に縫い付けられている、その上に、厚みと光沢のある深紅の肩掛けを両肩にかけ、金地の帯で腰で留めていた。肩掛けの縁と帯一面に施された精緻な刺繍は、一国の主にも相応しい美事な品だ。

 二人とも、腕にはいくつもの細い金の腕輪を重ねて付け、耳にも小ぶりの金輪の飾り。

 異国の高貴なる人の、前触れもない出席に、会場のざわつきは大きくなるばかりだ。


 入場者の名を呼ぶ係のものが、手元に何の資料もなく、おろおろとしていた。

 招待主の王妃もまた、呆然と二人を見て、動けない。

 リューセドルクは、ユーラと早く正式に話したいばかりに、最速の道と察して、礼儀に乗っ取ってそこで待った。


 その時一番素早く動いたのは、その場の誰にとっても意外な、カンタスだった。

 有力な貴族家の者から短い待機時間で会場に入り、主催者に挨拶をしていく中、列の最後に控えめに入ろうと、ネクトルヴォイの三人は本来の入場の順番を辞退して、会場の入り口付近で静かに待機していたのだが。

 カンタスは、森の民二人の正装の手配を手助けをしたために、その異国の衣装や瑞々しさを失わない草花の髪飾りを目にする機会があったのだ。そのため、周囲よりも少し冷静だったのかもしれない。


 身支度のために部屋と人手を手配はしたものの、ユーレイリアが飛び込んできたために直接挨拶もできずにそのままとなっていた。会場の戸惑いはひどくなるばかりだし、ここは森の隣人たる領主の務めでもあると、挨拶をしに歩き出すためにそちらを向いた。

 それが、はじめだった。

 カンタスの背後にいたヘネが、夫の動きになにかを悟り、あれがユーラね、と呟くや、取り憑かれたような顔をして走り出したのは、その次の瞬間だった。

 咄嗟に、カンタスはその前に飛び出した。ヘネの鋭い爪が、カンタスの首を引っ掻き、三本の赤い筋を作ったが。カンタスはただ無我夢中で、妻の細い肩に回した手でその口を塞ぎながら床に押し付け、自分もまた、頭を深く下げた。

 会場のざわめきが、ぴたりと止んだ。


「これは、カンタス殿」


 不穏な気配に気づいたリューセドルクが奥から駆け出す前に、ケールトナがカンタスの名を親しげに呼んだ。

 カンタスとヘネは、ふたり、入り口近くの混み合う位置にへたり込んでいたが、その周辺からさっと人が退いたために、異国の高貴な二人とともに取り残されたのだ。


 割れ鐘のようにカンタスの心臓が鳴る。だれにも、首元の傷に気がつかないで欲しかった。今、ヘネの粗暴な振る舞いを責め立てられたなら、もう、自決して詫びる以外には手段が思いつかなかった。

 酸っぱい汗をしとどに描き、首元からは血まで流しながらも、震える腕でしっかりと自分を引き寄せるカンタスに、ヘネもまた怒りを削がれ観念したように、力なく平伏した。


「ユーラ、彼がカンタス殿だ。親愛なる隣人。心優しく誠実な友」

「まあ、初めまして、親愛なる偉大な隣人、カンタス殿」


 今は王族も普段使わない大仰な言葉使いは、二人が紡げば、あるべき姿にしか思えない。

 ユーラが身軽に進み出て、伏せたままの二人に近づいてくると、やわらかに手を述べて頭を上げさせた。その時に、さっと動かされた指の先がカンタスの首の傷を軽くなぞったのを感じた。

 ヘネがこちらを見て驚いているのが横目に見えた。あれほど熱く感じていた首元に、違和感がない。なにか、森の技をもって傷を塞いでくれたのを感じて、カンタスはその奇跡に、抗うすべもなく嗚咽を漏らした。


「まあ、泣かれてしまうと、私も嬉しくて泣いてしまいそうですわ。森の民は穏やかな時を送るので、変化に乏しいのです。私と同じ年頃の子供もいませんでしたから、カンタス殿が贈り物にご令嬢とお揃いのリボンやレースや、お絵かき道具を入れてくださって、私、とても感激したことを覚えておりますわ。お礼に絵をお送りしたのだけれど、思えば子供の落書きでしたわね。お恥ずかしいわ」


 ヘネの目が、限界まで見開かれて、それから、カンタスと似たところのない異国のユーラを見比べて、それから。


「あれはお可愛らしい絵でした。今も私の執務室に飾っております。僭越ながら娘のユーレイリアの絵と並べさせていただいておりますとも」

「恥ずかしいけれど、嬉しいわ。ご令嬢はとても絵が上手だと、お手紙で拝見しましたもの。いつもご家族の話をたくさん知らせてくださるから、ご家族三人を想像して描かせていただいたのだけど。懐かしいこと」

「本当に。娘ももう大きくなって、母親によく似て参りました」


 嬉しげに話すカンタスを見るヘネの顔から、拭い去ったように、険しさが消えている。

 そしてユーレイリアは、自分がずっと何を求めていたのか、はっきりと知ることができた気がした。

 並んで立つ、父と母、そして真ん中に子供。カンタスの執務室に飾られた、愛人の子供の絵には、家族が揃っていた。自分の家族はバラバラなのに、どうしてだろうと、何日も夜眠れなくなった。あの憎たらしい絵の中の、腹立たしい家族の在り方が、欲しかった。

 あれが、まさか、ユーレイリアの家族を描いたものだとは!


「森の恵みには、お気に召したものはございまして?」

「ああ、あの、暖かな赤い石は、凄いですなあ。長年の腰の痛みが軽くなって! 妻の寝台にも忍ばせたら、冷え性が良くなったようです。中でも一番大きなものは、陛下に献上いたしました。……おお、もしかすると、今この会場が心地よい気温に保たれているのは、そのおかげかと」

「良きこと。あなた方の幸せにいくらかお役に立っているのなら、私たちも誇らしいですわ。

 多くの森の民の父祖は、もう森を離れることはできず、直接あなたとお会いすることも叶わないでしょうけれど、森はすべて繋がっております。原初の森の恵みは、いつでもあなたたちとともに。

 今後も、森はネクトルヴォイのカンタス殿とご一族を、親しき隣人としてお付き合いさせていただきたいと存じておりますの。森の長が娘として、よろしくお願いいたします」


 話を漏れ聞いた客たちがひっそりとざわめく。きっとこの会話は、風のような速さで会場中に伝わるだろう。カンタスは、最大限の感謝と敬愛を込めて、深々と礼をした。

 ユーラはこの対面で、カンタスにとっての最悪の事態を回避してくれたばかりでなく、森の民が英知の民と呼ばれていた記憶を人々の中に掘り起こし、その上で、森と親しくする窓口としてカンタス本人とその家族の身を安堵してくれたのだ。

 頭を上げることのできないカンタスの横で、ヘネが、そしてユーレイリアが、静かに深く、頭を下げた。


「さて、姪は王妃陛下にお招きいただいたというので、そろそろ挨拶に伺わねば」

「そうね、失礼いたします、カンタス殿、奥方、ユーレイリア嬢も」


 ゆったりと礼をとって、優雅に会場の奥へと歩を進める二人を、さきほどまでとは違う、じっとりと粘るような数多の視線が取り巻いた。

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