第21話 兄か父か、母ほどに

『ねえ、ケールトナ、お祖母さまはどんな方だった? つまり、ケールトナのお母さんとして』


 竜の高台で地べたに座り込み、ガゼオの餌にと茸をザクザクと刻みながら、ユーラはふと、乳鉢でごりごりと染料の実を潰している隣の叔父に聞いてみた。


『ああ、ユーラは会ったことなかったか。母さんは姉さんと同じで、眠りの波長に同調しやすいからな。まともに起きているのを見たのは、俺も旅に出る前かな』

『そうね、眠りながら子守唄を歌ってて、それでまた深く寝ちゃうって聞いたわ。その歌はね、聞いたことある』


 森の民には、時間が緩やかにしか流れない。始祖の竜に付き従い、その眠りを守るためだとも言われている。ただし、人の心身はその悠久の流れに合わないのか、年齢を重ねた者の多くは森と融合するが、中にはその意識まで森に溶け、夢現になる者もいる。

 心身すべてを森に明け渡した彼らは、風が葉を揺らす音で挨拶をし、木の実が転がる音で笑い、地肌の温もりで抱きしめてくれるので、いつも一緒にいる感覚だ。

 つまり森の民は、人とは異なる。元は人であったのか、山を越える前から、異質な存在だったのか。おそらくその辺りの真実は、森と人の国とで伝えられる昔語に、差として表れているのだろうが。


 ともあれ。

 引き伸ばされた時間を、穏やかに、始祖の竜の眠りを守る一族。

 彼らの日常には変化は乏しく。だから、赤子が産まれるということを誰一人想像もしておらず、ユーラの母が身籠った時、父は事態を理解するのに一週間物を言わなくなったそうだし(これが母との20年間の大喧嘩に繋がる)、ユーラの産声が上がった夜には、森の隅々まで激震が伝って人の国も大騒ぎになったという。

 ちなみに、ケールトナが産まれたのは森に国ができてまもない頃だ。まだ、森の民は人の感覚を持っていた。


『ユーラはいつごろから記憶がある?』

『うーん、ケールトナが一度、北の森の知り合いに会いにいくって出かけたのを、泣いて怒ってたのは、覚えてる。それが私の最初の記憶、かな』

『……10年前か。そっか、お前、ちびっちゃかったのにな』

『そんな小さいのに、置いてくからよ』

『あんときはな。悪かったよ』


 子供時代の長い森の民として、幼いユーラが拙いながら、自分で食事をし、水浴みをして、朝まで眠れるようになるのに、20年かかった。そのころ、放浪癖を抑え込んできたケールトナの我慢が限界になり、膝にしがみついて泣き喚く幼子を置いて出かけてしまった。

 言い訳だが、それまでの20年間、緩やかに成長するユーラにびっちりと付き合っていたケールトナには、一時たりと休みはなかった。ユーラの世話はもちろん、森の中のいろいろもあって、眠る時間もないくらいだった。自分の身繕いも後回し、まともに話せる相手との会話もなく、ただ日が昇り、沈むのをどこかで感じながら、ただ同じようなことを繰り返すだけの生活は、いくらなんでもきつかった。

 そこに、ふと目を覚ました森の年寄りが、なんじゃ、とケールトナに言ったのだ。まだ伴侶も見つけられずふらふら遊んでいるのか、と。

 それに、ケールトナは切れたのだ。


『結局、夜に帰ってきてくれたのも、覚えてる』

『……ほんとはすぐ帰ったんだけどな。お前が俺を追いかけて、迷子になってた。俺も迷ったし』

『うそ!』

『ほんと』

『うそよお。私たちが森で迷うわけがないじゃない』

『ははは! 騙されないか』


 本当だ。あの時、夜の森で、小さく丸くなって落ち葉に埋もれて眠る塊を見つけて、ケールトナは安堵で腰を抜かした。

 煮えたぎった頭で出奔したものの、ユーラの泣き顔がチラついて、半刻もたたないうちにくるりと引き返したケールトナと、ケールトナに振り切られたのに諦めずに、めちゃくちゃに走り続けたユーラと。

 二人を見て、寝ていた森の民も、わずかに起きていた森の民も、森全体が、動転した。らしい。後でケールトナが聞いたところによるとだ。ユーラはもちろん、ケールトナも、彼らにとってみれば幼子だった。その二人を、ただ二人きりにして任せきっていた問題に、気がついたのだという。

 甘えてしまっていたと、皆がおいおいと泣きながら右往左往したので、当然、森は大混乱に陥った。森の秩序は失われ、ユーラは道を見失い、ケールトナはユーラを見つけるまで散々彷徨うことになった。


 以降、森の大人たちは密かに覚醒当番表なるものを作成し、ユーラが成人するまでの間、ユーラの父をはじめとしてある程度の人数が常に覚醒し、ユーラとケールトナ、一族の子ら二人をしっかり見ることを決めた、らしい。

 おかげで、以降はまともな文化的生活とやらになったと思う。


 余談だが、このとき、幾つもの沼や池や大木が移動し、獣たちも魔物たちもその棲家を変えることとなり、森の様相は大きく変わった。それを知らない使者たちが道に迷い、これまで出会わなかった危険な目に遭うことが度重なったので、森の隣人たちとのやりとりも、手紙と物だけのやりとりになった。


『俺も記憶があるのは20歳以降ってとこかな。そのころは、まだ俺の母さんも、眠っていなかった、はずだ。うっすら頭を撫でてくれた手を覚えてるな。けど、他はもう忘れたなあ。母さんといえば、あの溢れそうなほどに咲く白い花だ』

『あそこで昼寝するの、ケールトナお気に入りだもんね』

『うっせえな』

『いいじゃない。私のかあさまは、いい匂いがして、綺麗な声。あと、薄紫色の花。とうさまと仲良しよね。とうさま、いつもかあさまの横にいるし。この前、時間を置いて見に行ったら、すこーしずつかあさまの周りを移動してるの。何してるのかな、と思ったら、とうさま、かあさまの花に日が当たりすぎないようにお日様に合わせて移動してたのよ』


 茸を刻んだ葉と混ぜ合わせ、木の実も和える。竜は森のものならなんでも食べられるはずだ。好き嫌いはあるかもしれないが。まあ、求婚の成功のため、可能な限り摂取してもらおう。


『私はそういう、穏やかに想い合うのが心地よいと思うの。親子でも、夫婦でも。でも、本とかでは、人の心って、もっと熱くてどろどろしてるわよね。森のおばさまたちも、きっとユーラも燃えるような恋をするぞ、って、よく言っていたけど。あ、始祖様も』

『いらんこと言うな、あの人たちは。って始祖様も?』

『大丈夫、どちらも根っこは同じ、相手を大事に思うことだってわかってる。王子も、王妃さまも、周りの人たちも、まるで叫んでるみたいに、誰かのことを思ってるのよね。それを感じると、心が震えるわ。——でも、やっぱり私とはどこか、感覚が違うように思えて』


 これほど静かに話すユーラは、今までのケールトナの長い記憶に一度もない。


『だから、もし人の夫婦そういう熱いものなら、私は、一生理解もできないかもしれない。それなら対の星であっても、夫婦じゃなくてもいいかなって、思って』


 ケールトナが手を止めた。ユーラが覗けば、乳鉢の中身が真っ白で均一になっていた。早い。ケールトナは口は悪いが、染料作りでは森の古老も認めるほどの腕だ。なぜか、伸びの良さも、発色も違うのだ。

 それを目の当たりにするたびに、首を傾げてしまう。作業は丁寧的確にできるのに、なぜケールトナの居室は、いつもぐちゃぐちゃなのだろう。


『……で、今夜はどの紋にするんだ? そういえば、俺は染料は作れても、描くのは得意じゃない』

『雪解けの山の陽の雄鹿』

『う、お、ま。本気か? 最高難易度かよ』

『大丈夫。写し布を持ってきたから。私が描く。腕だけにしておくし。ね、貼るのは手伝ってね』


 騒ぎながら竜舎に移動すると、竜番たちが駆け寄ってきて、作業を手伝ってくれる。誰もが、こちらを煩わせすぎないようにと最大限の配慮をしながらも、竜に関するあらゆることを学び取ろうとじっと見つめてくる。


「これ、ガゼオのごはんに入れてくれますか? 体の調子を整えて、いい香りもするキノコ。あ、でも、人は食べてはだめ」


 と言えば、我先にと受け取って、ガゼオの元へと持っていってくれた。


「じゃあ、俺は先に部屋に戻って、衣装の確認でもするか。念のため持ってきてよかったな。取り寄せるものが少なくて済んだ」

「ガゼオにもう一回蜜を塗ったら行く」


 了解、と軽く受けて歩き出したケールトナが、ふと立ち止まって、戻ってきた。

 

「おいユーラ」


 その表情は、形容し難い、むず痒いのを我慢するような変な顔で。

 何か悪いものでも食べたのだろうか、と訝しんだが。


『お前、さっき言ってた紋、なんで選んだ? 時間がかかって複雑で、典雅だとは思うが、特に花もなく彩りもない』

『それは……だって、そういう印象だったから』

『そうか?』

『うん。王子の蒼い目を初めて見たときに、とうさんが昔見せてくれた呪歌の幻景を思い出したのよね。雪が一面に積もって、氷でできたような木が立ち並んで、目が眩むほどに白い原野の上に広がる空みたいに、青いな、って。そしたら、王子の立ち姿も、しなやかで優美なのに力強くて、本当にあの呪歌に出てきた霊獣の雄鹿のようで、目が離せなくなったの。

 その後はまた印象が変わってきたけど、なんだか、私、あのときの王子を、一生忘れられない気がするわ』


 目を閉じて、思い返す。

 実際のところ、あの時はリューセドルクもガゼオを止めることに必死で、優美に見えたのは大いに偏った見方だということはわかっているが。

 あの時、彼の存在を知って、ユーラは体の芯が痺れるほどの衝撃を受けた。幼い頃に、父の子守唄を通して、山脈の向こうにあるという未知の壮大な景色を幻視した時。あるいは初めて森の竜の脚にぶら下がって飛び上がり、夕日に照らされる広大な森が静かに闇に沈むまで、空から飽きずに見つめた時。そんなときに味わう、胸の奥を掴まれるような感覚に、それはとても似ていたのだ。


『気高いのに泥沼に立って、不器用なほど真摯に困難に向き合っている在り様が、美しくていつまでも眺めていられるし、守るためにできることを何でもしたいと思ったの。だけど。それって、やっぱり、人の恋とは違うわよね』


 どことなく気落ちした様に呟いていたが、ユーラはすぐに、ぱっと笑った。


『でも、私からは手放さない。きっと彼を守って、ずっとそばにいられるようにする。形は、どうでもいいわ』


 まずはガゼオを完璧に仕上げないと、と腕まくりをする。ふと、ケールトナから何も反応が返らないことを訝しんで、兄か父か、はたまた母ほどに近しい叔父を見上げた。

 ケールトナは、眉を上げているのに半目になって、はあ、とため息をついていた。理由はわからないが、なんとなく呆れている……? なぜか不愉快になって、ユーラは口を尖らせた。綺羅綺羅しい髪に藁くずがついているのを、言わないでおいてやる。


『なによう』

「いやいや、なんでもないぞ。超絶余計なお世話と知りながら行き違いがないように気持ちを自覚する手助けをしようかなと口を出したけどやっぱり道のりは遠いと思わせておいて……、きっとあっという間なんだろうな、と……」

『何言ってるの? 口語は早すぎるとうまく聞き取れない。あっという間に、何?』

「慣れればすぐさ」


 叔父が人差し指で、額をつん、と押した。

 ユーラは笑ってその指をはたいて、そして二人、それぞれの作業に向かって別れて歩いた。

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