第19話 寝た子を起こす
思い立てば、メイベルは、いてもたってもいられなくなった。
閉まった扉を鼻で押し開けようとすると、なぜかするりとすり抜けることができた。考えたくはないが、魔◯のキノコになっているから、だろうか。
そのまま城の人間たちの目を盗んで、竜舎まで走った。竜を毛嫌いしていたから昨日まで足を向けたこともなく、存在すらあやふやな場所だったが、どうしたことか、魔キノコだからか、風のように軽く駆けて瞬きの間に着くことができた。
「あ、王妃さま」
男が身につけるような足履きを履いた上にそれを膝まで捲り上げ、ユーラは赤翠の竜に、なにやら金色の薬液のようなものを塗りつけていた。
巨体ゆえに、かなり重労働なのだろう。滴るほど汗をかいて、ほつれた髪が顔にも首にも張り付いている。ふわふわした髪が濡れて体に沿うと、美しい金の煌めきが目立った。
なぜかドギマギしてしまって、メイベルは悔し紛れにぷひー、と鳴いた。
『は、はしたない!』
「大変お目汚しを。でも、他の方にはご遠慮いただいているので、見られておりません。問題ございません」
『なんで昨日と話し方が違うのよ』
「森で習った言葉が少し古風でしたので丁寧すぎて聞こえるようです。昨日の様に今時の話し方で話すのは、まだ拙いのですが。——こちらがいいなら、そうする」
とたんに、衣服も相まって、少年ぽさが増した。少年ぽさと言えばまだ聞こえがいいが、要するに粗野なのだ。
そうか、田舎の森から来ているのだ。言葉も礼儀もまるで知らないのだろう。いきなり王太子妃に選んで大丈夫だろうかと不安を覚えたが、城に来たら自ら厳しく躾ければよいと思い直した。
『ちょっと、姿を戻してちょうだい。夜には宴が開かれるのよ。リューセドルクの、妃を決めるための宴よ』
「うーん、もう少ししたら自然に戻ると思う。夜の間に戻っていると予想してたけど。意外と、王妃さまは森の気に馴染んでる」
あえて「リューセドルクの妃」ともったいつけて言ったのに、小娘は違うところに返事をして、メイベルの脇を持ち上げた。
『ちょっと、何か手についてる! 付いちゃうわ』
「あ、ごめんね。大丈夫、森の花蜜だから。食べる以外に、体に塗ると、艶々になる」
『あ、あら……』
この時、なぜ少しでも喜んでしまったのか。メイベルは後で歯軋りしたものだ。確かにいい匂いかな、と鼻を鳴らしてから、はたと本来の目的を思い出した。
抱えられているのをいいことに、短い首を伸ばして、思い切り上から言ってやった。
『貴女、竜なんかの世話じゃなくて、自分の身支度をしなさいよ。何度も言うけれど、宴は今夜よ』
「さっき聞いたよ。でも私は別に」
『まあ! 別になんて、なんだか生意気ね。でも特別に招待するから、おいでなさい。綺麗にしてくるのよ」
「そう? 王妃さまが招待してくれるなら、礼儀にかなうから参加しようかな」
そうそう、その場で、うまく間を取り持ってあげようではないの。
メイベルはぷひぷひと笑い声を上げると、じたばたと暴れて、ユーラの手から逃れた。くるりと背を向けて。
駆け出す前に、短い尻尾越しにおずおずと振り向いた。こういうことは、逃げていてはいけないのだ、と少し格好つけながら。
『この姿は我慢ならないけど、リューセドルクのことは、知れてよかったわ』
ありがとう、と小さく呟いて、短い足には到底不可能なはずの速さで、再び竜舎を後にした。
時間が来たら姿が戻るのであれば、どこか、人に見られない場所で過ごしておかなければならない。自分の部屋には、召使いたちの目を盗んで入ることは難しいだろう。
メイベルは考えた末、王家の庭に行くことにした。
王家の庭は、庭と言いつつ城の露台に小さな温室を設置したもので、構造物に阻まれて外から見えにくく、その名の通り、庭師以外は王家の者しか立ち入ることができない。今は誰もそこに関心を向けることなく、忘れ去られた場所だ。
『一応、求婚の思い出の場所なのだけどね』
ぶっすん、と鼻を鳴らす。
当時は、世継ぎの王子に見初められて、恋に盲目となり、幸せしか感じていなかった。そんな甘い時間を夫である国王と過ごしたのは、はるか昔のひと時だけのこと。すぐに周囲に諭されて、現実を自覚した。
王子は身分に相応しく華やかな女性遍歴があり、王となり夫となってもその癖が抜けることはなかった。
愛されたばかりに王妃となった娘がその最大の武器である国王の寵愛を失えば、古来大した功績もない家柄出身の弱い立場と、王妃としては足りないことだらけの己の知識、教養、人脈の程度を思い知るのも、すぐのことだった。
過ぎ去った蜜月を切なく思い出す時期はとっくに過ぎ、今は国王とは事務的な話しかしない。メイベルが国政に関わることも少ないので、そもそも話す機会があまりないが。
どんな顔をしているかも忘れそうよ、と、意外と荒れていない庭で、一番好きな花の近くにちょんと座った時。
がし、っと腹を掴まれて、そのままひっくり返され、上下逆になったまま、腹に硬いものを当てられてぐりぐりと押し付けられた。
『い、いいいい、いやーーーーー!! 何?何?何?』
命を鷲掴みにされているような恐怖に、ぴん、と四肢が硬直した。
必死で目を押し開いて見れば、地面が下にある。そこに、靴がある。男物の靴だ。見事な仕立ての優美な靴。だが、室内用だ。ひらひらとした服の裾には金糸の刺繍が控えめに入っている。よいものだが、それもきっと室内用だ。
そのあたりで、この男が誰か、メイベルにはわかった。
『変態!変態よね! 私、今、子豚、いえ、ビットンよ!』
喉が涸れるほどに叫んでも、お構いなしだ。腹筋が締まったところにさらにぐりぐりされるので痛い。
そして、怖い。怖すぎる。鼻息が、うるさいし!
『やめて! バカ! 夫だからと妻を逆さ吊りにして痛めつけていいはずがないでしょう! 離して!』
「メイベルの匂いがする。いや、花の匂いか? いや、これはメイベルだ」
『……』
「そんなはずはないな。メイベルは子豚ではない」
『……ひっ』
くるり、と上下を返されても、メイベルは引き攣った声しか出せない。
肩幅も背丈もリューセドルクより大きな、がっしりとした男は、確かにメイベルの夫であり、この国の王だ。髭もあたる前の、起きたばかりに靴をつっかけてきたかのような寝乱れた様子は、いかに麗しいと言われる国王であっても、ただのくたびれた中年男でしかないが。
じっと見つめられて、メイベルのまあるい頭のキノコが、しゅわ、、、と干からび始めた気がした。
「メイベルではないな。しかし、よい匂いがするな」
『な、何言って! 私に興味なんかもうないでしょう! 具合悪いって言いながら、かわるがわる側室候補の未亡人を部屋に入れてるって聞いたわよ! さ、わ、ん、な、い、でよ!!』
ぶいぶいと、シーツの跡のある髭だらけの顔に蹴りを浴びせようとするが、足が四本とも短すぎて、届かない。
「噂ばかり信じて浮気をしていると思い込み、何度説明しても信じてくれない妻に、無理強いをしたくなくて好きにさせてきたが。リューセドルクも妃を探し始めたことだし、もういい加減にして儂を見よと言いたいのだ」
(この人、この子豚を私だとわかっているの? それとも一人で呟く癖がついた……?)
胡乱な目で夫をかん申していたメイベルは、そのせいで逃げるのが一足遅くなった。
「メイベルの匂い……」
ふたたび押し付けられた硬いものは、王の鼻だった。ぐっと腹に沈むほどに押し付けてきて、小さな子豚の顎の下に髪の毛がきて、あちこちもう、どうしようもなくこそばゆいし、痛いし、なんだか切ない。
『ひっ! ちょっと! 妻だからって女性の匂いを嗅いでいいはずがないでしょう! 離して! しかもビットンなの、今はビットンなのよ! 私ならなんでもいいっていうの!? 変態! 変態いいいい』
そのまま、子豚、が王の部屋に連れ込まれたのを、王の侍従は見たのだが。
常にない上機嫌な王に、そっとそのまま持ち場に戻ったのだった。
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