7.魔王、滑る


 しゃらしゃらと氷上を滑る音。

 ゼレウスが眠っていたダンジョン、その浅層にて、凍り付いた地面を滑る人影があった。


 浅い階層であればダンジョン内でも樹木の姿は見られる。

 ただしゼレウスが安置されていた場所にあった草花と同じく、その葉の色は蒼い。

 さらに、地下ゆえに上を目指しても太陽には近づけないため、枝葉は主に横に伸びる傾向があった。


 蒼い葉がざわざわと蠢く。

 背が低く、地面とほとんど平行に伸びるその枝葉から、同じく蒼い羽毛の鳥がその大きな目を覗かせた。

 黄金の瞳が昨日ぶりの来客の姿を映し込む。



「なるほどな! これが『あいすすけーと』! なかなかに爽快ではないか!」


「筋がいいねぇゼレウス! そのまま回転ジャンプしてみてよ! クルクルクルって!」


「いいだろう! 見ていろ!」


「ちょ、それ危な──」


「ぬおぉぉおおおっ! いくぞぉお!!」



 氷上を高速で滑るゼレウスが、その場を飛び立つ。

 彼の卓越した身体能力が空中での姿勢を完璧に制御した。

 そのまま力任せにギュルギュルギュル!! と回転したあと、その足先が再び氷上に着き、そして……つるーん! と滑って転ぶ。

 ゼレウスの身体は回転の勢いそのままに倒れ込むが、背から突き出したフュージアの剣身が氷を削りながら、その回転をよりアクロバティックにした。



「ぬぅおぉおおぉおッ!」



 ゼレウスの身体能力が高すぎたためだろう、強すぎた回転の勢いはその身体を何度か跳ねさせながら木の根元へといざなった。

 ドシン! とぶつかった衝撃で木の葉がひらひらと舞い落ち、それに追従するように、蒼い羽根を持ったフクロウの魔物が姿を見せる。

 倒れ込んだゼレウスの顔を、その大きな瞳が覗き込んだ。



「おぉ、驚かせてしまったか? すまないな」


「惜しかったね~! あと着地だけできてたらなぁ~! フーちゃんは危ないから木の上にいてね!」



 フクロウは一つ鳴き声を上げて了承を返すと羽ばたき、再び木の上へと戻った。

 『フーちゃん』とは、フュージアが付けたフクロウの魔物の名前である。『フーちゃん』と『フューちゃん』でお揃いだね! とはフュージアの談だ。


 冒険者ギルドを出てから、ゼレウスたちは再びこの‶朱沈む地底〟へと戻ってきていた。

 ある程度潜った所で何体か魔物を討伐し、利用可能な部位を剥ぎ取って帰ろうとした時、あのフクロウの魔物と再会した。


 彼は見逃してもらったことを理解しているのか襲ってくることはなく、こちらの出方を伺っているようだった。

 魔物の素材目当てに来たゼレウスたちだったが、もう充分な量は稼げているため戦う理由はない。

 そんな状況の中、フュージアが唐突にフクロウへ親しげに声を掛けたあと、ゼレウスとエレイナにこう提案してきたのだ。

 ねぇ、アイススケートしない? と。



「ねぇー! 危ないよー!」



 ゼレウスが転がったせいですっかり遠ざかってしまったエレイナが、大声を上げてゼレウスの挑戦を止めようとする。



「大丈夫だエレイナ! 今度は転がらないようにする! 約束しよう、お前を傷つけることは万が一にもないとな! ふははははっ!!」



 エレイナは「いや、あたしじゃなくてさぁ……」と呟くが、彼を心配していると伝えるのはなんだかしゃくだったのでそこで閉口する。

 薄々感じていたことだが、ゼレウスはアホだ。

 止めても無駄だろう。

 エレイナはため息をつきながら、仕方なくアホを見守ることにした。



「いくぞぉぉおぉおおおッ!!」



 再び加速したゼレウスが飛ぶ。

 重要なのは力加減だ。

 先程は回転を速くしすぎた。

 姿勢を整え、斜めに着地する。

 フュージアいわく、それが着地のコツらしい。かつて勇者たちがアイススケートをした際、無数の試行錯誤の末にその結論に辿り着いたのだとか。

 といってもそれは試行錯誤というより、簡単には怪我をしない強さをってただ遊んでいただけだったらしいが。


 空中で腕を組んだゼレウスがクルクルと回転する。

 さっきよりは控えめな回転数。

 背中から伸びる剣身が白く輝く軌跡を描いた。

 完璧な姿勢制御。

 斜めに着地。

 そして……ゼレウスは足を滑らせた。


 なぜかずっと腕を組んだままのゼレウスは回転の余韻を残しつつ背中から倒れ込み、そのままフュージアの切っ先がえぐり込むようにして地面へと突き刺さる。



「よし!!!」



 斜めになっているゼレウスが満足げに言う。

 「何が『よし』なの?」と、遠くから声が聞こえた気がした。



「完璧な着地だったよゼレウス!!」


「そうだな!! ……む? 足が滑る……立ち上がれんぞ! 助けてくれ、エレイナ!」


「はぁ~~~~?」



 斜めになっているゼレウスがシャカシャカと両足で地面を蹴ろうとするが、ツルツル滑って起き上がれない。



「こっちに来て足元の氷を溶かしてくれるだけでいい! 頼んだぞ!!」


「……っ」



 エレイナの額を汗が流れる。

 外は暖かいが、ここは地下だ。元々の涼しさに加えて、フクロウの魔物……フーちゃんによって展開された氷の床のせいで、少し肌寒いくらいである。


 この汗は暑さゆえではない。

 足が震える。

 エレイナは一歩踏み出そうとしたが、足を滑らせる自分を想像するとつい及び腰になる。



「……あれ? エレイナちゃん、なんかプルプルしてない? ……そういえばフーちゃんに氷の靴を創ってもらってから、一歩も動いていないような……」



 フュージアが呟く。

 ゼレウスとエレイナの靴底にあつらえられた、氷のブレード。

 フュージアがその形を教え、ゼレウスがそれを壁に描くことでフーちゃんに伝えて創ってもらったものだ。


 氷の床を展開してもらってから、ゼレウスは何度か転びながらもすぐに滑り出していたが、エレイナはずっと立ち止まったままだった。

 彼女は結構クールな部分があるようで、子どものようにはしゃぐゼレウスを見て逆に落ち着いてしまったのかもしれない。

 と、ゼレウスたちはそう思っていたのだが……。



「どォしたことだァーッ!? エレイナ選手、動けない! 動けなァーいッ! これは大波乱の予感ッ! ワタクシの短き実況人生でも初めての経験ンン!! 物理的に斜に構えるゼレウス選手の腹筋は、はたして持ちこたえることができるのか!? 注目の一戦です!」


「う、うっさいなぁ!! 何それ! どこで覚えたのよ! ああもう、やってやるわよ!」



 からかいを多分に含みながら上げられたフュージアの大声に応えるように、エレイナも同じく文句を叫ぶ。

 やけになった彼女は、勝算のないままに一歩踏み出すことを決意した。



「落ち着け、エレイナ! 重要なのは重心移動だ! 右足で蹴り、前に出した左足に重心を移す。逆もまた然(しか)り! 頑張れ! 頑張れぇぇえ!」


「応援すんな! アホ!!」



 一歩踏み出せない理由は羞恥にもあった。

 すってんころりんと自分が転ぶ様を見せるなど、彼女のささやかなプライドが許さなかったのだ。

 つまり、エレイナには確信があった。

 『一歩踏み出したら、絶対滑って転ぶ』という確信が。


 氷を魔法で溶かして進むという選択肢も当然ある。

 が、それをするということはできないのを認めることにほかならず、そもそもこの程度のことに貴重な魔力を使うのはあまりにも馬鹿馬鹿しい。

 エレイナは覚悟を決める。

 そしてゼレウスの言うとおりに一歩踏み出してみると……意外にもすんなりと進むことができた。



(わっ……)



 エレイナの艶やかな唇が、驚きと興奮に小さく開かれる。

 今年で十九になる彼女だったが、まだしっかりと残っている童心が少しだけ胸を高鳴らせた。

 しかし、興奮した幼心が知らぬ間に危険へ足を踏み入れさせるのも、ままあることである。

 予想外に上手くいったためかエレイナのテンションは少々過剰に上がり、もっと加速してみようと考えた彼女は、数歩目を踏み出した際に重心を強く移動させてしまった。


 踏み出した足へ過剰に籠められた力が、ほんの一歩前には捉えられていたはずの重心の芯をずらす。



「──ぁ」



 後悔した時にはもう、エレイナの身体は宙を浮いていた。

 しかしその瞬間、轟音がダンジョン内に響き渡る。

 身体に柔らかな衝撃。

 気づけばいつの間にか、エレイナの身体はゼレウスの腕に抱きかかえられていた。



「大丈夫か?」



 ゼレウスの背後には砕けた氷の地面があった。

 彼はあの一瞬のうちに地面へ向けて踵落としを放ち、氷が砕けることで現れた地面を蹴ってエレイナのもとへと駆けつけたのだ。


 肩に優しく回された、大きな手。

 しなやかな長い指に少し骨ばった部分のあるその手は、エレイナに彼の男性らしさを意識させる。

 肩を支える手は控えめに、壊れ物を扱うかのようにさりげなく、いやらしさを感じさせない。

 ロマンチックな状況といえるだろう。

 ……エレイナの頬にグイグイと当たる、フュージアの柄さえなければ。



「ぅぐ……痛いんだけど」


「おぉ、すまんな。立てるか?」



 体勢を持ち直したエレイナは、ゼレウスの胸を押しながら離れる。

 一応、礼は言っておかなければ。



「……ありがと。でもそんなことができるんなら、最初から呼ばないでよ」



 思わず憎まれ口を叩いてしまう。

 しかしゼレウスはやはり気にする様子を見せなかった。『せっかく助けてやったのに』とか思わないのだろうか、彼は。



「せっかく我が配下、フーちゃんが創ってくれたからな。あまり派手に壊したくなかったのだ」


「ごめん、エレイナちゃん! ボクがいなければロマンチックな感じになってたのに!」


「な、ならないですけどっ!?」



 小さく高鳴る胸の音が、エレイナに強い否定の態度を取らせた。


 背中で護ってくれる人に憧れる。

 そんな幼い乙女心が、さっきの状況にちょっと、いや、それなりに反応してしまっているのだ。

 悔しいので絶対に悟られたくない。

 というか、抱きかかえると剣の柄が頬に当たるとかありえないだろう。

 そんな状況でも多少ドキッとしてしまったのは、もっとありえない。



「しかし最初は上手く滑れていたな。もう転ぶこともないのではないか? もう一度やってみよう。怖いのなら、我の手を持っていてもいいぞ」


「…………」



 そう言って彼は両手を差し出した。

 不遜に笑う彼だが、フュージアのようにからかうような雰囲気はまったく感じられない。

 しばしの無言。

 いつもお喋りなフュージアが黙りこくっているのは、空気を読んでいるつもりだろうか。

 エレイナは反転し、ゼレウスに背を向けた。



「お断り。あたしは一人で大丈夫だから」


「む、そうか」



 言葉どおり一人で滑り、ゼレウスから遠ざかる。

 主に弓を使う彼女だが、ある程度なら剣も扱える。運動神経には多少の自信があった。

 さっきのような無謀をしなければ、もう大丈夫。

 スイスイと、エレイナはひとり氷上を滑っていった。



「……邪魔しちゃったかなぁ~、ボク」


「さぁな。しかし……少し思考がぞくに過ぎるのではないか、フュージア?」


「えー、ボクってそうなのかなぁ。でも見てみたいんだよねぇ~、人が恋をするところ」


「……なるほど」



 人の身でないがゆえの興味なのだろう。

 ゼレウスは納得を返した。





  ◇





 冒険者ギルドへ登録をしなければ、魔物からぎ取った素材の売買はできない。

 あれからしばしアイススケートを楽しんだのち、フーちゃんに別れを告げたゼレウスたちは冒険者ギルドへ戻り、手に入れた魔物の素材を売却した。

 ちなみに、聖剣フュージアによって付けられたフーちゃんの傷はすでに癒えていたため、そこに懸念はない。

 酒場にてゼレウスが金の入った袋をエレイナへ手渡すと、彼女はその中を覗き込んで確かめる。



「これで借金は返せたな」


「なに言ってんの。利子が入ってないんだけど?」


「む? ……いや、それは教会が禁止しているはずだ」



 記憶を頼りに答える。

 八百年前の人族の社会では、同種族間での利子のやり取りが禁止されていたはずだ。

 魔族であるゼレウスには関係のないことだったが、今のゼレウスは人間のフリをしなければならないため、あえてそう答えた。

 幸い、エレイナは疑うことなく納得を示してくれる。



「あぁ、何年か前はそうだったんだっけ? でも、今は合法だよ」


「そう、なのか…………いくらだ?」


「ふ……あははっ! 冗談。利子なんていらないよ。騙されないように気をつけなよ、ゼレウス?」



 笑いながら、彼女はゼレウスの肩を拳の側面でトンと叩いた。



「…………フュージアが増えた気分だ」



 からかわれたことを理解したゼレウスが肩を竦めながら笑うと、彼女も小さく笑った。

 フュージアが「なんだよそれー」と文句を呟く。

 と、その瞬間。フュージアの声を覆いつくす大声がギルド内に響き渡った。



「ま、魔族が……! 冒険者の皆様! ‶魔王軍〟が現れましたッ!!」

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