彼女達は私にだけ、甘い笑みを浮かべる
FuMIZucAt
第一話
初夏、服の中がジトっと蒸ばむような季節。
「す、すみません! すみません!」
ミンミンと五月蝿い程に鳴く蝉達の声を遠くに聴きながら、私が頭を必死に下げる先には困ったように頬を掻く60歳ぐらいの女性がいて。
その中間では、電子レンジの熱で破裂した弁当が堂々とその姿を見せつけるようにして鎮座していた。
田舎の実家を飛び出し、はるばる東京まで出てきたものの、ここでは自分の事は自分で管理しなくちゃいけない。
掃除に洗濯、料理にゴミ出し。
全てお母さんがやってくれていたものを自分がやらなくてはいけなくなった時、ここまでお母さんの有り難みと頼もしさを実感した事は無い。
「誠に申し訳ございませんでしたぁ!」
幸いにも、女性が選んだ弁当は最後に一つだけ残っており、「ごめんなさいね、忙しいのに。でも、ありがとうね」と言ってくれた事には最大の感謝しかない。
それでも、
「はぁ〜、向いてないのかなぁ。このバイト……」
そんな溜息と弱音が出てきてしまう程には凹んでしまうものだ。
「すみません、お会計良い?」
「あっ、はい!」
とはいえ、落ち込んだ気持ちを他の客に向けるわけにもいかず、胸の奥に引っ張り込んで笑顔を貼り付けた。
それは私がバイトを繰り返す中で自然と身に付いた防衛の仮面のようなモノ。
それさえあれば、自分じゃなく演者になったように緊張しなくて済む。
けれど、そんな自信は振り向いた先で呆気なく音を立てて崩壊した。
シミ一つない白を基調としたシャツからは二つの巨峰が自らを主張し、固い印象を与えるスーツを完璧に着こなしていて。
スラリとしたモデルのように細い足腰と薄ら開かれた儚げな眼差し、艶々とした紅い口元は自然と視線を引き寄せる。
片手で耳に掛けた指通りの良さそうなサラサラとした黒髪も女の色気を意図せずに振り撒いている。
そして何より、微かに香ったフローラルな爽やかな匂いがスッと抜けていく感覚が全身に走った。
「あの、大丈夫?」
「は、はい!! 大丈夫です! あっ、お会計ですね!」
何故だか、突然襲った恥ずかしさや体の火照りが、身体を蝕み、身体がぎこちなく動く。
視線をずっと感じるし、もしかしてまた何かやってしまっただろうか?
「ふふっ」
笑い声に釣られ、チラリと視線を上に上げると女性は「さっきの見てたけど、めげちゃだめよ?」と小さく呟かれた言葉は前屈みになった拍子で見えたたわわに膨らんだ胸の谷間に目線がいきそうになった意識をぶっ叩く。
「っ! は、はい! ありがとうございます! あっ、こちら商品となりまふ!」
一瞬、時が止まった。
少し驚いた表情をした女性だが、私が急激な速度で顔に熱くなり始めると、「ふはははっ」と吹き出したように両手の指先を薄い色の唇に当てて、笑みを零す。
だが、私は文句は言えなかった。
その笑みがとても綺麗で可愛らしく、思わず見入ってしまったのだから。
「ごめんなさいね、あまりに可愛い事をしてくれるモノだからつい」
カフェラテとサンドイッチが入ったビニール袋が宙で右往左往する中、女性が受け取り――――、
「それに、女の子はどんなに失敗しても、好きな事の為に頑張る姿が一番可愛いんだから。ファイト、
涼やかな声色に混じった夏空の澄み切った青が私の胸を貫いていった。
*
「
「は、はい!!」
夏休みとはいえ、青春の欠片も無いこんなバイト三昧の毎日で良いのだろうか。
そんな不安感とも言える溜息を吐き出したのは、私が勤務するコンビニの裏口に出た時だった。
「はぁ~~~~、私の高校生活がなぁ~~」
そうは言っても、私が通っている学校は都内にある有名な女子校。
偏差値は高いし、大手や有名企業の社長令嬢も通うような進学校でもある。
何故、そんな場所に私のような田舎の人間が入れたのかは人生最大の謎だが、現に今もこうして学費集めに精を出さなくちゃいけないのは、分相応なのかもしれない。
「男女の出会いなんて、学園祭しかないじゃんか、っと!」
夏特有のゴミ箱のむわっとした嫌な臭いに顔を顰めながら、戻ろうとさっさとゴミ袋を入れると蓋を閉じた時、何処からか小さな猫の声が耳を打った。
「猫? でも、ここら辺に野良猫なんていたっけ?」
よくネズミなら暗闇のマンホールから飛び出してきて悲鳴を上げそうになった事ならあるけど、猫は都内に来てから見た事がない。
「っ!」
一瞬の硬直の後、すぐに周囲を確認。
足音無し、話し声も無し。
人の気配も……多分無し。
「ふ……ね、猫~? にゃぁ~? にゃにゃにゃぁ~? おいで〜、こわくないにゃ〜」
周囲に誰も居ない事を入念に確認すると、自然と猫語か何か私自身にも分からない言葉を吐いた。
逃げないように。怯えさせないようにと、ゆっくりと前へと足を進め、恐る恐る手を草むらに掛けると、
「ぇ」
夜の暗闇と雑草の茂みに隠れ、その子猫は酷く汚れた姿のまま一匹で小さく鳴いていた。
明らかに細い身体と傷だらけの身体。
呼吸の細さが私に過去のトラウマを呼び起こそうとする。
「っ! ど、どうしよう!? 救急車! じゃなくて、病院! でもバイト……っ!!」
急いで抱き上げた事で、初めて分かった小さな命と羽のような軽さに驚きつつ、私は覚悟を決め、コンビニの店長の元へ走るとドアを勢い良く開く。
「うわぁッ!!? な、なんだ!? って、鴻野?」
普通の人よりもぽっちゃりとした店長の黒縁眼鏡が僅かにズレた瞳で私を確認すると、その腕にすっぽりと収まった子猫を見た。
此処で気付けば何かが変わったのかもしれない。
だけど、そんな余裕が無かった私には、店長が僅かに眉を顰めた事に私は気付かなかった。
「ぇ……なに、それ?」
「店長! すみませんが、今日のバイトを抜けさせてもらっても良いですか!?」
「は? 何言ってんの? 駄目に決まってるでしょ」
「で、ですが、子猫を裏口で拾いまして……っ、とても弱ってるみたいなんです! 常識が無いのは重々承知ですが、それでもお願いします! この日の分は他の曜日に入ります! だからっ!」
必死に頭を下げ、細い息を繰り返す子猫を腕の中で抱き締める。
「……はぁ〜、あのなぁ? そんな野良猫なんてそこら辺に捨てておけば良いんだ。どうせ、親猫がその内拾いに来るって」
店長は興味を無くしたのか、ギィギィとなる椅子をくるりと机に回し、冷たい横目で私達を一瞥する。
「で、でも—————」
私には腕の中で息絶え絶えのこの子猫を捨てる事は出来そうになかった。
だからこそ、店長の許しが貰えればと思っていた。だけど、
「おい、鴻野。そんなに、このバイト辞めたいのか? お前、言ってたよな? 田舎から都会に来て一人暮らしで、お金が無いないから生活が厳しいって。ここに来たのだって他から断られたからって? そこに猫なんて飼ったら余計に金銭面で苦労するでしょうに。馬鹿でも分かる事がお前には分からないかねぇ」
熱く熱った助けたい想いとは裏腹に、氷のような冷徹な現実が私の胸を突き刺していく。
「それに、そんな野良猫一匹死んだところで日本じゃ当たり前。ほら、さっさとその猫を路地裏……あっ、そうだ。まだ出すゴミあったから、そのゴミと一緒にその猫も捨て来いよ。じゃ、そういう事で。よろしく〜」
今日、あの女性に会ってから澄み渡った視界が一気に重く暗闇に染まったように感じられた。
確かに、私は金銭面も余裕が無ければドジだし、今日だって失敗してお客様に迷惑も掛けた。
都内のバイトに応募しては、連日お祈りメールをいただいた毎日からやっとバイトが決まったのが日本でも有数の有名な大企業、時峰グループの系列であるコンビニチェーンの一つ。
実家の両親にも迷惑をかけたくないし、学校にだってちゃんと行かなくちゃいけない。
バイトに入れば、ドジな私は毎日の如く店長に呼び出されては怒られる。特に何か店長を怒らせるような事をしたら、収入が半分に減給されたのは二度三度の事じゃない。
それは何か失敗をしてしまった自分のせいって事も分かってるし、なにより此処で耐えなきゃ私には……。
その為にも、お金が必要なんだ。
でも、
「カフッ!」
「!?」
「まだ居たの? はぁ〜、邪魔だって言ってんのに分かんないかなぁ~」
「…………」
「何、その反抗的な眼は? こっちは店長だぞ? 何処にも行き場もないって言ったお前を拾ってやった恩人の俺にそんな目を向けるのか。チッ、そんなに捨てたくないなら俺が捨てて来るから、さっさとそれを寄越せ。それとも、また減給を——————」
視界が子猫の苦しそうな表情を目一杯に映し出し、耳がギィと鳴った古い椅子の音を聞き取った。
腕の中で悶えるこの子を今此処で離してしまえば、いっそ楽になるのかもしれない。
バイトを辞める事はないし、実家にも心配をかける事もない。
全てが元通りに戻る。それだけ。
それだけなのに。
『ファイト♪』
あの女性の応援がすぐ脳裏に過った。
「…………ます」
「なに? 声が小さくて何言ってるか—————」
「バイト辞めます! お世話になりました!」
「はぁ? あっ、おいッ!?」
直後、私はバイト先を飛び出していたのだった。
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