第二章・小説編

第41話 勇者はスローライフを送っていた

 小鳥達のさえずりが鼓膜を小さく振るわす。その心地良い振動が脳を優しく覚醒させ、深い眠りからゆっくりと目覚めさせる。窓から射す光が少し眩しく感じる。

 上半身を起こし、両腕をうんっと上に伸びをしてから大きな欠伸を一つする。縮こまっていた筋肉が嬉しい悲鳴を上げていた。しかし、それだけではしっかりと覚醒する事は出来なかった。仕方なくベッドから降りて寝室を後にする。


 寝室を出て、一度無駄に広いリビングを通り、ユニットバスへと入る。

 洗面台の前に立ち、歯磨きを最初にし、顔を冷水で洗う。丁度良い冷たさであり、寝ぼけ眼はしっかりと開き、中途半端だった覚醒は完全なものとなった。顔面をタオルで拭いて鏡を見やる。

 そこには一人の男の姿が映っていた。


 彼の名前は『ネイサン』。あるライトノベルの主人公であり、元勇者である。そんな彼は物語の中で天寿を全うしたのだ。そして、そのまま天国へ行くはずだったのだが、どうしてかここ日本に転生したのである。今の名は『姉川あねかわ いさみ』という名で通っている。


 鏡を見ながらネイサンは一言「よしっ」と、自分を鼓舞してからユニットバスを後にした。

 少々面倒であったが、一度寝室に戻って着替える事にした。勿論、着替える事だけが目的では無い。

 着替えを終えたネイサンは、ベッドの傍らに置いてあるデジタル時計を確認する。そこには5:53と表示されていた。今日は妙に早起きである。

 確認して満足すると、寝室、無駄に広いリビングの順で部屋を後にした。




「暑いっ!」


 部屋を出て、マンションの通路に出たネイサンの開口一番の台詞である。

 右奥の通路を見やると、空間がユラユラと少し歪んでおり、肌にへばり付く様な湿気と茹だる様な熱気が突如として襲い掛かって来たのだ。

 どうしてこんなにも中と外で違いがあるのか。それはネイサンの部屋と日本では、空間その物が全く違うからである。

 ネイサンの部屋の空間では年中過ごしやすい気候であるのに対し、現在の日本は7月、つまり夏真っ盛りなのだ。

 一歩踏み出す度に汗を滴らせながら、ネイサンはユラユラと空間が揺らめく通路を通り、二階から一階へと降りて行った。


 一階のエントランスホールへ降り、正面にある大きな通路を通る。すると、さっきまで閑散としていた辺りが、奥へ進むにつれて賑わいを見せ始めた。

 奥まで行くとそこは大きな食堂であった。内装は大型ショッピングモールにあるフードコートの様である。

 それにしてもまだ6時にもなっていないにも関わらず、食堂には既に二十人ほどが朝食を楽しんでいた。本を読みながら黙々と食べる者、三人で会話を交えながら食べる者達。中にはスクワットをしながら食べている者も居た。

 ネイサンはその者たちには目もくれず、少し足早に食堂の左奥へと歩いて行った。


「おお、おぬしか。おはよう」

「おはよう、育代いくよさん」


 食堂に入って左奥に大きなキッチンがある。そこでは『御前等おまえら 育代』を含めた数人の料理人がせっせと料理や仕込みをしていた。


「今日は暑いの〜、昨日の雨が嘘のようじゃ。おぬしは大丈夫か?」

「……正直参ってる。部屋を出た瞬間、思わず『暑いっ!』と叫んでしまった」


 ネイサンがそう言うと、育代は少し背中を後ろに曲げながらカッカッカと盛大に笑った。そして笑い疲れたのか、ふぅと息を整えた。


「まぁ、確かにこう暑いと叫ぶのはやむを得ない。たがこんな暑さでへばってちゃー、元勇者の名を汚す事になるぞ。何せ、夏はまだまだじゃからな」

「嘘……だろ……まだ暑くなるのか?」


 ネイサンの顔は絶望に駆られていた。口の中はカラカラで干上がっているのに、額からは際限無く汗が吹き出しており、その粒と粒が一つとなって顔を滴り落ちた。

 そんなネイサンを見兼ねた育代は、少し口角を上げながら料理を作り始めた。


 暫く絶望しながら待っていると、ドンっとネイサンの目の前に大きな丼が置かれた。その丼からは何やら食欲をそそる、良い匂いが漂って来た。

 我に返ったネイサンは、思わず丼を持ち上げてしまった。いや、体が勝手に動いたのだ。


「い、育代さん…これは一体?」


 ネイサンがこの丼の正体が何なのか訊くと、育代はフフッと笑ってから言った。


「ただのスタミナ丼じゃよ」




 トレーの上にスタミナ丼を乗せ、六百円を育代に支払ったネイサンは、何処で食べようかと席を探し始めた。すると、何処からともなくネイサンを呼ぶ声が聞こえて来たのだ。


「勇さーん、勇さーんっ!」


 声のする方を見やると、そこには席を立ちながら両手を上空に大きく揺らす者が居た。その人物はネイサンを見ながら、まるで子供の様に清々しいほどの笑顔を振りまいていた。

 声の正体は『大久農おおくの 民夫たみお』であった。

 ネイサンは「はぁ…」と溜め息を一度吐いてから、民夫の席へと近づいた。


「おはようございます、勇さん」

「ああ、おはよう、民夫」


 民夫の席まで来たネイサンは、いつも通り民夫と軽く挨拶をしてから、民夫の隣の席にトレーを置いた。

 そして民夫だけでなく、ネイサンは対面に座っている二人の人物にも挨拶をした。


「二人とも、おはよう」

「えぇ、おはよう」

「……」


 対面に座っている人物、それは背が小さい『ひじり 便よすが(35歳)』と、背が高い『巨内きょだい 其丈それだけ』である。便は腕を組みながら挨拶をし、巨内は話す事が出来ない為、ただ一度だけ首を縦に振って挨拶をした。

 席に座ったネイサンはテーブルの上を見回してみた。三人は既に朝食を摂り終えていた。そして前にある器は全員同じであるが、ネイサンの物とは違っていた。


「三人は何を食べたんだ?」

「今日は冷やし中華でしたよ」

「そ、そうか……」


 いつの間にか席に座っていた民夫が答えた。その顔はさっきと変わらず笑顔であったが、辺りには黒いキラキラが散りばめられていた。何かあると思ったネイサンは顔を引き攣らせながらも、悟られまいとそれ以上は何も言わなかった。


 気を取り直して、ネイサンは自分の前にある料理に目を向けた。その丼は湯気が立っていた。そして、中には所狭しに茶色に光り輝く肉が乗せられており、理性を保っていないと食べたい気持ちが急いてしまう。

 ネイサンは手を合わせながら「いただきます」と挨拶をし、箸で肉を一枚だけ捲ってみた。そこには一面の緑が広がっていた。キャベツである!キャベツに肉の脂とタレがジワッと染み込んでおり、良い感じに食欲をそそる色に染まっていた。

 ネイサンは肉、キャベツ、そしてその下にある米を箸で掬い、一気に口の中に放り込んだ。


「…!?」


 スタミナ丼はネイサンの口の中で爆発した。甘辛のタレに肉が絶妙に絡まっており、噛めば噛むほどジュワッと旨みが溢れ出して来る。勿論それだけではない。歯切れの良いキャベツと丁度良い固さの米の甘さが相まって、超絶なハーモニーを奏でていた。

 しかし、ネイサンを一番驚かせたのは、肉でもキャベツでも米でもなかった。

 大蒜にんにくである!

 大蒜のガツンと来るパンチは、夏の暑さをも退ける程のモノであった。飲み込む度に、身体の奥底から力が湧き上がって来る感覚を覚えた。

 ネイサンの理性は瞬く間に崩壊し、脇目も振らず一心不乱にスタミナ丼を描き込むのであった。


 ものの五分であろうか、ネイサンは米一粒も残さずに完食していた。少し残念に思いながらも「ごちそうさま」と挨拶をするネイサン。

 ふと周りを見てみると、民夫たち三人が口を開けながらネイサンを見つめていた。不思議に思ったネイサンは民夫に訊いてみた。


「どうしたんだ?」


 掛けられた民夫は瞬時に反応出来なかった。一度、頭を軽く横に振ってから我に返り、ネイサンを見ながらニッコリと愛想笑いをした。


「……え、いや〜……朝から勇さんは元気だな、と」

「?」


 ネイサンは首を横に傾けながら、民夫に不審な目を向けるばかりであった。




 一同は食べ終えた器とトレーをキッチンへ返し、再び同じ席へと座り直した。そして、民夫がわざとらしく咳払いを一つしてからネイサンの方を向いた。


「こほん……それでは勇さん、今日は何を──」


 民夫が全て言い終える前に、食堂の出入り口からバタバタとけたたましい足音が一つ聞こえてきた。その足音がピタッと止まった時、一人の男性が現れた。男性は全身を汗で濡らし、顔を紅潮させ、肩を上げながら呼吸をしていた。相当焦ってやって来た事が伺えた。


「い、育代さん……育代さんはいますか!?」

「何じゃ、わしならここにおるぞ」


 男性が大声で育代を呼ぶと、育代が右手で杖を突きながらのろのろとキッチンから出て来た。声に反応して育代の顔を見た男性は「あぁ、良かった」と安堵し、急いで育代の元まで走った。


「どうした?こんな暑い日にそんなに慌てて」

「た、大変なんです……!」


 男性は呼吸を整える為に、下を向きながら何回か息を吸っては吐いてを繰り返した。そして、幾分か整ったらしく、勢いよく育代の顔を見た。


「さっき中庭を歩いていたら、道端に人が倒れていたんです!」

「なんじゃと?」


 男性の言葉が水滴を垂らした水面の様に、食堂内に次々と伝播した。そのどよめきは次第に大きくなり始めた。


「静まれっ!」

『……!』


 育代の鋭い一喝は風を纏いながら響き渡った。その声は誰よりも大きく、そして恐怖すら感じさせた。食堂は一瞬にして静まり返ったのだ。「ふへぇ…」と育代が息を吐く。


「今、その人は何処で倒れておるのじゃ?」

「え…あ、まだ中庭に……私が案内します!」

「うむ、助かる。おい、巨内、おぬしもちょっと手を貸してくれ」

「……」


 育代が巨内の方を向いて言うと、巨内はそれに対して首を縦に一回だけ振って席を立った。

 三人が食堂を出るまで、食堂内に居る人達は誰一人として声を発さず、そして身動きもしなかった。いや、出来なかったのだ。皆、育代の一喝に恐れ慄いていたのだ。




 暫くすると三人が戻って来た。巨内を見てみると腕の中で十代であろうか、一人の青年がグッタリとしていた。呼吸はとても浅く、顔を真っ赤にして汗まみれであった。


のどか、冷たい水と氷嚢を持って来ておくれ」

「わ、分かった、おばあちゃん!」


 育代が孫娘である和にそう言うと、和は急いでキッチンからコップ一杯の水とキンキンに冷えた氷嚢を持って来た。

 青年を食堂にあるソファに寝させると、育代が慣れた手つきで脈や熱を測ったりして状態を確かめ始めた。そして、一通り確かめてから頷いた。


「こりゃ〜ただの熱中症じゃの。あと軽い脱水症状を起こしておる。ここでこまめに水を飲ませておけば良いじゃろう」


 育代の発言に食堂に居た人全員が息を吐いて安堵した。息が詰まる程に不安を感じていたのだ。

 青年の件が一段落し、食堂には再びいつもの活気が戻って来た。そんな中、便を先頭にネイサン達は育代に近づいた。便は育代に近づくや否やコソコソと小声で話し始めた。


「育代さん、熱中症に対して効果のある薬を作ってみたのだけれど、必要かしら?」


 便の手にはいつの間にか試験管が握られていた。その試験管の中には、綺麗な水色の液体が入れられており、何やら白い煙の様なものまで立ち上っていた。明らかに怪しい薬であり、ネイサン達は思わず身震いしてしまった。

 育代は便と試験管を交互に見た後に答えた。


「いんや、そこまで必要では無いな。気持ちだけ貰っておこう」

「そう、それなら良かったわ」


 便はそう言って一歩退いた。その顔は言葉とは裏腹に少し残念そうな面持ちであった。余程、薬の実験がしたかったのだろう。ネイサン達は「ふぅ」と胸を撫で下ろした。

 しかし、それも束の間、今度は民夫が一歩前に出て来た。その顔にはいつもの笑顔は無く、まさに真剣そのものであった。民夫が口を開く。


「育代さん、この方は転生者でしょうか?」

「うーむ、こやつは転生者ではないな。普通の人間じゃの」

「……やっぱり」


 民夫はあたかもその答えを知っていたかの様な反応をした。ネイサンはというと、育代の意外な答えに驚きを隠せず、小さく「えっ」と言葉を洩らしてしまった。そして、訊かずにはいられなかった。


「民夫、どうして分かったんだ?」

「とても単純な事です。僕が今まで読んできたラノベに、この様な方が出て来なかったからですよ」

「なるほどな……」


 民夫の話にネイサンは妙に納得してしまった。普段からラノベを読み漁っている民夫だからこそ、説得力があったのだ。


 では、一体この青年は何者なのだろうか……。

 ネイサンは視線を青年に向けてみた。今は育代と和の看護があって、呼吸はとても安定している。しかし、ここに来るまでにかなり体力を消耗してしまった様で、今は小さな寝息を立てながら寝ている。

 次に顔に注目してみると、熱中症で赤くなってはいるものの、その顔立ちは男にしてはとても綺麗であった。髪は程よい短さで少し茶色に染まっている。とても悪人の顔つきでは無い。

 もう一度、この青年は何者なのだろうか。

 ……分からない。それがネイサンの辿り着いた最大限の答えであった。

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