2.雪割草の瞳
〈1〉
わたしには長らく文通している相手がいる。幼いころ、銀細工のペンとインク壺を贈ってくれた実兄の細君だ。
義姉は筆まめなひとで、折に触れて手紙を送ってくれた。流麗な筆跡と濃やかな文面は、書き手がいかに教養深く気品に溢れた淑女であるか物語っていた。
病弱であることにかまけて勉学を怠っていたわたしに、義姉は手紙のやりとりを通してやさしく根気強く豊富な知識を授けてくれた。
初恋の少年と離ればなれになり、両親とのあいだにわだかまりを抱えていたわたしが素直に甘えられたのは、手紙のむこうの顔も知らない義姉だけだった。最初は『おねえさま』とたどたどしい字でぎこちなく綴っていた呼びかけは、いつしか親愛と憧憬がこもった『先生』と変わっていった。
最後に先生へ手紙を書いたのは、両親をウァイオレッテに紹介された療養所へ送りだす間際だった。両親や孤児院だけでなく、わたし自身を深く気遣ってくれていた先生を安心させたくて、ずいぶん空元気な内容をしたためて送った気がする。
蔓薔薇が彫りこまれた両開きの扉つきの
孤児院から連れ去られた際、持ちだせたのはたまたま手にしていた兄夫婦からの贈りものであるペンだけだった。揃いのインク壺は孤児院の私室に置いてきてしまった。
すっかり指になじんだ筆は、宵空に似た瑠璃色をした硝子製の軸を銀細工が透かし編みのように覆っている。繊細な草花の意匠は、孤児院の庭にも咲く野薔薇を模したもの――皮肉にも人形として与えられた名前の由来だった。
書き物机の上には庶民がよく用いる繊維でできた厚い便箋が散らばっている。
慣れ親しんだ
『母さん、お加減はいかがですか。父さんもお元気でしょうか。先日、ウァイオレッテさまから母さんの具合がよくなってきていると教えていただき、とても安心――』
『アーネス、ニル、メリア。かわいい弟妹たち。突然いなくなってしまってごめんなさい。実はウァイオレッテさまのおかげで、母さんのお見舞いに行くことができると――』
何枚もの便箋には、それぞれ両親や孤児院の家族に宛てた文面をしたためた。
すべてウァイオレッテの指示に基づく『演出』だ。両親にはウァイオレッテの世話で何不自由なく過ごしていると、弟妹たちに母を見舞うために遠方へ出かけることになったと、筋書きどおりの嘘を。
最後に、先生への手紙を仕上げようとして――ペンが止まってしまった。
「先生……」
親愛なる、と書きだしたところで、筆先が引っかかってインクが滲んでしまった。
そこへぱたりと水滴が落ちて、わたしは慌てて目元を押さえた。
眼窩の底が熱を孕んでいる。きつく瞼を閉ざし、ペンを転がして書き物机に突っ伏した。
「帰りたい……」
わが家に。孤児院に帰りたい。
古ぼけた煉瓦造りの屋敷、裏庭に広がる果樹園の緑陰、子どもたちの笑い声。静養室の白い窓辺、餌づけをした小鳥のおしゃべり、揺れるカーテンの影でほほ笑んでいたあの子。
かれはどこにいるのだろうか。どんな青年になったのだろうか。怪我をしたり、病気になったりしていないだろうか。
「わたしのこと、忘れていないよね……?」
かれから手紙が届いたことはない。
従騎士の兄は、かれは養父に連れられて遠い異国に渡ったのだと、更には養父の稼業のためにひとところに留まることは滅多にないのだと教えてくれた。この七年、かれとわたしは手紙のやりとりも不可能な世界の端と端に隔てられていた。
――あなたの騎士は、けしてあなたを裏切らない。
いちどだけ、不安を吐露したわたしを先生は諭すように励ましてくれた。
騎士の誓約は命よりも重い。たとい子どもの真似事だとしても、宣誓にこめたかれの想いは本物だと。
――信じることは、何にも勝る勇気であり、愛であるとわたしは思います。あの子を信じることで、あなたはあなたの弱さに勝利し、揺るがぬ勇気と愛を手にすることができる。それはあの子も同じこと。迷い、おそれても、どうか自分に負けないでください。あの子があなたの許へたどり着けるように。
「『あの子が再び帰路を見失わないように』……」
そうだ。わたしは、何があっても帰らなければならないのだ。
顔を上げ、もういちど目元を拭う。ペンを手に取ると、わたしは慎重に手紙を書きだした。
手紙でのやりとりでしか知らない義姉には、だからこそ楽しめる遊びを教えられた。お互いに作った暗号を手紙の文面に盛りこみ、どれだけ解読できるか競い合ったり――
わたしが家族へ宛てた手紙は、おそらくウァイオレッテの検閲を受けるだろう。少しでも不審な内容であれば、その場で破り捨てられてしまうかもしれない。
何度も先生と交わした、秘密の暗号文。一見すると普通の文面だが、ある一定の規則性に基づいて文字を選んでいくと別の文章が浮かび上がる。解読に必要な規則性は、文面のあちこちにまぎれこませた手がかりを元に数式を解いたり、古い詩篇の文章と照らし合わせたりしなければわからない。
織り混ぜられる真実は多くない。限られた情報をなるべく的確に抽出できるよう仕組まなければ。
最後の署名を書き上げ、わたしは吐息を洩らした。ペンを握りすぎて痺れた手で、丁寧に便箋を折りたたむ。
ほかの手紙も同様に揃いの封筒に入れ、宛名を書けば終わりだ。封はウァイオレッテの検閲を通らなければできない。
筆先の墨を拭い取っていると、リリン、と鈴の音が聞こえた。
「失礼いたします」
ため息を噛み潰して振り返ると、あいかわらず喪服のようなドレス姿のウァイオレッテがずかずかと入ってきた。
おや、と思わずにはいられなかった。雪白の美貌はいつになく苛立ちを滲ませていたのだ。
「今日はなんだか不機嫌ね」
「ええ、まったく。……突然ですが、あなたを主人に会わせることになりました」
わたしはぱちりと瞬いた。
ウァイオレッテから聞かされていた予定では、わたしを姫君らしく仕立てあげてから先代の侯爵にお披露目することになっていたはずだ。
「旦那様――当代の侯爵閣下は、ずいぶん耳敏くいらっしゃる。本邸からわざわざ駆けつけて、大旦那様の前であなたの素性を確かめたいと」
「いまの侯爵さまが?」
ウァイオレッテの口ぶりはたいそう忌々しげだった。
そういえば彼女は、自らを先代侯爵の使用人だと言っていた。エーヴェヌルト侯爵家の、ではなく。
「……いまの侯爵さまとご隠居さまは、仲がよくないの?」
ウァイオレッテはぴたりと口をつぐんだ。
「なぜ、そのようなことを?」
「別に……ただなんとなく感じただけよ。少なくとも、あなたはいまの侯爵さまにお仕えしているつもりはなさそうに見えたから」
小さな舌打ちが聞こえた。
「余計な口を利かれぬほうがあなたのためでしょう」
青灰色の瞳が冷ややかにわたしを射抜く。
「ここにいる限り、あなたは『ローゼリカ姫』なのです。くれぐれも、そのように心がけてふるまいなさい。よろしいですね?」
先日の『忠告』がよみがえり、わたしは眉根を寄せた。少しでもぼろが出れば、家族に危害が及ぶのだ。
――弱い自分に負けてはならない。
「……わかっているわ」
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