〈2〉
女は糸杉のように背が高い。
年若く、わたしよりふたつ三つ齢を重ねているころだろうか。黒色のドレスを纏い、豊かな蜂蜜色の巻き毛を片側の肩に垂らしている。
面長だが細いかんばせは磨いたように白く、切れ長な瞳を物憂く伏せている表情にはぞくりとする色香が滲んでいた。
生え揃った睫毛の下から窓辺に散乱する椅子の残骸を見つめた女は、ひっそりと眉をしかめた。喉元まで詰まった襟に覆われた首の上、紅を差したくちびるが綻びる薔薇のごとく開く。
「今度は椅子ですか、姫君」
女にしては低い声が呆れ果てたといわんばかりに呟いた。初日には花瓶、二日目には水差し、三日目には皮張りの分厚い書物を四冊、窓に投げつけては破壊していた。
わたしはあらんかぎりの怒りを掻き集めて女を睨んだ。
「これ以上部屋を荒らされたくなかったら家に帰してちょうだい!」
「それはできない相談です」
女が手を叩くと、扉の前で控えていたらしい侍女たちがぞろぞろと現れた。揃いのお仕着せ姿の人形じみた女たちは黙々と椅子の残骸を片づけ、銀の盆に載った大量の食事を運んできた。
卓上に染みひとつないテーブルクロスが敷かれ、銀食器に盛りつけられたご馳走がずらりと並ぶ。すべての支度を終えた侍女が一礼をして退出すると、新しく用意させた椅子を引いた女がこちらを振り返った。
「さあ、お食事を」
「いらないわ」
苛立ちまじりに突っぱねると、女はため息をついた。
「まだご自分の立場がおわかりになっていないようですね、姫君」
「わたしはただの平民よ!」
「いいえ。あなたは王族のご落胤であらせられるエーヴェヌルト侯爵家の令嬢、ローゼリカ姫です」
鞭打つような断定に息を呑む。
女――ウァイオレッテと名乗った悪魔は、淡い青灰色の瞳をうっそりと眇めた。
テーブルクロスから銀のナイフを手に取り、長い指で遊ばせながら近づいてきた。
やわらかな陽射しに濡れた刃が白い残像となって突き刺さる。
「ひっ……」
喉の奥で悲鳴が凍った。
覆い被さるように迫ってきたウァイオレッテは、ドレスの裾を膝で押さえてこんだ。
冷ややかな気配が首筋にひたりと添えられる。瞬きもできず固まっていると、林檎色のくちびるが甘く問うた。
「よろしいのですか? あなたのふるまい如何で、母君のお命がどうなっても」
心臓を鷲掴まれたような恐怖に体が震えた。
ウァイオレッテは慈善家を装い、孤児院への寄付という名目で多額の出資を申しでた。悪魔の甘言を疑うことも知らず、わたしは渋る父母を説き伏せて彼女から紹介された王都郊外の私設療養所に送りだした。
「療養所からの報告では、母君は順調に回復しているそうですよ。付き添われている父君もたいへんお喜びだとか」
「母さんたちを人質にするつもり!?」
「滅相もありませんとも。ただ、わたくしはあくまで円満な取引の成立を願っているだけですわ」
ウァイオレッテは婉然とほほ笑んで小首を傾げてみせた。
冬の曇り空を写し取った瞳がやさしく、底冷えするような温度でわたしを見つめている。何より懐かしく
ひくりと喉が震えた。助けを求めて口にしかけた名前を苦く噛み潰す。
「……わたしを使って何をする気なの?」
せめてもの意趣返しに睨みつけると、ウァイオレッテは片眉を持ち上げた。
エーヴェヌルト侯爵家といえば、かつて子女を歴代の国王の後宮に送りこんで権勢を誇った名門貴族だ。『傾国の豚』と呼ばれるほどに腐敗した後宮を廃し、世襲の王候による専制政治を終わらせた先々代の治世以降は零落したそうだが――
ウァイオレッテは、隠居した先代エーヴェヌルト侯爵の『使用人』だと名乗った。主人の命により、先々代が即位する直前に吹き荒れた王位継承をめぐる争いに巻きこまれ、行方知れずになった侯爵家ゆかりの王女殿下を探しているのだと。
――王城を追われた王女殿下は市井に身を隠し、やがて子どもを産んだ。『ローゼリカ姫』は、密かに長らえた王家の血統という役どころだ。
「偽者のお姫さまを仕立て上げて、どうするつもり? 過去の栄光を忘れられないご隠居さまのお相手をしてさしあげろとでも?」
ウァイオレッテはおかしそうに笑った。
「そうですね……このトゥスタを治める王家について、どう思われますか?」
「どうって……」
――勇ましき黒獅子と知恵の女神の
トゥスタで生まれ育った子どもならばだれでも知っている吟遊詩人の歌が頭に浮かんだ。
中興の祖と謳われる大改革を為した先々代、守成の賢君として王国の礎を磐石なものにした先代。そして長年に及ぶ隣国とのいくさに勝利の終止符を打ち、武断と文治によって安寧の時代を築き上げた今上。
君主に恵まれたトゥスタにおいて王家に対する民衆の支持は絶大であり、特に市井で生まれ育った今上は〈黒獅子王〉の異名で慕われていた。
われらの王の御代を支えるのは、知恵の女神の
「国王陛下も王妃陛下も、為政者として優れた方々なのは確かでしょう。おふたりのあいだにお生まれになった双子の御子も聡明で利発でいらっしゃる。ですが、貴き玉座が下賎の血にまみれることを受け容れがたい者も少なからず存在するのですよ」
「下賎の血ですって?」
「後宮を解体した先々代は貧民窟の娼婦を娶り、その腹から生まれた先代は孤児院育ちの町娘を寵愛した。今上に至っては、王妃の不義の子であり、故国を焼き払った『魔女』を二代ぶりの正妃に据えた――トゥスタでは国母と称えられた先々代の妹姫の薫陶を受けた賢妃として名高いですが、かつて王妃陛下の故国があった属領地では〈死天使〉と忌み嫌われているそうですよ」
淡々とした口調で語るウァイオレッテの眸に、昏く揺らめく影が見えた。
「属領地……レイシアの統治には、国王陛下も王妃陛下もなかなか手を焼いていらっしゃるご様子。遠く離れた王都には聞こえてきませんが、王太子殿下のご帰還を望む声は日に日に高まっているのですよ」
終戦直後、まだ幼かったレイシアの王太子は母妃ともども格別の恩情によって処刑を免れたものの、僻地に送られたまま行方知れずになっているそうだ。
すでに幽閉先で病死したとか、実は市井に潜りこんで隠れながら暮らしているとか、いろいろな憶測が昔から飛び交っているが――王家が出したお触れは八年前に王太子の母妃が亡くなったというものだけ。
「……何が言いたいのよ?」
震えそうな声を押し殺して尋ねると、ウァイオレッテは寒気がするほど美しくほほ笑んだ。
「あなたには火矢になっていただきます。待ちに待った復讐を果たすために」
「ふ――」
いったいだれへの、と問い詰めようとしたそのとき、リリン、と鈴の音が鳴り響いた。
ウァイオレッテはすばやくわたしから身を離し、内部をドレスの陰に隠した。何事もなかったかのような口ぶりで「お入りなさい」と命じる。
「失礼いたします」
開いた扉から現れた侍女は、深く頭を下げたまま「大旦那様がお呼びにございます」と告げた。
ウァイオレッテはちらりとへたりこんでいるわたしを一瞥し、「すぐに参りますと伝えなさい」と侍女に申しつけた。
侍女が退出したのを見届け、ウァイオレッテはくるりと振り向いた。
「残念ですが、お食事をごいっしょさせていただくのは無理なようです。……晩餐は、ぜひともに」
「もう来なくていいわよ」
敷布を握りしめて睨みつけると、彼女は困ったように眉尻を垂らした。
「つれないこと。どうか嫌わないでくださいまし。これから、長い付き合いになるのですから」
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