〈2〉
結果として、ずば抜けた身体能力によって見事な受け身を取ったかれは打撲程度の軽傷で済み、風邪を引いたわたしは高熱を出して死にかけた。
三日三晩わたしを苦しめた熱は、命と引き替えにわたしから父譲りの黒髪を奪った。まるで老婆のごとき灰白色に褪せた髪を見たかれは、声もなく泣いた。
「ごめんなさい」
枕辺ですすり泣くかれの瞳は、薄曇りの冬の空の色をしていた。亡霊でも死神でもなく、傷ついて、どうしようもない淋しさを抱えて彷徨する、小さな男の子だった。
熱が抜けたばかりのぼんやりした頭で、いつになく素直にわたしは口を開いた。
「どうしてあなたが謝るの? ひどいことを言ったのはあたしのほうなのに」
「違う。ぼくは、きみが言ったように消えていなくなるべきなんだ。だって、だって、ぼくは……」
続く言葉は、涙に滲んで聞き取れなかった。わたしは掛布の中から手を伸ばし、うなだれる頭をよしよしと撫でた。
「いなくなっちゃえばいいなんて、うそよ。あなたがいなくなったら、あたし、またひとりぼっちになっちゃう」
「……そんなことないよ。だってきみは、みんなから大切にされているじゃないか」
洟をすすり上げるかれに、わたしはくすんと笑った。
「かあさんはね、あたしのことなんてどうでもいいの。だって、どんなに胸が苦しくて頭が痛くても、あなたみたいにそばにいてくれたりしない。たくさんいるにいさんやねえさんたちのほうがずっといい子だから、あたしより大事なの。とうさんは、やさしいけど、いちばんかあさんが好きで、いちばんかあさんが大事なの。だってとうさん、あたしがどんなわがままを言っても、ちっとも怒らないのよ」
狭く閉ざされた療養室から見るわたしの世界は、あたたかいけれど暗くて、どこかいびつだった。母も父も大好きだったけれど、心のどこかで大嫌いだった。
「にいさんもねえさんも、とってもやさしいわ。でも、あたしがどんなにひどいことを言っても怒らない。喧嘩もしてくれないの。あたしがかわいそうだから、かあさんやとうさんにやさしくしてあげてって頼まれているからよ」
「きみは――」
かれは、言葉を探すように伏せた瞳を瞬かせた。
不思議なことに、生え揃った睫毛は濃い金色に煙っていた。間近で見るかれの顔は子どもながらに整っていて、人形のようにきれいだと思った。
おずおずと伸びた手がわたしの手を握り、てのひらに濡れた頬が触れた。
「きみは、ずっと悲しかったんだね」
噛みしめるような口調だった。
鼻の奥がツンと痛んだ。わたしは「うん」と頷いた。
「ぼくも」
透明な瞳を潤ませ、かれは続けた。「ずっと、ずっと悲しかった。悲しくて、悲しくて、仕方がなかったんだ」
かれはほろほろと涙をこぼし、わたしのてのひらに頬擦りをした。
わたしはくり返しくり返し、かれの頭を撫でた。
「あなたが死ななくてよかった」
心から告白すると、かれはぎこちなく笑った。
「きみが、いなくならないでいてくれて、よかった」
そのようにして、わたしたちは冬至の祝祭をふたりきりで過ごした。
見舞いに駆けつけてくれた従騎士の兄は、いつになく憔悴した顔でわたしとかれを抱きしめたあと、それぞれに贈り物をくれた。正確には、わたしが顔も憶えていない年長の兄と姉から預かってきたのだという。
かれは、心臓が止まったような顔をして、ぎくしゃくと贈りものを受け取っていた。
かれが贈られたのは、繊細な装飾が彫りこまれた銀の懐中時計。わたしが贈られたのは、美しい銀細工のペンと揃いのインク壺だった。
「あのひとたちらしいな」兄は苦笑した。
兄より更に年の離れた兄と姉は、長らく王城に勤めているのだという。兄は普段、贈り主である兄の下で働いているらしい。
「ちびすけども。知っているかい? 冬至の祝祭に子どもへ贈る品には、願いがこめられているんだ」
兄はくしゃりとかれの頭を撫でた。かれは俯いたまま、顎に皺が寄るほど口を引き結んでいた。
「いまはわからなくてもいいさ。いつかおまえたちが大きくなって、思いだしてくれ」
冬が明けるころ、風邪をこじらせて肺炎を患っていたわたしは、ようやく寝台を離れて歩き回ることを許された。とはいっても、あいかわらず療養室の虜囚だったけれど。
だが、かれが常にそばにいてくれたおかげて寂しくはなかった。喧嘩もしたし、泣いたり泣かされたりもしたが、かれは笑顔が増え、わたしの癇癪は減っていった。
二階の窓から飛び降りて打撲で済むほどの身体能力を持ちながら、かれは学者肌というか、難解な書物を読み解いたり物事を調べたりすることが好きだった。特に歴史や、古い詩歌や物語を好み、よくわたしに聞かせてくれた。
穏やかで静かな声で、かれは歌うように語った。薄明かりが射しこむ窓の下、肩を寄せ合って膝を抱え、わたしはかれの言葉に耳を澄ませた。
件のコインの御伽噺も、そうやって密やかに教えられた物語のひとつだった。
わたしの感想に、かれは膝の上に広げた書物の頁を開いたり閉じたりした。
「でも、ぼくは、もしかしたら運命は人の行いによって決まるかもしれないって思うよ」
「どうして?」
かれは首を傾げた。
「きっと、あの雪の日、きみがぼくのあとを追いかけてくれなかったら、ぼくは死んでいたはずだから」
「……あたしこそ、あなたが庇ってくれなかったら死んでいたわ」
かれはほほ笑み、首を横に振った。「違うよ」
「きみが窓のむこうから飛びだしてきたとき、ぼくはきみを守らなくちゃと思ったんだ。それが結果的に、ぼく自身を守った。……きみがぼくを助けてくれたんだよ」
痛いくらいに心臓が高鳴った。わたしは寝間着の裾を握りしめ、「だって、あなたは大事なにいさんだから」とぼそぼそと言い訳をした。
一拍の沈黙のあと、かれは頷いた。
「ぼくも、きみを大切な家族だと思っているよ。……もう、姉上も兄上も、弟と妹もいないけれど、きみがいる」
それははじめてかれが語った、かれ自身の過去の断片だった。
母親のようにやさしく厳しい姉、父親のように頼もしく大らかな兄。仲睦まじいふたりのあいだに生まれた子どもたち。幸せに暮らしていたのに、かれは家族と離ればなれになった。
死別ではないと、かれは言葉少なく頭を振った。口調の端々に滲む罪の意識に、かれの身の裡に巣食う闇の正体を垣間見た。
わたしはきつくかれの手を握った。
「きっとあなたは、あたしの金貨よ」
冬の曇天の色をした瞳を見開くかれへ、力をこめて語りかける。
「顔も知らないねえさんが、すてきな銀のペンとインク壺をくれたでしょう? でもあたし、いままでちっとも勉強なんてしてこなかったから、読み書きができないのよ。ねえさんにお礼の手紙を書きたいのに。……やさしいにいさんは、教えてくれるわよね?」
問いかけの体をした『わがまま』に、かれはふわりと表情を綻ばせた。
「わが姫の仰せのままに」白けた髪を撫でる仕草はくすぐったく、かれが別れた妹をどんな風に慈しんでいたのか痛いほどわかった。
季節がひとめぐりする間、わたしたちはともにいた。
春が過ぎ行き、夏の光が空を高く澄み渡らせるころ、別れは訪れた。従騎士の兄がかれを迎えにきたのだ。
「最初から決まっていたことなんだ。用意が調ったら、養父になってくれるひとの許に行くんだって」
泣きじゃくるわたしの両手を握り、片膝を折ったかれは言い聞かせるようにやわらかく告げた。
「うそつき、うそつき! いなくならないって言ったじゃない」
「いなくならないよ。少しのあいだ離れるだけだ」
かれの言葉に、嗚咽を呑みこんだ。涙と洟でぐちゃぐちゃになった顔を拭いながら、かれは「約束するよ」と言った。
「いつか必ず、きみのところへ帰ってくる。大人の男になって、きみを何からも守れるように強くなって」
「ほ、ほんとうに?」
「『わが名と誇りに誓って』」
いつか聞かせてくれた物語に登場する騎士の宣誓になぞらえた台詞だった。遠く、困難な旅路へと赴く騎士が、見送る姫君の手に口づけて誓うのだ。
「『わが剣が折れようとも、わが盾が砕けようとも。あなたの許へ帰る日まで、わが身と魂は不滅なり』」
手の甲に触れる淡い熱。立ち尽くすわたしをいたずらっぽく見上げ、かれは少年らしく笑った。
開いた窓から、夏の風が吹きこんだ。わたしは、ようよう、かれを兄とは見ていない自分に気づいた。気づいたところで、わたしにできるのはおとなしくかれを送りだすことぐらいだった。
「ぜったいよ」
かれの、澄みきった瞳を見つめ、願った。
「ぜったい、帰ってきてね。あたし、待っているから。ずっと、あなたのこと……」
――このようにして、わたしは幸福の金貨を手放した。
わたしとかれの轍は交わり、隔たれた。再び重なる日が来ることを待ち焦がれながら、窓の下には月日だけが降り積もる。
長じるにつれてわたしの体はそれなりに健康になり、しかしあいかわらず髪は老婆のように白い。
年老いて体を壊した母に代わって新しく入ってくる弟妹の世話に追われているうちに、いつの間にか十六を数えようとしていた。
兄姉が持ちこんでくる縁談をさりげなくかわしつつ、叶う見込みの薄い初恋を胸に嫁かず後家の余生の計画を立てているこのごろ。
わたしの知らないあいだに、運命は大波となって押し寄せてきていたのだ。
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