第42話 熱に浮かされて
「どこか、傷つけられたりはしていないか……? 怪我は?」
答えを聞くのが恐ろしくもあったが、それ以上に、何も聞かない ほうがよほど怖かった。
胸の中でエリーゼが頭をふるふると横に振る。
「だい、じょうぶ、です……」
なんとか言葉を絞り出す様子が痛ましくて、そっと、背を撫でる。
「ぁ……っ」
ぴくりと肩が跳ねた際、何か、妙に色気のある声が漏れたような気がする。不審に思って彼女を見下ろすと、潤んだ目がこちらを見ていた。唇は半開きになり、頰は紅潮し――やけに、頼りなげに見えた。心なしか呼吸も荒く、鼓動も早い。
「ご、ごめんなさい……っ」
自分の唇から零れた妙な声を恥じてか、エリーゼが慌てて謝罪を口にする。
「いや、気にするな――と言いたいところだが。まさか、何か盛られたのか……?」
その可能性に思い至るくらいには、エリーゼの様子は目に見えておかしかった。毒の類だったらどうしようと、目の前が真っ暗になりかける。しかし彼女が口にしたのは、意外な一言だった。
「シャルウィック公爵は、媚薬――と……。でもわたし、なにもされてません……っ!」
「ああ、大丈夫だ。わかっている」
額に滲んだ汗を手の甲で拭ってやりながら、ギデオンは困っていた。毒ならば解毒剤があるかもしれないが、媚薬の効果を打ち消す薬なんていうものは存在するのだろうか。
――いや、たとえあったとしても、今から 手に入れるのは難しいだろう。
「何か、してほしいことはあるか?」
水が飲みたいとか、扇いでほしいとか、そういうつもりで口にした言葉だった。それなのにエリーゼは熱っぽい眼差しをギデオンに向け、今にも泣きそうな声で言う。
「キス、してほしいです……」
(神よ……!)
ギデオンは天を振り仰いだ。信仰心はそう篤くないほうだと思っていたにもかかわらず、無性に神に縋りたくなる。しかし残酷なことに、神は哀れな男の切なる祈りを聞き届けてはくれなかった。
「お願い、ギデオンさま、キス……」
「頼む、頼むから黙っていてくれ……」
誘惑するような言葉を吐くエリーゼの唇を、必死に手で押さえて言葉を封じる。好いた女に、キスをしてほしいといわれて嬉しくないわけがない。
しかし彼女は今、媚薬で我を失っている状態だ。オルテミアの紳士として、そんな相手に、たとえキス程度とはいえ手を出すわけにはいかなかった。
それなのに。
ちゅう、と音を立てて、エリーゼが己の唇を塞ぐギデオンの手のひらにキスをする。何度も、何度も、愛おしそうに両手で包み込みながら。
泣きそうだった。頼むから、飢えた獣に餌を与えるような、軽率な真似をしてほしくなかった。今の彼女にそんなことを言っても、理解してもらえないだろうけど。
やがて、ギデオンがいつまで経っても願いを叶えてくれないことに焦れたのだろう。エリーゼの両目から、ぽろぽろと涙が零れ出す。
「わたしのことが嫌いだから、キスしてくれないんですか……?」
「違う、そうじゃない……」
媚薬は、普段彼女が被っている殻をすべて剝がしてしまったようだ。いつものエリーゼなら決して言わないであろう言葉を、次々と紡ぎ出す。
「好きだったら、キスできるはずですよね」
とんだ論理の飛躍だ。そして信じられないほど可愛い。好きな相手が自分を思って流す涙の、なんと美しいことだろう。
「わかった、キスすればいいんだな」
気を抜けば己の中の獣が牙を剝きそうになるのを、鎖で必死に繫ぎ止め、ギデオンはエリーゼに顔を寄せた。そして、彼女の唇を塞いでいる己の手越しに、キスをする。
子供だましの方法だったが、それだけでもエリーゼにとっては刺激が強かったようだ。
「んっ……」
身を竦め、ギデオンに身体を擦り付けながら甘い声を零す。
親密な接触は、エリーゼの柔らかな肌の感触をギデオンの腕や胸板に遺憾なく伝えてきた。
(神よ……!)
ギデオンは奥歯を食い 締めながら、再び天へ祈りを捧げる。
そして、その祈りが通じたのか。
腕の中にいるエリーゼの身体から、ふっと力が抜けるのがわかった。
「……エリーゼ?」
恐る恐る声をかけると、なんと彼女はギデオンの腕の中で、気を失っていた。飲まされた媚薬の効果が強すぎて、限界を超えたのだろう。
「……ふー……」
ギデオンは何度か深呼吸を繰り返し、エリーゼの身体を自分から剝がした。そして丁寧にベッドに寝かせ、肩まで掛布を掛ける。
(助かった……)
あらゆる意味で、そう思った。
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