第41話 天誅

 空は青く澄み渡っているのに、ギデオンの心は昨日から変わらず、どんよりと曇り模様であった。

 今朝はエリーゼを避けるために仕事に行ったにもかかわらず、結局気もそぞろで何も手に付かず、早く帰宅することにした。


 屋敷に着くと、敷地内によく見知った馬車が止まっているのが見える。車体に刻まれた紋章は、杖を持つ女神――シャルウィック公爵家のものだ。

 自分の留守中、ウィルフレッドが訪ねてきたというのか。なんのために――などという愚かな疑問が脳裏をよぎり、考えるまでもなかったと思い直す。


 屋敷に足を踏み入れれば 、応接室のほうからエリーゼとウィルフレッドの話し声が聞こえてきた。家令に確認すれば 、ふたりで紅茶とパイを食べているとのことである。


「レモン・メレンゲパイだそうです」


 付け加えられた一言に、勝手に傷ついてしまう。それは自分とエリーゼの、初めての外出の際に食べた、思い出の品だった。勝手に思い出を汚され、裏切られたような気になり、身勝手なことを考えている自分に嫌気が差した。


 一体どうしてギデオンに、そんな風に傷つく資格があっただろうか。

 顔を出すべきか、それとも邪魔すしまいか。しばらく迷った末に、一応挨拶だけはしておこうと、応接室へ足を向ける。


 慣例に則るならば、未婚の淑女が異性とふたりきりになる際は、密室にならぬよう扉を開けておくべきはず だった。しかし今、応接室に繋がる扉はしっかりと閉ざされている。

 何か、嫌な予感がする。額を冷や汗が伝った、その時だった。


「やめてって、言ってるでしょ……っ!」


 ――パリンッ! ガシャン!


 エリーゼの弱々しい抵抗の声と共に、何かがぶつかって割れる大きな音が響いた。中で何が起こっているのかなど、考える暇もなかった。

 全身の血が沸騰するような錯覚を覚え 、気づけば声も掛けず、渾身の力で扉を蹴破っていた。


 バキバキッ、メキッと大きな音を立てて、扉が開く。エリーゼの上に圧しかかっているウィルフレッドを 目にした瞬間、ギデオンは我を忘れて相手に殴りかかった。

 扉を破壊した時に勝るとも劣らぬ大きな音と共に、ウィルフレッドの痩躯が驚くほど簡単に吹き飛ぶ。壁に叩きつけられた後、頭と鼻から血を出しながら床の上で完全に気絶している彼を見ても、まだ腹の虫が治まらなかった。

 けれど。


「ギデオン……さま……?」


 破れたドレスの前を合わせながら、震える声で自分を呼んだエリーゼの潤んだ水色の目を見るなり、ウィルフレッドのことなどどうでもよくなった。

 殺したい気持ちはあったが、それ以上に、エリーゼに駆け寄りたいという気持ちのほうが大きかった。


「エリーゼ、大丈夫か……!」


 はだけた身体を隠すように外套を掛け、彼女の目を覗き込む。たちまち彼女の目の縁に涙がたまり、我慢できなくなったように次々とこぼれ落ちていった。


「ギデオンさま……ギデオンさま……っ!」


 泣きながら必死で強く抱きついてくる愛しい女性を、拒絶できる男がいるだろうか。

 ギデオンは抱きつかれる強さと同じか、それ以上に強い力で、エリーゼを抱きしめ返した。

 やがて騒ぎを聞きつけた使用人たちが、ドカドカと応接室に踏み入ってくる。


「旦那さま、これは一体――」


 万一にも彼らからエリーゼが見えないよう、彼女をより強く自分のほうへ引き寄せながら、ギデオンは改めて室内の惨状に目をやった。

 テーブルの上には陶器の破片が飛び散り、床には零れた紅茶の染みが付いている。先ほど部屋の外から聞いたものすごい音は、ティーセットや皿が割れる音だったのだろう。


 そしてそんな荒れた部屋の隅で、血を流しながら倒れているウィルフレッドをぞんざいに指し示しながら、ギデオンは冷ややかな声で命じる。


「その男を縛り上げ、即刻憲兵に差し出せ」

「ですが、旦那さま――」

「早くしろ。でないと、私は自らその男に天誅を下すぞ」


 懸命に怒りを抑えた声 や、腕の中にいるエリーゼを見て、使用人たちもある程度事情を把握したのだろう。頭を下げ、気絶したウィルフレッドを運んでいく。

 ギデオンはエリーゼを外套に包んだまま抱き上げ、ひとまず彼女の部屋へ連れて行くことにした。こんな場所に置いたままでは、落ち着くものも落ち着かないだろう。


 抱き上げて移動している間、エリーゼの手はずっと、ギデオンのシャツの胸元を強く握りしめていた。そして部屋に着いてベッドに下ろしてからも、その手が離れることはなかった。

 ギデオンはベッドの端に腰掛け、エリーゼの手を握る。小さく細い手は、氷のように冷たかった。

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