第23話 淑女教育

 翌日から、エリーゼのための淑女教育が始まった。

 家庭教師を務めてくれるのは、ニコルズ夫人という厳格そうな老婦人である。元々王宮で女官を務めていたこともあるという彼女は、貴族の常識や作法に非常に詳しい。王女の教育係として適任だろうと、ギデオンが呼び寄せてくれたのだ。


 当然、エリーゼの事情を知っているということになるが、夫人はそんなことはおくびにも出さず、初対面の時から容赦がなかった。


 手始めに軽いテストを行った結果、学力は問題ないとお墨付きを貰った。元々勉強は得意だったのだ。ただ、どうしてもダンスや声楽など、エルドラン男爵家にいた頃では手が回らなかった部分もある。


「立派な淑女として人前に出られるよう、半年間、みっちり協力させていただきますわね」


 逆三角形の眼鏡をくいっと押し上げるニコルズ夫人は使命感に燃えており、エリーゼはこれから始まる特訓の日々を思って、引きつった笑いを返すので精一杯だった。


 初日はまず、歩き方の練習からすることになった。

 ただ歩くだけと侮るなかれ。踵の高い靴で、芯の通った姿勢で優雅に歩くのがどれだけ難しいことか、エリーゼはすぐに思い知らされることとなる。


「背筋を伸ばして、身体の中心に一本の棒が通っているイメージを忘れずに、体幹を意識なさってください! 歩く時の姿勢を意識すれば、お辞儀やダンスなど、すべての動作が変わりますからね!」


 見た目の印象通り、ニコルズ夫人の指導は厳しかった。

 頭の上に分厚い本を三冊も四冊も載せたまま、廊下の隅から隅まで何往復もさせられる。ぺたんこの靴で歩くのに慣れていたいたエリーゼにとって、それは中々に至難の業だった。


「くねくねしない! 視線は落とさず! 腕を大きく振ってはいけません!」


 半日ほど経ってようやく解放された頃には、足の踵部分に大きな靴擦れができるほどだった。


「つっ、かれたぁぁぁー……」


 ようやく解放された後、自室に戻ったエリーゼは靴や靴下をぽいぽいと脱ぎ捨て、ドレスのままベッドに倒れ込んだ。

 夫人が見ていれば行儀が悪いと叱られそうだが、幸いにして彼女はもう既に帰宅していてここにはいない。


「お嬢さま、大丈夫ですか? すぐに手当てをいたしますね」

「ありがとう、ヘザー……」


 身体中、使ったことのない筋肉を使いすぎてあちらこちらが痛い。顔を上げる気力もないまま礼を言えば、ヘザーが急いで部屋を出て行った気配がした。

 ごろんごろんとベッドの上で寝返りを打ちながら、楽な姿勢を探す。そうこうしているうちに扉を叩く音がしたので、てっきりヘザーが戻ってきたのかと思って、横着にも寝転んだまま返事をした。


「どうぞー」


 扉が開いた気配がする。しかしいつまで経っても、ヘザーがやってくる様子はない。

 不審に思って首だけ曲げて後ろを見たエリーゼは、そこにいた人物と目が合った瞬間に絶句して声を失った。


「ギッ……」


 衝撃に、心臓が止まりそうになる。

 ギデオンだ。ギデオンが立っている。

 なんで、どうして彼が。一体なんの用で。いや、この際そんなことはどうでもいい。

 エリーゼは今、だらしなくベッドに倒れ込んでいて、ドレスの裾は大きくまくれ上がっていて、ペチコートも丸見えで。なんなら、太腿すら見えているかもしれなくて。

 

 ギデオンもまた、みっともないエリーゼの姿を前に息を止めたように石化していた。見つめ合うふたりの間に沈黙が流れ、やがてギデオンが乱暴に視線を剥がす。


「申し訳ありません……っ!」


 よほど動揺しているのか敬語で謝った彼は、ドタドタと大きな足音を立てながら、勢いよく部屋から出て行った。

 

 エリーゼはゆっくりと、ベッドから上半身を起こす。


「っ――――~~~~~!!」


 なぜ! よりにもよって! あんな格好をしているところを見られてしまったのか! 声にならない声を上げ、そのままぽすんと枕に顔を埋めた。頬どころか、耳まで熱い。きっと熟した林檎のように真っ赤になっているはずだ。

 心臓はこれまで体験したことがないほどに早鐘を打ち、今にも胸を突き破ってしまいそうである。


 だが、いつまでもそうしているわけにもいかない。

 力の入らない足を叱咤するように立ち上がると、乱れたドレスの裾をきちんと直し、靴を履く。

 鏡を見ると、思ったとおり耳まで真っ赤に染まっていた。わかりやすく気の抜けた顔に気合いを入れるため何度か頬を両手で叩けば、少しだけ気分が落ち着くのがわかる。それでもまだ心臓の音がおさまらなかったので、深呼吸を繰り返してようやく、扉を開いた。


 果たしてそこには、エリーゼほどは動揺していないものの、居心地悪そうに佇むギデオンがいた。


「どうぞ、お入りください」

「先ほどは、大変失礼を――」

「いいから入って!」


 誰が聞いているとも分からない廊下で、その話題を蒸し返さないでほしい。思わずぴしゃりと彼の言葉を封じ込めると、彼はわかりやすく視線をさまよわせ、明らかに緊張しながらエリーゼの部屋へ足を踏み入れた。


「先ほどは、お見苦しいものを見せて大変申し訳ございませんでした……」

「いや、こちらこそ申し訳ないことをした」


 ギデオンは律儀に謝罪するが、扉をノックした彼に「どうぞ」と返事をしたのはエリーゼだ。彼が謝る必要などどこにもない。 

 それでも彼が余りに申しわけなさそうな顔をしているので、エリーゼは自分がとんでもなく悪いことをしたような気持ちになって、言葉に詰まった。

 

 短くはない時間、気まずい沈黙が流れ、やがてギデオンのほうが先に口を開く。


「足を、怪我したとヘザーから聞いた。大丈夫か?」

「えっと、ええ、はい。少し靴擦れした程度ですけれど……」


 まさかわざわざ、そのために?

 改めてギデオンを見れば、その手には救急箱が携えられていた。


「ソファに座りなさい。怪我の具合を見る」

「へっ!? ギ、ギデオンさまが……!? いえ、そういうわけには……」


 男性に素足をさらすなんて、それこそ淑女としてあるまじき恥ずかしい行為ではないだろうか。しかしギデオンはさっさとエリーゼをソファに座らせると、ドレスの裾を小さくまくり上げて足を持ち上げた。


「酷いな……。これのどこが〝少し〟だ?」

「ええと、あはは……」


 しげしげと素足を見つめられ、せっかく赤みの引いた頬が再び熱くなってくるのを、乾いた笑いでごまかす。ギデオンはそんなエリーゼの動揺に気づくことなく、救急箱から小瓶を取り出すと、蓋を開けて中身を指ですくった。半透明の白い軟膏だ。


「傷によく効く薬だ。少し痛むかもしれないが、我慢してくれ」

「あのっ、自分で……」

「いいから。軍にいたから、怪我人の世話には慣れている」


 彼はどうしても、エリーゼの言葉に耳を貸す気はないらしい。軟膏を丁寧に傷口に塗りつけると、手早く患部にガーゼを当てて包帯を巻く。

 剣胼胝のある硬い指先が足首をかすめるたび、妙な声が零れそうになるのを堪えるのに必死だった。


「っ……」

「すまない、痛いだろう」


 これは、なんの拷問だろうか。

 前に手の甲にキスされたときも感じたが、エリーゼはどうも、ギデオンに触れられるとおかしくなってしまうようだ。

 ようやく手当てが終わった頃には、唇を噛みしめ過ぎて口内に錆の味が広がっていたほどであった。

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