第12話 ただの挨拶
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その後、子供たちとなごやかな昼食の時間を終えたエリーゼたちは、後片付けの後に帰宅することとなった。
エリーゼは馬車でここまでやってきたのだが、ギデオンはひとりで馬に乗って来ていたらしい。
見事な黒馬の手綱を引きながらエリーゼの側までやってきた彼は、周囲に聞こえないよう小さな声で囁いた。
「……またグレイフィールド館で、ミス・プリムローズ」
エリーゼの片手を恭しく取ると、ごく自然な動作で腰を屈め、手の甲にそっと口づけを落とす。
やわらかな唇の感触が肌に触れる。さらりと流れた前髪が、肌をくすぐる。
伏せられた金の睫毛は長く、彼の白い頬に影を落とすほどだ。
ほんの一、二秒にも満たない時間の後、彼はすぐに離れていった。
乱れた前髪を指先で軽く正し、エリーゼの手を離す。伏せられていた睫毛が持ち上がり、その下に隠されていた海色の瞳が現れる。
その一連の動作がやけにゆっくりに見えて、エリーゼはまたたきすら忘れて釘付けになった。
「それでは、失礼する」
呆気にとられるエリーゼの前で、彼は見事な黒馬に跨がり、ゆっくりと遠ざかっていく。
ポッカ、ポッカと硬い蹄の音が鳴り響く中、エリーゼはぼんやりと佇んだまま、己の掌を見る。
(キス、された)
否、キスではない。ただの挨拶だ。紳士から淑女に対する、敬意を表わす礼。
オーエン男爵にもこれまでの婚約者にも、あるいは名前さえ覚えていない紳士にされたこともある、ただの儀礼的な挨拶。
特別な意味など何一つない、それなのに。
(うわ、うわぁぁぁ――……!)
遅れてじわじわと熱くなる頬を押さえながら、エリーゼは心の中で叫び声を上げた。
ここが自宅で、目の前に寝台か長椅子があれば、間違いなく飛び乗ってごろごろと悶え苦しんでいたかもしれない。
(すごい! とんでもない! 美形は気軽にあんなことしちゃいけないと思う!!)
ただの挨拶にも拘わらず、漏れ出る色気がすごい。
これまで四度の婚約破棄経験がある百戦錬磨のエリーゼですら、つい胸ときめかせてしまったほどだ。初々しいデビュタントのお嬢さんなど、ひとたまりもないのではなかろうか。
そんな彼の後ろ姿を見送るエリーゼの許に、そそくさと歩み寄ってくる者があった。
御者と共に待機していた、侍女のクレアである。
「お嬢さま、あの素敵な紳士はどなたですか? 年は? 年齢は? おいくつでいらっしゃるのですか?」
「クレア……それほとんど同じ質問よ」
「失礼いたしました。お嬢さまにふさわしいお相手かもしれないと思うと、つい興奮してしまって」
クレアが咳払いを落とす。
彼女はいつも冷静沈着、頼りがいのある優秀な侍女だが、エリーゼのこととなると少し見境がなくなる癖があった。
「彼は、その……領主さまの縁者のアレンビー卿よ。王都からいらしたの」
ギデオンは身分を隠してここへ来ているのだ。たとえ気の置けない侍女が相手だとしても、彼がグレイフィールド辺境伯の兄だということは、ひとまず黙っておいたほうがいいだろう。
「あの洗練された身のこなし、仕立てのよい衣服や装身具。そして馬の毛並みや色艶……。相当な資産家であることは間違いなさそうですね」
一目見ただけでそこまで確認していたとは、さすがクレアである。
彼女は更にこう続けた。
「柔らかでありながら隙のない物腰や、周囲へ視線を走らせる様子。そこそこの期間、軍に所属していた可能性があるように見受けられます」
「そ、そうなの……?」
「領主さまの縁者で、資産家で、元軍人で、しかもあのご容姿。お嬢さま、今度のお相手はあの方にしてはいかがでしょうか」
「それは無理!」
彼女がギデオンに目をつけた時から、何を言い出すか大体予想は付いていた。考えていた通りの展開に、エリーゼは間髪入れず否定の言葉を口にする。
途端に、クレアが怪訝そうな顔をする。と言っても、微かに眉が動いた程度の変化しかないのだが。
「まあ……なぜでございますか」
「ええと、それはその、ええと……。そう! あの方には奥さまがいらっしゃるのよ」
真顔で理由を問われ、エリーゼは咄嗟にそんな言い訳を口にしていた。
本当に彼が妻帯者なのかどうかはわからないが、国王の甥という立場や年代からして、もう結婚していてもおかしくはないはずだ。
実際には、公爵が田舎令嬢を相手にするはずないだとか、そもそもそういう色っぽい間柄になりそうもないだとか、色々と理由はあるのだが。
(正直にクレアに話すわけにもいかないし、こう言っておくのが一番よね)
我ながらいい言い訳を思いついたと内心で自画自賛していると、クレアが残念そうに――もちろんごく僅かに――眉を下げた。
「そうでございましたか。それでは仕方ございませんね。また夜会で、条件に合う殿方をお探ししなければ」
落胆しながら、クレアはエリーゼを馬車へ促した。
「明日は夜会がございますので、今日は早くお湯浴みを済ませて睡眠を取りませんと。睡眠不足は美肌の大敵ですから」
彼女はエリーゼの立場や考えをわかった上で、『お金持ちと結婚したい』という夢を応援してくれている。頼もしい味方だ。
クレアの手を借りて馬車に乗り込みながら、エリーゼはふと疑問に思った。
(そういえばノースフォード公爵は、どうしてこの孤児院にいらしたのかしら)
普段は王都に住まう彼が、わざわざこんな辺鄙な田舎にある孤児院を支援しにきたとは思えない。
それに院長からも、今後支援者が増えるというような話は聞いていなかった。
(……ま、いっか)
エリーゼは思考を打ち切った。
人にはそれぞれ事情があるのだし、部外者が探るようなことではないのだから。
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