第5話 弟との攻防
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そしてエリーゼの雄叫びは、ノースフォード公爵ことギデオンの耳にもしっかり届いていた。
「なんなのだ、あの娘は……!」
館内の廊下を大股で歩きながら、ギデオンは苛々と呟く。
欲深くふしだらなだけでなく、礼儀知らずの性悪とはなんとも救いようがない。
(絶対に出て行かないだと? 傲慢な悪女め!)
あれだけ脅してやったにも拘わらず怯まないとは、なんとも面の皮が厚い娘だ。
そもそも名前を偽り、平民のふりをしてまで館に潜り込む時点で相当にしたたかな性格をしているのは確かだ。
さすが、人前で『金持ち以外に興味はない』と豪語し、堂々と婚約者を袖にするだけある。
このまま館に居座り、なんとしてでも弟をものにするつもりに違いない。
(だが、この私がいるからには、断じてそのようなことは許さない! ルークの未来は私が守る!)
弟のルークは純粋で優しく、幼い頃から婚約者を大切にしてきた真面目な青年だ。
そんな彼があのような悪女の計略に引っかかるとは思わないが、相手はあのエリーゼ・プリムローズ。どんな手を使ってくるかもわからない
ルークの口にするものに一服盛って、そのまま既成事実を作る――などというおぞましい計画を練っているかもしれないのだ。
掃除中のメイドたちが無駄話に花を咲かせている場面に出くわしたのは、不幸中の幸いだった。そうでなければ、一使用人の顔になど決して目を留めなかったに違いない。
(最初は、人違いかと思ったが……)
何せギデオンが夜会で目にした男爵令嬢エリーゼと、同輩から『エリー』と呼ばれていたメイドはあまりに印象が違いすぎた。
濃い紫色のドレスは、濃紺の仕着せに。
華やかに結い上げていた薔薇色の髪は、かつらか染め粉で栗色に変化しており、白いリボンで一纏めにされている。
きつい化粧で彩っていた顔に化粧っ気は一切無く、そのせいか鋭かった目の輪郭が円みを帯びて和らぎ、昨晩より随分とあどけなく感じられた。
だが、あの空色の目だけはごまかせない。
よく晴れた日の水平線の近くに見えるような、柔らかな青い瞳。相手が相手でなければ、手放しで賞賛していたほどに美しい瞳だ。
(まっすぐに、この私を睨み付けていたな)
一部では『鉄仮面』などと揶揄されるギデオンをだ。
『世の中にはメイドの些細なミスですら赦せない主人がいるということですね。大変勉強になりましたわ、
家政婦の監督不行き届きを責めた時、エリーゼは真っ向からそう反論してきた。
凜としたその眼差しに、不覚にも一瞬目を奪われてしまったことを思い出す。
(……ばかな。この私まで、見え透いた手に乗るわけにはいかない)
エリーゼ・プリムローズは毒だ。
美しい姿で人を惑わし、少しずつ相手を懐柔し取り入ろうとする、蜜のような甘い毒。
大切な弟が少しでも蝕まれる前に、即刻彼女をこの館から追い出さねば。
本人が出て行かないと言うのなら、ギデオンにも考えがある。雇い主自ら解雇を言い渡せば、さすがのエリーゼも出て行かざるを得なくなるだろう。
そんなわけでギデオンは早速、ルークに直談判することにした。
「――あのエリーというメイドは解雇すべきだ」
「突然どうしたの、兄上。エリーはすごくよく働いてくれている。理由もなく辞めさせるわけにはいかないよ」
しかし当のルークは、困惑しきった顔をしていた。
兄心も知らず、なんと能天気な弟だろう。
ギデオンは少々焦れながら、弟の両肩を強く掴んだ。
「理由ならある!」
「ちょ、痛い痛い! 一体なんなの兄上!」
「いいか、エリーは身分と名前を偽っている。本名はエリーゼ・プリムローズ。エルドラン男爵家の長女だ。これまで四度もの婚約破棄を繰り返したとんでもない悪女で――」
「わかったわかった! 話を聞くから、ひとまず僕の肩が砕ける前に一旦離してくれない?」
訴えを受け、ギデオンはようやく彼の肩を解放した。
たった今まで掴まれていた場所を掌で摩りながら、ルークが批難がましげな目を向けてくる。
「ああ、痛かった。まったく、馬鹿力にもほどがあるよ……」
「す、すまない。だが、聞いてくれ。私の話は本当で――」
「エリーのことならとっくに知ってるよ」
こともなげに告げられた言葉に、一瞬反応が遅れた。
「……は?」
――知っている? 何を?
唖然とするギデオンに、ルークは肩を竦めながら続ける。
「本人は上手く隠しているつもりらしいけど、綺麗なアクセントで喋るし文字はすらすら読めるし、何よりあの器量だろう? おかしいなと思って調べたらすぐにわかった」
「ちょっと待て。ならば、どうしてそんな悪女を雇い続けている」
「エリーは真面目でいい子だし、働きぶりも申し分ない。母上もすごく気に入ってて、どの侍女よりも彼女を重用してるよ」
更にとんでもないことを告げられ、瞬間的に頭に血が上った。
「なん……なんだって? お前は、経歴詐称をしていると分かっていながら、あの娘を母上に近づけたのか!」
「声が大きいよ。それに母上だって、エリーの正体は知ってる」
足下ががらがらと崩れ落ちるような衝撃に、ギデオンは思わずよろめいた。
母と弟は昔からどうにもお人好しではあったが、ここまでとは思ってもみなかった。
「ルーク……。まさかとは思うが、お前、エリーゼ・プリムローズに何か特別な感情があって、母上を懐柔したわけではないだろうな……?」
「間抜け扱いはやめてくれる? 僕は社交界デビューしたての若造じゃないんだよ。大体、兄上だって身分と名前を偽って夜会に参加してたじゃないか。確か、〝領主の遠縁のアレンビー卿〟だっけ?」
「あれは、お前に迷惑をかけまいと……!」
決してよこしまな理由ではないのだ。
一応反論を試みたものの、兄の心配をよそにどこかむっとした弟の様子に、自信が揺らぎそうになる。
(私が間違っているのか……?)
否、断じて間違ってなどいないはずだ。
(しっかりしろ、ギデオン・レイノルズ! 正義は我にある!)
心の中で己を叱咤すると、ギデオンは再び弟へ訴えかけた。
「目を覚ますんだ、ルーク。エリーは、妹の婚約者を奪ったこともある悪女なんだぞ」
「さっきから悪女、悪女って。兄上は、エリーの何を知っていてそんなことを言うの。夜会での噂? 大方、アニー嬢が何か吹き込んだんだろうけど。ノースフォード公爵ともあろう者が、一方的な悪口を鵜呑みにしたってわけ?」
一瞬、言葉に詰まりかける。
確かに普段のギデオンであれば、片方だけの言い分を元にもう一方を断罪するような真似は決してしないだろう。
「だが……火のないところに煙は立たぬというだろう。ましてや私はこの目で、エリーが婚約者を貶める姿を見たのだ」
――ごめんなさい。わたくし、お金持ちの男性にしか興味がないのです。
――貧乏生活なんてまっぴらごめんですもの。お互い、新しい婚約者を探して幸せになりましょう。
泣き崩れるオーエン子爵を、冷酷に突き放す姿を。
頑なに己の主張を変えようとしない兄に、何を思ったのか。ルークはため息をつくと、諦めたように首を横に振った。
「まあ、頑固な兄上のことだから、今更僕が何を言っても聞き入れるつもりはないだろうね。だから、僕から提案がある。兄上がこの館に滞在している間、エリーの働きぶりをその目で確かめてみるといい。その上で彼女がメイドとして不適格だと感じたら、また改めてこの話をしよう」
「そんな勝手な――」
抗議の言葉は、しかし有無を言わせぬ笑みで封じられた。
「勝手で結構。この家の主人は僕なんだから、いくら兄上とはいえ、ここでは僕のルールに従ってもらうよ」
きっぱりとした言葉に、ギデオンは思った。
お前も大概で頑固だ――と。
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